リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 虚構の公演
王都中央劇場の広大な空間に、開演を告げる重厚なベルの音が三度、腹の底を震わせるように鳴り響いた。
それを合図に、平土間やバルコニー席を埋め尽くしていた数万の観衆のざわめきが、まるで潮が引くように静まり返る。無数の魔導灯が一斉に光量を落とし、劇場内は深い闇に包まれた。
それを合図に、平土間やバルコニー席を埋め尽くしていた数万の観衆のざわめきは、潮が引くように静まっていった。無数の魔導灯が一斉に光量を落とし、劇場内が深い闇に沈むと、舞台中央の集光の魔導具が一点の眩い光芒を放ち、重厚なビロードの緞帳を照らし出した。荘厳なオーケストラの調べに導かれ、幕がゆっくりと上がり始めた。
連続劇『白百合の檻と暁の星』、最終公演の開演である。
第一幕の舞台上に設えられていたのは、豪奢にして冷厳な王宮の「謁見の間」を模した巨大な大道具であった。
純白のドレスに身を包んだ「令嬢」と、彼女の手を固く握りしめる王族の証たる軍衣を纏った「王子」が、玉座に座る「王妃」に対し、二人の愛の承認を求めて深く頭を垂れている。
『王妃様! どうか、我らの真実の愛をお認めください!』
王子役の役者が情熱を孕んだ声を劇場へ響かせると、客席は一斉に息を詰めた。玉座の王妃は、その緊張を切り裂くように、夜の闇よりもなお深い威厳を纏って冷酷に首を横に振る。
『なりませぬ。王家の品位とは、千年の歴史と無謬の血統によってのみ保たれるもの。いかにそなたらが真実の愛を語ろうとも、一度は他家と婚約し、それを解消したという「傷」を持つ令嬢を我が息子の隣に置くことなど、王宮の法と秩序が断じて許しはしません』
『ですが、母上……!』
『下がりなさい。……ただし、真に王家を支える覚悟があるというのなら、王家の品位をいかにして高めるべきか、己の行動をもって示してみせなさい』
王妃の台詞は、絶対的な拒絶の中に、わずかな「情け」と「試練」の余地を残していた。その威厳に圧され、令嬢は絶望に打ちひしがれたまま、身を震わせるしかなかった。
舞台が暗転すると、場面は夜の星明かりに照らされた王宮の内庭へ移った。謁見の間を退出した二人が悲嘆に暮れるなか、令嬢は王子の腕から身を引き、その場へ崩れ落ちた。
『ああ……殿下。王妃様の仰る通りです。私のような傷を持つ女の存在が、貴方のお立場を危うくし、王家の神聖なる歴史に泥を塗るというのなら……私は喜んでこの身を引きましょう。私の愛を封じ、身を引くことこそが、王家の品位を守る唯一の道なのです』
『馬鹿なことを言うな! 貴女のそのひたむきで清らかな魂こそ、何よりも尊いのだ! 私は決して諦めない!』
愛し合いながらも身分と品位という絶対の壁に引き裂かれ、自己犠牲を選ぼうとする令嬢と、それに抗う王子。その姿に、客席のあちこちからすすり泣く声が上がり始めた。観客たちは、理不尽な権力に押し潰されようとする「真実の愛」へ完全に感情を重ねていた。
だが、その絶望の底に、一筋の光明が差し込む。
舞台の袖から、眩い銀糸のドレスを纏い、理知的な瞳を持った「公爵令嬢」――すなわち、王子の正式な婚約者役が、穏やかな足取りで登場したのである。
『ええ、諦める必要などありませんわ』
その静かな声が劇場全体へ澄み渡ると、王子は驚いたように振り返る。
『そなたは……私の婚約者。何故ここに』
『私は王家を支えるべく定められた者。殿下の悲しみは、国の悲しみでもあります。……令嬢よ、王妃様はただ拒絶されたのではありませんわ。王家の品位を「己の行動で示せ」と、その優しさゆえにヒントを与えてくださったのです。貴女は自らの不遇を嘆くばかりで、己の手にある最大の武器に気づいていないのですね』
『私の、武器……?』
婚約者役は令嬢に歩み寄り、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
それは、ただの善意ではない。大衆の熱狂をいかにして政治利用するかを説く、為政者の顔であった。
『ええ。貴女が密かに綴っていた、その美しい物語を紡ぐ「文才」ですわ。その才能を用いて、この愛の軌跡を劇の脚本として執筆するのです。そして、民衆のみならず貴族たちにも広く知らしめなさい。貴女の物語が王家の品位を広く世に知らしめる「美談」となった時……貴女は王家の品位を保ち発展させるために「必要不可欠な存在」となれるはずです』
劇中では、令嬢の感情と才能を政治的な力へ変え、大衆の支持によって王宮の秩序を外側から動かすことが鮮やかな解決策として示され、その言葉を受けた令嬢の顔に希望の光が灯る。
『私の紡ぐ言葉が……殿下を、王家をお支えする力になるというのですね。書きます、私に書かせてください!』
物語はそこから一気に加速した。巧みな魔導照明と回転舞台によって時間と事態が目まぐるしく移り、令嬢が血の滲むような思いで書き上げた脚本が舞台に掛かると、その物語は瞬く間に王都中へ広がっていった。群衆役の役者たちは、民衆ばかりか貴族までもが彼女の純愛と王家への忠誠に涙し、劇場を揺るがす喝采を送るさまを、大仰な身振りで演じてみせた。
『おお、なんという清らかな愛!』
『あのような気高き令嬢こそ、王家を支えるに相応しい!』
民衆と貴族の圧倒的な支持が王宮の厚い壁を打ち破ったところで、最終幕の舞台は再び謁見の間へ戻った。王妃が玉座から立ち上がると、先ほどまでの冷酷さはその顔から消え、高まった王家の威信を受け入れるような、深く満足げな微笑みが広がった。
『……見事です。そなたの紡いだ物語は、我が王国の民を一つにまとめ、王家の威光をかつてないほどに高めました。王家の品位とは、ただ古い血を守るだけではなく、こうして民と貴族の敬愛を集めることによっても保たれ、発展するもの。そなたこそ、次代の王を支えるにふさわしい「白百合」。その真実の愛を、この私が祝福しましょう』
王妃が令嬢の手を取って王子の手に重ねると、婚約者役の公爵令嬢も一切の嫉妬を見せず、王家の繁栄を喜ぶかのように優雅な微笑みを浮かべ、二人の背後で拍手を送る。
天から祝福の光を模した黄金の紙吹雪が舞い散り、オーケストラが歓喜のファンファーレを奏でる。
それは、大衆が最も渇望していた、「誰も傷つかず、愛と物語がすべてを乗り越える完璧な大団円」であった。
緞帳がゆっくりと下りていく中、現実の客席からは、もはや嵐のような拍手と、割れんばかりの歓声、そして感動のあまり号泣する声が劇場を揺るがしていた。
◇
だが、その熱狂の坩堝を二階の貴賓席から見下ろしながら、ヴィオラリアは扇の陰で、吐き気にも似た深い嫌悪を堪えていた。
確かに、今しがた幕を下ろした劇が描いていたのは、「慈愛と機転」に彩られた一つの美談だった。だがヴィオラリアには、それはヒルデガードがセシリアの意思を奪うために仕立てた物語にしか見えなかった。この筋書きが事実として定着すれば、セシリアが自ら望んで側妃となるという虚構だけが、王家の品位にかなう真実となる。セシリアが強制されたのだと訴える者は、王家の美談を傷つける者として排除される。
(セシリア様の意思を消し、その犠牲を王家のための献身と呼び替える。……ルナリア様が殺されたという事実が、王家の品位を守るという名目で病死へと塗り替えられた時と同じ。この劇は、この国の『歪んだ品位』そのものだわ)
だが皮肉にも、ヒルデガード自身が、この劇によって『民衆の支持を集め、王家の品位を高める結末は正しい』という基準を観客に刷り込んでいた。舞台挨拶で別の結末が示され、それが同じ熱狂に迎えられたなら、品位を至上とする彼女は、自ら作り上げた基準だけを都合よく否定できない。虚飾の劇は、その論理ごとヒルデガードへ突き返す刃となる。
(大衆は、真実の愛がすべてを乗り越えて王家の品位を支えたという劇の論理を肯定した。……ならば、その結末を丸ごと乗っ取ってあげるわ)
ヴィオラリアの碧眼に、冷徹な技術者の光が宿る。彼女はドレスの襞に隠した極小の「魔導具」に指を這わせた。
緞帳が再び上がると、劇を終えた役者たちは舞台に並び、一斉に深く礼をした。拍手が鳴り止まぬなか、役者たちを束ねる座長が一歩前へ進み出た。
「皆様、本日はこの最終公演を記念いたしまして、物語の原案者であり、王家の文化事業を後援してくださっている『特別な御方』より、直々にお言葉を頂戴することとなっております!」
座長の声を受け、二階の貴賓席でヒルデガードは立ち上がり、傍らのセシリアを見下ろした。
「さあ、行きなさい、セシリア。あの熱狂する数万の民草が、貴女の言葉を待ちわびているわ。最も美しい言葉で、第一王子殿下の傍らに仕える意思を宣言してくるのよ」
「……はい。第一側妃様」
下々の民衆がひしめく一階の舞台に自ら立つことを、第一側妃の「品位」は許さない。高みから民衆を見下ろす絶対者であり続けようとする傲慢さこそ、ヴィオラリアたちが待ち望んだ決定的な隙であった。
二人の侍女に両脇を固められ、セシリアが貴賓席を後にする。
虚飾の物語を現実へと固定しようとする第一側妃の思惑と、セシリア自身の意思によってその結末を覆そうとする者たちの反撃が、今まさに舞台の上で交錯しようとしていた。