リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 劇の強奪
万雷の拍手と歓声が波状に押し寄せ、劇場の床までもが小さく震えるなか、緞帳が再び上がった。舞台上に勢揃いした役者たちが、汗ばんだ化粧の下に達成感を滲ませて深々と一礼すると、大団円の余韻はさらに濃い熱となって劇場を包んだ。その熱狂を鎮めるように、座長が両手を掲げながら一歩前へ進み出た。
「本日は『白百合の檻と暁の星』最終公演にご来場いただき、誠にありがとうございます! 皆様、本日はこの千秋楽を記念いたしまして、本物語の原案者であり、王家の文化事業を後援してくださっている『特別な御方』より、直々にお言葉を頂戴することとなっております!」
座長のよく通る声が高らかに響くと、客席のどよめきが一段と大きくなり、期待に満ちたざわめきがさざ波のように場内へ広がっていく。
二階の貴賓席では、黄金の装飾に縁取られた一角で、第一側妃ヒルデガードが扇の陰から、眼下で人形のように硬直するセシリアを見下ろしていた。
下々の平民がひしめく一階の舞台へ自ら降り立つことを、ヒルデガードの「品位」は許さない。常に高みから命じる絶対者であろうとした結果、セシリアとの間に生じた物理的な距離こそ、離宮陣営が待ち望んだ決定的な隙であった。
眩い魔導灯が幾筋も降り注ぐ特設舞台へ姿を現した瞬間、セシリアの足はすくんだ。本来なら温かなはずの光が、今は自分を裁くための光のように感じられる。客席を埋め尽くす数万の顔と、波のように押し寄せる期待の視線は、祝福の形を取りながら、彼女に「物語の正しい結末」を強いる暴力的な圧力となって迫っていた。
少しでも期待を裏切れば、この熱狂は即座に憎悪と非難の怒号へ変わるだろう。心臓が早鐘を打ち、耳の奥では自分の血流の音だけが響いている。背後の二人の侍女も、逃亡は許さないと告げるように無言の威圧を放っていた。
(怖い……。みんな、私が『第一王子殿下をお慕いしております』と告げて、あの物語を完成させるのを待っている。ここで拒絶すれば……)
孤独と恐怖に押し潰されかけた時、魔導灯の熱気に紛れて、古い紙とインクの匂いがふいに鼻先をかすめた気がした。その匂いに導かれるように、暗い旧書庫で聞いたリーゼロッテの冷徹な声が脳裏に蘇る。
『私は貴女に、逃げ道ではなく「自分で選ぶ責任」を返します。……自分の人生を、自分の意志で通したいのなら、ご自身の言葉で宣言しなさい。狂乱の中心で、貴女自身が声を上げて、第一側妃様が作ろうとしている美しい物語を叩き壊して見せなさい』
その言葉は、優しいだけの救済ではなかった。だが、だからこそ、セシリアの凍りついた心に確かな火を灯した。
誰かに運ばれるだけの哀れな令嬢のままではいられない。実家の鎖はすでに外れた。ならば、自らの選択に伴う危険も醜聞も、すべて自らの足で背負い、この虚飾の舞台を終わらせる。本当に欲しいもののために……
セシリアは、震える両足で床を強く踏み締めた。足裏の感触を確かめるうちに、強張っていた肩からわずかに力が抜けていく。誰かに救われるのを待つのではなく、自らの選択に伴う結果を引き受ける。その覚悟を定め、第一側妃の命令を拒み、自分で選んだ帰る先を告げようと口を開いた、その瞬間。
劇場の後方扉が、蝶番ごと引き千切らんばかりの凄まじい音を立てて開け放たれた。
「やめろ、セシリア!!」
裂帛の叫びが劇場全体を震わせた。純白の正装軍服に身を包んだレオンハルトが、息を切らし、前髪を乱したまま血相を変えて劇場へなだれ込んできたのである。凛々しい正装には不釣り合いな焦燥と汗が、ここまでどれほどの距離を駆け抜けてきたかを物語っていた。
「レオン、ハルト様……!」
突然の侵入に、後方扉付近を警備していた衛兵や王都騎士たちは一斉に身構えた。だが、相手は次期元帥たるアイゼンガルト侯爵家嫡男の軍衣を纏っている。身分と品位を重んじるこの国で、一介の警備兵が侯爵家嫡男へ即座に剣を向ける判断はできず、柄へ伸びかけた手を止める者さえいた。その逡巡のため、彼らは進路を塞ぐ以上の行動に出られなかった。
その間隙を縫って、第一王子グラクトの命を受けた南の次期公爵ライオネルが、第一王子付き近衛の精鋭を率いて動いた。冷静に状況を見極めるその双眸には、一切の迷いがない。
「道を開け! だが、決して民衆には傷を負わせるな!」
ライオネルの号令は、レオンハルトを舞台へ導く命令であると同時に、近衛の力を民衆へ向けさせないための制動でもあった。セシリアが自らの意思を告げる前にレオンハルトが到達すれば、観衆の目には、彼女は再び誰かに救い出された令嬢としてしか映らない。彼女自身の選択を成立させるには、その声が先に劇場へ届く時間を確保しなければならなかった。
そのために用意されていた混乱が、近衛の進路へ流れ込んだ。
客席の通路に座っていた「ただの平民の観客たち」が、レオンハルトの登場をきっかけにして、突如として弾かれたように立ち上がり、悲鳴とも歓声ともつかない声を上げて通路へなだれ込んだのだ。
「きゃあああ! 何事!?」
「もしかして、あれも劇の続きなのかしら!?」
「危ないっ、押さないで!」
テトラの指揮下にある、海運組合の警備隊員たちによる偽装の混乱である。彼らは熱狂や戸惑いに紛れ、計算ずくで群衆の波を作り出し、ライオネルたちが作ろうとする「道」の真ん中へ意図的に入り込んだ。
正規の近衛は「民衆を保護せよ」と厳命されているため、剣を抜くことも、ただの群衆を力ずくで排除することもできない。
ライオネルは、すべてが予定どおり進んでいることを悟らせぬよう、苛立たしげに舌打ちした。近衛には盾で人垣を抑えるよう命じながら、強引な排除を避けさせることで、レオンハルトの歩みを狙いどおりに遅らせていく。
もみ合いの中、人の波に足止めを食らいながらも、レオンハルトは立ちはだかる人波を必死にかき分け、ひたすら前へ、前へと進みながら叫んだ。
「やめろ、セシリア! これ以上、お前が誰かの道具になる必要はない!」
だが、舞台の上のセシリアは、怯えることも、取り乱すこともなかった。
すでに自らの意志を固めていた彼女は、背後の侍女たちが制止しようと伸ばした手を力強く振り払った。予想外の抵抗に侍女たちの動きが止まった隙に、セシリアはまっすぐレオンハルトを見つめる。その微笑みに宿っていたのは、助けを求める弱さではなく、自分で選ぶと決めた意志と、彼への変わらぬ思いだった。
藤色の瞳に宿っていたのは、一片の迷いもない強固な意志だった。第一側妃の脅迫に屈した人形ではなく、自らの意志で運命と対峙する一人の人間が、そこに立っていた。
(……セシリア?)
レオンハルトは、その強く真っ直ぐな視線に打たれ、一瞬だけ足を止めた。彼女は自分に救われるのを待っているのではなく、自らの戦場に立とうとしている。その事実を、彼は武人の直感で理解した。
それは、これまで守るべき存在としてしか見ていなかった彼女を、対等な意志を持つ一人の人間として初めて認識した瞬間でもあった。
若き白獅子が驚愕に足を止めた一瞬、劇場中の音が消えたかのような静寂が満ちた。数万の視線を一身に集めたセシリアは、観衆へ向けて堂々と声を響かせた。
「わたくしが愛しているのは、レオンハルト様です! これが真実です。わたくしの心は、わたくし自身のものです! 誰にも支配させません。わたくしは、愛する婚約者のもとへ帰ります!」
観衆に届いたのは、恋愛劇の続きを思わせる愛の告白だった。だが、その政治的な核心は、セシリアが自分の心と進路を決める権限を自らに取り戻し、第一側妃の命令を拒絶したことにある。大衆が待ち望んだ結末を令嬢本人の意思が覆した瞬間、劇場は水を打ったような静寂に包まれた。
客席の右最後尾で、フードを深く被ったリーゼロッテが満足げに力強く一度頷くと、客席に紛れていたテトラが誰よりも早く立ち上がり、大きく両手を打ち鳴らした。
パン、パン、パン!
その乾いた拍手を合図に、平民に紛れた海運組合の警備隊員たちが一斉に続いた。先ほどまで「真実の愛がすべてを乗り越える」という劇の論理に感化されていた大衆は、一瞬の戸惑いの後、身分と周囲の圧力を跳ね除けて愛する者のもとへ帰るセシリアの選択こそが、「本物の真実の愛の結末」だと受け取った。乾いた拍手はたちまち連鎖し、堰を切ったような万雷の拍手と歓声へ変わっていった。離宮側は、その分かりやすい『真実の愛』という理解を、セシリアが選んだ進路を誰にも妨げさせないための外圧として利用した。
その熱狂は瞬く間に燎原の火のごとく、客席全体へと燃え広がっていく。
「おおおっ! なんという真実の愛!」
「騎士様、令嬢を迎えに行ってさしあげて!」
「これぞ本物の恋物語だわ!」
先ほどまでセシリアに第一側妃の筋書きを強いていた同調圧力は、彼女の選択を妨げる者を押し返す巨大なうねりへと反転した。
熱狂する歓声の中、先ほどまで近衛の進路を絶妙に塞いでいた人垣が、まるで海が割れるように左右に分かれていく。
リュートの指示を受けたテトラたちと、ライオネルが指揮する近衛が、意図的かつ極めて自然な形で「劇場出口へと続く一本の花道」を作り出したのだ。
何の障害もなくなった道を駆け抜け、レオンハルトは舞台に跳び上がり、セシリアを力強く抱きしめた。汗と焦燥の匂いのする腕の中で、張り詰めていた彼女の緊張が、ようやく緩んでいく。
「セシリア……! よく言ってくれた……!」
「レオンハルト様……っ!」
二人が抱き合う姿に、劇場は割れんばかりの歓喜に包まれた。
そのまま二人が花道を通って出口へ向かい始めると、そこに控えていたエドワルドの傍らへテトラが滑り込み、短く耳打ちした。
「……リュート様からのご指示です。『グラクト殿下に、お二人への祝福の言葉を』と」
エドワルドは即座に、その指示が求めている政治的な効果を察した。第一王子が二人の『愛』を祝福する形を取れば、民衆の熱狂を損なわずに、グラクト本人がセシリアを傍らへ留める意思を持たないと公に示せる。祝福は大衆に理解させるための外形にすぎず、実際に守るのは、セシリアが自ら選んだ帰還を妨げられずに実行できる状況だった。
エドワルドは傍らのグラクトへ向き直った。
「殿下。あのお二人を祝福して差し上げてください。理由は、後ほどご説明いたします」
グラクトは一瞬だけ怪訝な色を目に浮かべたものの、エドワルドの言葉を疑うことなく小さく頷き、彼を従えて堂々たる歩みで大衆の前に姿を現した。第一王子の登場に、劇場がさらにどよめく。
テトラが即座に拡声の魔導具をグラクトの前に配置した。次期国王としての過酷な教育を受けてきたグラクトにとって、大衆の心を掴む演説など造作もないことだった。よく通る低い声が、幾度となく鍛えられた抑揚とともに響き渡る。
「我がローゼンタリアの民よ! そして、己の心に嘘をつかず、真実の愛を貫いた気高き二人よ! この第一王子グラクト・アルバ・ローゼンタリアの名において、アイゼンガルトの若き獅子と、気高き白百合の絆を、ここに祝福しよう!」
第一王子の言葉は、民衆には二人の愛への祝福として届いた。だが政治的には、セシリアを自らの傍らへ留める意思がないことをグラクト自身が公言し、彼女が婚約者のもとへ帰る選択を認めたに等しい。これにより、第一側妃が第一王子の名を用いてセシリアの退路を塞ぐ余地は失われた。
大衆の熱狂は頂点に達し、劇場は祝福の嵐に揺れた。
その圧倒的な歓声の中、最前列で立ち上がったリュートは、二階の貴賓席を冷然と見上げた。口元に刻まれた微かな笑みを見て、隣のアイリスは、彼がどこまでこの展開を見通していたのか測りかね、胸に言い知れぬ戦慄が兆すのを覚えた。
「リュート様……あなた」
リュートは問いの続きを封じるようにアイリスへ振り返り、ただ静かな微笑みだけを返した。
二人が花道を抜けて劇場を去った直後、二階の貴賓席に仕込まれていた拡声魔導具を通じ、ヴィオラリアの澄んだ声が劇場全体へ響き渡った。静まりかけていた場内の意識が、再びその声へ引き寄せられていく。
『皆様、いかがでしたか。この物語は、真実の愛がいかなる障害をも乗り越えることを示すもの。先ほどのセシリア様とレオンハルト様の行動もまた、皆様にこの舞台が用意した贈り物でございます』
ヴィオラリアが観衆へ与えたのは、この騒動を愛の物語として理解するための説明だった。セシリアの拒絶も、レオンハルトの突入も、第一王子の祝福も、すべて最初から用意された演出として包み込めば、第一側妃は公衆の前で異議を唱えられない。否定すれば、自らが後援した劇と、その劇によって高めたはずの王家の品位まで否定することになる。
その声には一切の淀みも動揺もなく、まるで最初からそう筋書かれていたかのような自然さがあった。
『劇中では、物語の力によって真実の愛が認められました。現実におきましても、この舞台を経てさらに強固となったお二人の絆を、どうか末永くご祝福くださいませ』
愛を称える言葉で大衆の理解を一つにまとめながら、ヴィオラリアはその熱狂の内側へ、セシリアが自ら選び、自らの足で退出したという事実を守らせた。
大衆の歓声が渦巻き、黄金の紙吹雪が舞うなか、自らの策を完全に乗っ取られたヒルデガードは、腸が煮えくり返るほどの怒りを胸の奥へ押し込め、「息子の威光を高める舞台を用意した母」としての完璧な仮面を保っていた。その瞳の奥にだけ、誰にも悟らせぬ復讐の炎が静かに揺れている。
ヴィオラリアは、最後まで権威ある第一側妃の仮面を崩さないヒルデガードへ完璧な淑女の礼を執り、わずかな冷たい皮肉を含ませて告げた。
「第一側妃様。グラクト殿下が自ら祝福されたことにより、見事、王家の寛大なる品位を大衆に示すことができましたわね。……ええ、本当に。素敵な物語を、ありがとうございました」
ヒルデガードの唇には、優雅な微笑みが張り付いたまま動かない。だが扇の下で固く握り込まれた指先だけが、その静かな激情を雄弁に物語っていた。