リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
4 勝利を得た者、装う者
劇場の喧騒から遠く離れた、夜の王都を走る一台の黒塗りの馬車があった。
車体に刻まれているのは、王族の紋章。第一王子グラクトの専用馬車である。
車内は、車輪が石畳を打つ規則的な音だけが響き、重苦しい沈黙に包まれていた。座席にはグラクトと、彼の腹心であるエドワルド、そして南の次期公爵ライオネルの三名が腰を下ろしている。
深い闇に沈む車窓から視線を戻し、グラクトは対面に座るエドワルドを鋭く見据えた。
「エドワルド。……先ほど、劇場の出口で、レオンハルトとセシリアを祝福するよう進言した理由を聞こうか」
エドワルドは微塵も動揺することなく、貴族院を束ねる家系の血にふさわしい、理知的な瞳で第一王子を見返した。
「はい。……あの進言は、私の独断ではございません。独自に動いておられたリュート殿下からのご指示です。グラクト殿下ご自身を立てるための、リュート殿下なりの『援護』だったのでしょう。事実、殿下があの熱狂の中心で、侯爵家同士の愛を承認し、寛大な祝福を与えられたことで、王族としての殿下の品位と影響力は、かつてないほど高まりました。明日の朝には、王都中の貴族と平民が『グラクト殿下は海より深い度量を持った御方だ』と称賛の声を上げるでしょう」
エドワルドの指摘は、極めて冷酷な政治的現実を突いていた。
最終公演の劇場には、平民だけでなく、多くの有力貴族たちも観劇に訪れていた。あの大混乱の中、もしグラクトが沈黙を保っていればどうなっていたか。大衆の熱狂は一瞬にして王家への反発に変わり、グラクトの政治的基盤には、致命的な亀裂が生じる可能性があった。
「リュート殿下がこの絶妙なタイミングで手助けをしてきた真の目的がどこにあるのか、私にも完全には読み切れません。しかし……あの瞬間に限れば、差し伸べられた手を取ることが、これからの第一王子派に最大の利益をもたらします。私はそう判断し、殿下に進言いたしました」
グラクトは不快感を示すどころか、自嘲するように深く目を伏せた。
かつての自分であれば、他者の思惑に乗せられた事実を己の無力として受け止められず、怒りを爆発させていただろう。だが、今の彼は違う。自らが何も決断せず、ただ神輿として第一側妃の思惑に流され続けた過去の己を、彼はすでに自覚している。
それが弟の描いた筋書きの内であったとしても、最終的にあの場で王族としての責任を引き受け、二人を祝福したのは自分自身なのだ。
「構わん。結果として私は、第一王子として下すべき判断を、自らの責任で下した。あいつが私を利用したというのなら、私もあいつの策を大いに利用するまでのこと。……だが、もう一つ腑に落ちないことがある。ヴィオラのアナウンスだ。なぜあそこまで大掛かりに、あの騒動のすべてを『劇の演出』だと言い切る必要があったのか? いくらなんでも強引だろう。私の承認さえあれば事足りたはずだが」
グラクトの疑問に答えたのは、再びエドワルドだった。
「殿下。あれこそが、今回の騒動における最も周到な処置なのです。……ヴィオラリア様は、あの宣言によって、第一側妃様がこの件へ表立って介入する道を封じたのですよ。殿下もご存知の通り、今回の劇は、第一側妃様ご自身の肝煎りで開催された公式な文化事業です。ヴィオラリア様は、レオンハルト殿の乱入からセシリア令嬢の宣言まで、すべてを『劇の演出の一部』として大衆に認知させました。……もし後日、第一側妃様が『あれは反逆だ』として二人への報復に出れば、どうなるか」
そこまで言われ、グラクトはヴィオラが施した封じの意味に気づき、息を呑んだ。
「そうか……。もし母上が二人を罰しようとすれば、それは『大衆が感動し、円満にまとまった劇の結末』そのものを、主催者である母上自身が否定することになる……!」
「その通りです。王家の品位を高めるために整えた美談を主催者自ら否定すれば、第一側妃様はご自身の品位を損ないます。二人へ表立って報復すれば、劇の成功も、殿下へ向けられた称賛も虚偽であったと、第一側妃様ご自身が認めることになります。……ヴィオラリア様は、大衆の同調を品位の力として利用してきた第一側妃様を、同じ品位の論理で縛ったのです」
グラクトは窓の外を流れる王都の夜景を見つめながら、深く息を吐いた。
あのヴィオラの行動が、リュートとの連携によるものなのか、それとも彼女自身の機転によるものなのかは定かではない。だが、彼女が己の知性によって第一側妃による表立った報復の道を封じ、グラクトの立場を救ったことだけは紛れもない事実だった。
「殿下。誰がどのような意図を持っていようとも、我々は自らの道を往くまでです。今日の殿下のお姿は、間違いなく次代を担う者のそれでした」
ライオネルの言葉は、リュートの援護を恩として抱えるのではなく、第一王子派の利益として受け取り直せという意思表示でもあった。グラクトは、弟の援護を利用しても、その判断の責任は自らが負うという立場を受け入れ、無言で頷いた。
今夜の出来事によって、第一王子が母の影響下にあるという見方は崩れ始めた。その変化だけは、三人とも否定できなかった。
◇
同じ頃、王宮へと向かう別の大型馬車の中では、第一王子専用馬車の張り詰めた空気とは対極の、華やかで甘い熱気が満ちていた。
ビロードの豪奢な座席に腰を沈めているのは、第一側妃ヒルデガードと高位貴族の夫人たちである。
「ああ、本当に素晴らしい劇でしたわ、第一側妃様!」
「まさか、あのような劇的な結末が用意されているとは夢にも思いませんでした。侯爵家同士の純愛の成就……そして何より、グラクト殿下のあのお姿! 若き二人の絆に、寛大な祝福をお与えになる殿下の神々しさと言ったら。わたくし、感動で涙が止まりませんでしたわ」
夫人たちは頬を紅潮させ、扇で口元を覆いながら熱っぽく語り合っている。
彼女たちの目には、あの劇場で起きたすべての出来事が、第一側妃ヒルデガードによって計算し尽くされた「完璧な美談」として映っていた。
夫人たちの称賛の言葉を浴びながら、ヒルデガードは優雅に扇を揺らし、慈愛に満ちた完璧な「母の顔」で微笑んでいた。
「ええ、本当に。グラクトは、私が整えたあの舞台によって、王族として立派に役割を果たしましたわ。ヴィオラリア様にも、グラクトの婚約者にふさわしい役目をお与えしましたからね」
ヒルデガードの口から紡がれる言葉は、穏やかで誇らしげに響いた。手駒を失い、策を逆用された敗北を、自らの功績へ塗り替えるための政治的な偽装であった。
グラクトが築き始めた独自の基盤に、彼女は実質的に関与していない。だからこそ、グラクトが得た政治的勝利を自らの功績として語り、なお自分の庇護下にあると夫人たちへ信じ込ませようとした。
「あの子はまだまだ手のかかる子ですけれど、今夜は王家の者として民と貴族の前に立ち、自ら寛容と品位を示しました。アイゼンガルトとヴァルメイユの両家には少々過酷な試練を与えてしまいましたが、すべてはあの子の権威を盤石にするために必要なこと。母として、あの子が私の期待に応えてくれたことを誇りに思いますわ」
「まあ……! 第一側妃様は、ご自身が憎まれ役になることも厭わず、グラクト殿下のためにあのような壮大な舞台を……」
「なんという深い御慈愛でしょう。グラクト殿下こそ、次代の王に最もふさわしい御方ですわ」
夫人たちは感動の溜息を漏らし、ヒルデガードへの心酔をさらに深めていく。ヒルデガードは、夫人たちが自分の描いた物語を受け入れたと見て取ると、扇を優雅に畳み、各家の支持を求める機を逃さず一人ずつ見渡した。
「この劇の成功により、グラクトへの期待はかつてないほど高まっております。ですが、王たる器を世に確かに認めさせるまでは、まだ私が導いてやらねばなりません。……皆様の夫君におかれましても、各家を挙げて、引き続きグラクトへの変わらぬ御厚意を期待しておりますわよ」
「ええ。わたくしどもも、各家を挙げて引き続きグラクト殿下をお支え申し上げますわ。殿下のご成長を、心よりお祈りしております」
傍目には、すべてがヒルデガードの掌中にあったように見えた。グラクトの実権を握る母を装い、その権威を傷つけることなく各家の支持をつなぎ止める。それが、敗北を覆い隠すために彼女が纏った政治的仮面であった。
しかし、扇の奥に隠された彼女の双眸だけは、決して笑っていなかった。ドレスの襞に隠した左手は、爪が掌へ食い込むほど固く握られ、押し殺した屈辱と憎悪だけがその内側で煮えたぎっていた。
やがて馬車が王宮に到着し、夫人たちが名残惜しそうに第一側妃に別れを告げて去っていく。
ヒルデガードは、自らの私室へと続く豪奢な廊下を、一切の足音を立てずに歩いた。彼女に付き従う侍女たちは、主人が押し殺している怒気に当てられ、呼吸をすることすら躊躇っていた。
重厚なマホガニーの扉が開き、ヒルデガードは私室へ足を踏み入れるなり、振り返って冷酷に命じた。
「……お下がりなさい。何があろうと、私が呼ぶまで誰もこの部屋へ入れてはなりません」
「は、はいっ!」
侍女たちが逃げるように扉を閉め、広大な私室にヒルデガードが一人残された。密室に静寂が戻ると、彼女は手にしていた最高級の象牙の扇を、壁掛けの巨大な鏡へ思い切り叩きつけた。
ガシャンッ!
鋭い破砕音が私室を裂き、鏡が粉々に砕け散った。
それでも彼女の怒りは収まらない。ティーテーブルの上に置かれていた豪奢な陶器の茶器を次々と床に払い落とし、部屋中に破壊音が響き渡る。
「あの小娘……ヴィオラリア……ッ!」
押し殺していた憎悪を絞り出す声が、密室に響いた。グラクトを支配するために宰相家から奪い取ったセシリアを失った。それどころか、大衆の感情を利用して側妃入りを既成事実にするはずだった策は、グラクトとヴィオラの政治的利益へ転じていた。
激しい破壊衝動を吐き出した後、ヒルデガードは肩で息をしながら、床に散乱した破片へ視線を落とした。怒りに思考を呑まれぬよう、自分の声で事実を一つずつ確かめ始める。
「……いや。待ちなさい。あの公爵令嬢は、王妃から直々に、完璧な王妃教育を叩き込まれた女よ……王家の体面と秩序を誰よりも重んじるはずのあの子が、単なる私怨から、公式な劇の進行を独断で塗り替えるはずがない。……では、誰が彼女を動かした?」
声に出して事実を並べるうち、怒りに絡んでいた思考は一つの結論へ収束していく。王妃教育を受けたヴィオラが公式の進行を変えた以上、王家の内側からそれを求めた者がいるはずだ。
「グラクトしかいないわね。……あるいは、グラクトの意を受けたエドワルドたち第一王子派が、彼女を動かしたのだ。あの子は婚約者を利用し、見事に私の足元をすくってみせたというのね……!」
砕けた鏡の破片に映る自らの顔を見つめながら、ヒルデガードの目に昏い執着の光が宿る。あの劇場で、グラクトは間髪入れずに二人へ祝福を与えた。ヒルデガードには、それがヴィオラの演出への事後承諾ではなく、第一王子派の長として、母の介入を最初から退ける筋書きを描いていた証に見えた。
「あの子は、もはや誰かに担がれる神輿ではない。自らの足で立ち、私の手を完全に振り払おうとしている……」
大衆の感情や、宰相家の娘などという搦め手を使うからいけなかったのだ。神輿が自らの意志を持ち、自分を切り捨てようというのなら、グラクト本人を直接叩き落とし、私に縋るしかないように心をへし折るしかない。
だが、グラクトを支配するための経路はすでに失われていた。かつて後宮での力を支えたゼノビア侯爵家には、もはや彼女の影響が及ばない。宰相への支配も解け、今日、セシリアまで失ったことで、グラクトを従わせる力は残っていなかった。
ヒルデガードは力なくその場に膝をつき、粉々になった鏡の破片をじっと見つめた。グラクトを引き戻すための策は、どこにも見当たらない。このまま彼が完全に独立すれば、自分は第一王子の母という地位だけを残し、後宮で影響力を失っていく。
何か。何かないか。あの子のちっぽけな自立心をへし折り、再び私の足元に跪かせるための一手が。ヒルデガードは密室の冷たい床の上で、どす黒い憎悪と焦燥に焼かれながら、ひたすらに昏い思考の底へと沈んでいった。