リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
6 影に生きる者
春の陽が完全に落ち、王宮が冷たい夜の帳に包まれる頃。
本宮の奥底に位置する第一側妃宮の正門には、王家の紋章を戴く豪奢な大型馬車が横付けされていた。
第一側妃ヒルデガードは、侍女たちが傅く中、豪奢な夜会服の裾を翻して馬車へと乗り込んだ。手袋に包まれた指先で窓の縁を撫でながら、彼女の唇には自らを絶対の権力者と信じる者の、昏く甘い笑みが浮かんでいた。
「……随分と、大人しくなったこと」
ヒルデガードの視線の先、向かいの座席には、血の気のない精巧な人形のように俯く、セシリア・ミント・ヴェルメイユの姿があった。第一側妃宮で精神的な圧力を加え続けたヒルデガードには、虚ろな瞳のまま微動だにしないその姿が、自我を完全に砕かれた者にしか見えなかった。
「怯えることはなくてよ、セシリア。貴女は今日から、王家の血統を支える、品位ある一員となるのだから。……お父上の過ちを雪ぎ、家門を守るための、美しい自己犠牲。数万の民草が、涙を流して貴女の側妃入りを祝福してくれるわ」
ヒルデガードの言葉に、セシリアは掠れた声を機械的に返した。その反応を完全な屈服と受け取ったヒルデガードは、深く満足の息を吐いた。
これこそが「権力」の正しい在り方である。理屈などというものは、下々の者を縛るための飾りに過ぎない。王宮の真の秩序とは、絶対的な血統と品位、大衆の感情を自在に操る「権威」によってのみ保たれる。
(私の息子グラクトは、忌々しい第三側妃に溺れるという愚行に走った。……だが、それも今日で終わる)
ヒルデガードは、王都の中心にそびえる中央劇場の方向へと冷酷な視線を向けた。本日の最終公演は、自分が事前に流布させた『悲恋の王子と令嬢の純愛劇』の総仕上げとなる。舞台の熱狂が最高潮に達した瞬間にグラクトの隣へこの娘を立たせ、数万の観客が放つ同調圧力と、王家の品位という誰も抗えない権威のもとで、宰相家の娘に涙ながらの側妃入りを宣言させる。
一度その「美しい既成事実」が大衆の前で完成してしまえば、もはや誰も――たとえ王妃であろうと――覆すことはできない。アイゼンガルト家は世論によって身を引かざるを得なくなる。そしてグラクトは、再び自分という強大な母の権力の傘下で、完璧な「王」への道を歩み直すのだ。
「さあ、行きましょう。無知な大衆が、私たちの物語を待っているわ」
ヒルデガードの号令と共に、御者が鞭を振るう。第一側妃宮の警備の要であった数十人の近衛兵と高位の侍女たちが、馬車の前後を固めるようにして、王宮の正門へと重厚な足音を響かせて離れていった。
◇
豪奢な馬車が完全に視界から消えたことを確認し、本宮西翼の尖塔の影から、ひとつの黒い影が音もなく滑り落ちた。ルリカである。
(……標的、及び主力警備部隊の離脱を確認。これより、内部へ侵入する)
漆黒の隠密装束に身を包んだルリカは、春の冷たい夜風と同化するように、第一側妃宮の石造りの外壁を這い上がった。目指すのは、中庭に面した二階の窓――セシリアにあてがわれている私室である。
警備が薄くなったとはいえ、表門や正規の通路にはまだ留守を預かる近衛が残っている。だが、セシリアの私室の窓には、事前の合意通り「鍵」が掛けられていなかった。ルリカは音もなく窓枠に手を掛け、滑り込むように室内へと着地した。
月明かりだけが差し込む薄暗い部屋。ルリカは即座に周囲を警戒しながら、部屋の中央に置かれた小さなテーブルへと視線を向けた。
そこには、一輪の「白い花」が飾られていた。
(……『事情に変化なし。計画通りに遂行せよ』)
それが、セシリアが密室の中でルリカへ残した暗号であった。もし第一側妃の動向に異常があれば、花以外の物が置かれる手筈になっていた。
ルリカはその一輪の花を見つめ、静かに目を伏せた。先ほど、馬車に乗り込むセシリアの姿を遠目から確認した。その姿は、本当に自我が崩壊した人形のように見えた。第一側妃の凄絶な精神的圧力の渦中で、その仮面を一日中被り続けることがどれほどの苦痛であったか、想像に難くない。だが、この花は確かに告げている。「私は折れていない。私の意志はここにある」と。
「……貴女の覚悟、確かに受け取りました。セシリア様」
ルリカは微かに呟き、一切の感情を排した暗殺者の顔へと切り替わった。ここから先は、針の穴を通すような隠密行動が要求される。セシリアの私室の扉をわずかに押し開け、廊下の様子を窺った。
第一側妃宮の内部は、権力の象徴らしく無駄に広く、そして複雑だった。廊下の先では、留守を預かる二人の侍女が、今日の最終公演の噂話に花を咲かせていた。
「いよいよ今日ね。セシリア様、すっかり大人しくなられて」
「当然よ。第一側妃殿下に逆らえる者など、この宮にいるはずがないもの」
侍女たちが互いに顔を見合わせた一瞬、ルリカは呼吸を止め、影から影へと滑るように駆け抜けた。衣擦れの音さえ立てずに背後を通り抜け、奥の回廊へ侵入した。
ユスティナが起こした平面図にリーゼロッテが書き加えた経路が、ルリカの脳内で立体として組み上がっていた。ルリカは大廊下を避け、使用人用の隠し通路から一つ目の衣装部屋へ入った。巡回の近衛の足音が遠ざかるわずかな隙を突き、二つ目、三つ目の部屋へ移っていった。
張り詰めた緊迫感の中、やがてルリカは第一側妃の寝室の最奥――豪奢な天蓋ベッドの裏側に隠された、冷たい石造りの壁の前に到達した。壁の模様に偽装された隠し扉を指先で探り当て、静かに押し開けた。
埃一つない、人ひとりが身を動かせるほどの隠し部屋。その中央に鎮座していたのは、東部クロムハルト工房謹製『特注魔力認証型重金庫(型番漆式)』であった。
(これが、宰相家を縛る鎖……)
ルリカは装備の奥から、西の公爵令嬢ヴィオラリアが徹夜で組み上げた『共鳴解錠器』を取り出した。鈍色の小さな魔導具を、金庫の波長読み取り部へと密着させた。
――カチッ。
魔力波長を音の周波数へ変換して探る西の魔導技術が、十秒と経たずに金庫へ登録された第一側妃の波長へ同調した。重厚な鋼鉄の扉が、滑らかに、音もなく開いた。だが、その内部を見た瞬間、ルリカは冷徹な目をわずかに細めた。
「……なるほど。一筋縄ではいきませんか」
重金庫の内部には、眩いばかりの宝石類や権利書が無造作に積まれていた。そしてその奥、金庫の底面に、一抱えほどの『小さな金庫』が鎮座していたのだ。ルリカは即座に共鳴解錠器をその小金庫に当ててみたが、魔導具は一切の反応を示さなかった。
この小金庫は魔力認証ではなく、極めて複雑な物理錠と歯車機構で閉ざされていた。さらに、その底面は大金庫の鋼鉄板と特殊な鋲で完全に接合されており、揺すっても微動だにしなかった。第一側妃の病的な猜疑心が形になったような二重の守りだった。
(誓約書は、この小金庫の中……?)
ルリカは小金庫の鍵穴を一瞥し、無音での解錠を即座に諦めた。クロムハルトの特注品に仕込まれた物理錠は、専門の鍵師でも数時間を要する代物だった。そんな時間はない。残る手段は、ヴィオラリアから託された『熱腐食の魔薬』を使用することだけだった。
ルリカは小瓶を取り出し、小金庫の分厚い装甲に魔薬を垂らそうとして――ピタリと手を止めた。
(……駄目だ。魔薬の熱腐食の威力は凄まじい。この狭い小金庫の装甲を強引に溶かせば、内部に尋常ではない高熱が伝導する)
奪うべき標的は「誓約書」である。装甲を溶かし破った瞬間に内部の紙が熱で発火、あるいは炭化してしまえば、この任務を成功とは言えなくなる。小金庫の中に本当に誓約書があるという確証もないまま、中身を焼き尽くすリスクは取れない。ルリカは魔薬を持ったまま数秒だけ思考を巡らせ、紙を損なわずに回収する方法を選んだ。
(ならば、箱ごと切り離して持ち帰る)
ルリカは魔薬の小瓶を傾け、小金庫の扉ではなく、大金庫の底面と小金庫を繋ぎ止めている『接合部の鋲』に対して、慎重に一滴ずつ魔薬を垂らした。
――ジュウゥゥ……ッ!
微かな蒸発音と共に、強固な鋼鉄の鋲が泥のように溶け落ちていった。ルリカは小金庫の内部へ熱を伝えないよう、物理的な固定だけを慎重に腐食させていく。やがて四隅の接合部が完全に外れたことを確認すると、小金庫の両脇に手を掛け、一気に上方へ引き抜いた。
「……ふうっ!」
ルリカは小金庫を引き抜き、わずかに息を吐いた。だが、大金庫の扉へ手を伸ばしかけたところで、幼い日の記憶がよみがえった。ルナリア様が見守る中、幼いリュート様がリーゼロッテ様へ説いた言葉だった。
『いいかい、リーゼ。人は、目的を果たしたと思ったときにいちばん油断する。相手を思いどおりに動かしたいなら、その人が何を望んでいるかを考え、それが叶ったと思わせるんだ。そうすれば、相手は安心して、その先を確かめなくなる。宮廷では、よく覚えておくんだよ』
『では、教育係様が、わたくしにグラクトお兄様より劣っていると思わせたいのなら、わたくしがそう信じているように振る舞えば、それ以上わたくしを貶めようとはしなくなるのですね』
目的を果たしたと思った自分こそ、第一側妃が用意した結論へ誘導されているのではないか。誓約書が小金庫に入っている確証はない。ルリカは小金庫を脇へ置き、露出した大金庫の底面を改めて探った。
すると、小金庫の設置面に偽装された継ぎ目が見つかった。小金庫は開かない容器であると同時に、その継ぎ目を覆い、底板を動かせなくする重しでもあった。ルリカが底板を外すと、その下の浅い空間に、一通の古びた羊皮紙――第一側妃と前宰相の印が押された『誓約書』が、剥き出しのまま横たわっていた。
(……小金庫の中ではなく、その下に隠していた……!)
悪辣な隠し方には、第一側妃の猜疑心がそのまま表れていた。ルリカは小金庫を元の位置へ静かに戻した。鋲が溶けているため固定はされていないが、一見しただけでは分からない。
くぼみから抜き取った誓約書だけを、自らの胸元へ厳重に仕舞い込んだ。大金庫の扉を閉め、共鳴解錠器で再び施錠した。外見上は、金庫には傷一つ付いていない。第一側妃が自らあの小金庫を持ち上げて動かさない限り、誓約書の消失にすぐ気づく可能性は低い。
(任務、完了。あとは……)
ルリカは隠し部屋を後にし、再び夜の闇へと溶け込んだ。冷たい春の夜風が吹き抜ける王宮の屋根を駆け抜けながら、彼女は遠く王都の中心、数万の観客の熱狂が渦巻くであろう中央劇場の方向を見つめる。
(セシリア様。貴女を縛る『不義の鎖』は、今この手にあります。……どうか、貴女自身の声を、大衆へ、レオンハルト様へ届けてください)
ルリカの祈りは、すべてを懸けて死地へ向かったひとりの令嬢へと向けられていた。