リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第7話『賽を投じた盤面5』

5 次の一手と、王妃の釘

 

 王都中央劇場が未曾有の熱狂に包まれていた頃、王宮の最奥に位置する「離宮」は、外界の喧騒が嘘のような、冷ややかで徹底した静寂の中にあった。

 

 何重もの防音魔導と物理的な施錠が施された、離宮地下の機密室。限られた者しかその存在すら知らない絶対の安全圏に、リュート、アイリス、テトラ、そして黒ずくめの隠密装備を纏ったルリカの四人が集っていた。

 

 飾り気のない無骨な木卓の中央に、一枚の古びた羊皮紙が静かに置かれている。卓の端には、木駒がいくつか無造作に並べられていた。

 

「……警備の配置は事前の洗い出し通りでした。第一側妃が劇場へ出向いたことで、第一側妃宮の奥は手薄になっていました。いくつか仕掛けられていた罠も解除し、原本を回収しています。宰相閣下を縛っていた不義の『誓約書』です」

 

 ルリカの声には、大任を果たした直後特有の昂りなど微塵もない。離宮最強の護衛にして実務の執行者である彼女は、ただ事実のみを淡々と報告した。

 

 第一側妃ヒルデガードが、王国最高の行政官たる宰相を傀儡とし、その令嬢セシリアを人質として奪い取る根拠となった物証。それが今、完全に離宮の管理下へと移ったのである。

 

「ルリカ、見事な手際だ。危険な潜入任務だったが、これでセシリア嬢を取り巻く表と裏、両方の鎖が完全に断ち切られた。ご苦労だった」

 

 リュートは卓の上の羊皮紙を一瞥し、ルリカに深く頷いた。

 

「劇場側の群衆誘導も、予定通り完了しました。大衆の熱狂が最高潮に達するタイミングを制御し、グラクト殿下の『祝福』を合図に、海運組合の警備隊員を撤収させています」

 

 テトラが客観的なデータとして現場の推移を報告する。離宮が仕掛けた二面作戦は、情報が一切漏れることなく完璧に遂行された。

 だが、卓の向かいに立つアイリス・ルーナ・オルディナの理知的な眼差しは、目の前の戦果に満足することなく、さらに深い階層にあるリュートの思考を探り当てようとしていた。

 

「表の目的であるセシリア様の救済とグラクト殿下の品位向上、そして裏の目的であるこの物証の奪取。作戦は完璧です。……ですが、リュート様。一つだけ確認しておきたいことがあります」

 

「何だろうか、アイリス」

 

「劇場で、グラクト殿下がセシリア様たちへ『祝福』を与え、自らの意志で権威を行使した瞬間。貴方は二階の貴賓席におられる第一側妃様を見上げて、微かに微笑みました。……あれは、単に作戦の成功を喜ぶ笑みなどではありませんね。貴方の真の目的は、第一側妃様の工作の範囲を、意図的に『制限』することにあったのではありませんか?」

 

 アイリスの鋭い指摘に、リュートは表情を変えることなく静かに肯定した。

 

「アイリスの推察通りだ。今回の劇場の盤面で、僕が打っておきたかった次の一手は、第一側妃ヒルデガードの『暴走の方向』を固定することだった」

 

 リュートは卓の上に置かれた木駒を指先で動かす。

 

「現在、彼女は我々離宮という存在を勢力として認識すらしていない。リーゼや僕の容姿が王位に影響しない以上、彼女にとってはただの『無関心』の対象でしかないからだ」

 

「ええ。彼女の行動原理は、自らの権威の拡大と、その象徴たるグラクト殿下の掌握のみにあります」

 

「だが、問題はそこだ。彼女は局所的な打開策には長けているが、全体を見る視点が決定的に欠けている。自らの権威を高めるためなら、リスクヘッジの甘い無軌道な工作を王宮内で平然と乱発する」

 

 リュートの赤眼から、温度が消えた。これから数え上げるのは、母を失った経緯そのものだった。

 

「母上への殺害教唆。宰相との不貞という、兄上の血統疑惑にすら繋がりかねない致命的な愚行。そして今回、アイゼンガルト家という軍部の要を王家の敵に回しかねない、セシリア嬢の側室化。……彼女の無軌道な工作は、放置すれば第二、第三のセシリア嬢を生み、王家そのものを崩壊させ国に混乱を招く」

 

 アイリスは息を呑み、リュートが視据えている『数手先の危機』の正体を完全に理解した。

 

「……次年度、リーゼ様は王立学園に入学されます。もしリーゼ様が不在の王宮内で第一側妃様が暴走を起こせば、実力で対処できるのはルリカ様ただ一人。そうなれば、最悪の場合――」

「第一側妃を暗殺せざるを得なくなる」

 

 アイリスが言い淀んだ結論を、リュートが引き取って言い切った。その語を口に出せる者が、この部屋に一人しかいないということでもあった。

 

「母上に続き、第一側妃までもが不審な死を遂げれば、いかに病死と偽装しようとも必ず怪しまれる。そのような最悪の事態を回避するためには、彼女の工作の範囲を、我々が対処可能な領域に縛り付ける必要があった」

 

「それが……グラクト殿下への視線の集中ですね」

 

「そうだ。兄上はこれまで彼女の神輿であり、周囲の側近を固めれば自由に操れると彼女は思っていた。だが今日、兄上は自らの意志で動き、彼女の筋書きを外れた。……彼女は今、強烈な焦燥に駆られているはずだ。『兄上自身の心を直接縛り直さなければならない』と。結果として、彼女の工作と執着のベクトルは、後宮のあちこちではなく、兄上ただ一人に完全に限定される」

 

 リュートは卓上の駒を一つ、兄上に見立てた駒の隣へと移動させた。

 

「工作の対象が兄上に制限されるなら、対処は容易だ。来季、兄上はリーゼと共に学園にいる。彼女が何を仕掛けてこようと、我々のテリトリーである学園内であれば、いくらでも対応が可能になる」

 

 第一側妃の工作は、まだ離宮へ直接向いてはいない。だからこそリュートは、この一手を事前に陣営へ諮らず、自らの判断だけで打った。盤面全体のリスクを見積もる役目は、彼が一人で負っている。

 

「……なるほど。王宮内の不確定な暴走リスクを、学園という監視可能な領域へと意図的に誘導したのですね。彼女の無関心と支配欲の性質を、完璧に計算した上で」

 

 アイリスは小さく息を吐き、その恐るべきほどに冷徹で合理的なリスクコントロールに、改めて深い敬意を抱いた。

 離宮の次なる生存戦略は定まった。密室の中に、確かな共有の意志が満ちる。

 

   ◇

 

 同じ頃、王宮の重厚な回廊を、ヴィオラリア・オルネ・クロムハルトは一人、静かな足取りで歩いていた。

 向かう先は、王妃マルガレーテの私室。最終的な劇の結末の放送を行ったを行った彼女に対する、事実上の「呼び出し」であった。

 

 張り詰めた空気が漂う廊下を進みながら、ヴィオラの脳裏には、血相を変えて舞台へ飛び入り、セシリアを抱きしめたレオンハルトの姿が焼き付いていた。

 彼の中にあった迷いは、あの一瞬、完全に消え去っていた。その背中を思い返し、ヴィオラは清々しい安堵を覚えていた。彼を欺いたことに対する罪悪感など、微塵もない。

 

 数日前、離宮で、リュートからこの役割を指示された時のことだ。

 

『君には協会でレオンハルトを徹底的に突き放し、劇場の最後で、第一王子の婚約者として二人の仲を公認する放送をしてほしい』

 

 その指示を受けた際、ヴィオラは即座にその合理性を理解した。第一王子の婚約者であるクロムハルト公爵令嬢が公の場で祝福を与えれば、それが決定的な既成事実となり、第一側妃ヒルデガードに後から「不敬だ」と反撃する余地を一切与えずに済む。ヴィオラ自身も、それがこの策の最大の目的だと認識して動いていた。

 

 だが、その策がもたらした結果は、単なる盤面上の防衛策だけではなかった。生真面目なレオンハルトの心には、自分に対する負い目や遠慮といった、不器用な「感情のわだかまり」が僅かに残っていた。

 

 彼を自らの手で冷酷に突き放すという役目を全うしたことで、ヴィオラは、彼の中にあるその不要な感情を完全に断ち切らせることができた。「ヴィオラへの気遣い」を捨てさせ、ただ純粋な愛と怒りをもって、セシリアただ一人を救いに行くための引火点として彼を完成させたのだ。

 

(……リュート様。貴方は本当に、理屈の裏に不器用な配慮を隠す方だわ)

 

 ヴィオラはその策の結末を思い返し、密かにリュートへの深い感謝を抱いていた。レオンハルトの心を縛っていた過去の鎖を断ち切り、彼をセシリアの元へ真っ直ぐに走らせてくれたこと。そしてその清算の役目を、他でもないヴィオラ自身に与えてくれたことに。

 

 ヴィオラは王妃の私室の前で足を止め、小さく息を吐いて表情を引き締めると、重厚な扉に向かって静かに入室の許可を求めた。

 

   ◇

 

 王宮の中枢、王妃マルガレーテの私室。

 極限まで無駄な装飾が削ぎ落とされたその空間は、北の最前線であるアイギス公爵家の陣幕を思わせる、張り詰めた氷のような空気に満ちていた。

 

 部屋の中央で、ヴィオラは完璧な淑女の礼を執り、深々と頭を垂れていた。

 窓際に立つ王妃マルガレーテは、夜の王都を見下ろしたまま、微動だにしない。背中越しに発せられたその声は、感情の起伏を一切感じさせない、冷厳な実務者のそれであった。

 

「……見事な采配でしたわ、ヴィオラ」

 

 氷の刃のような賞賛。ヴィオラは背筋に冷たい汗が伝うのを感じながら、扇を胸元に添えて答えた。

 

「過分なるお言葉、恐悦至極に存じます、王妃様。先ほどの一連の出来事は、すべてグラクト殿下の品位をより高め、王家への揺るぎない忠誠を世に知らしめるために行ったことでございます」

「品位、ですか」

 

 マルガレーテがゆっくりと振り返る。その氷青の瞳がヴィオラを射抜いた瞬間、ヴィオラは、室内の温度が数度下がったかのような錯覚に陥った。そこには、ヒルデガードが発するような私怨やヒステリックな権力欲は一切ない。あるのは、ただ国家という巨大な機構を維持するための、為政者としての強烈な重圧だけであった。

 

「結果として、グラクトは民衆のみならず、貴族たちからの評価も劇的に向上させました。ヒルデガードの浅薄な工作を逆手に取り、見事に王家の威信へと変換したその手腕。……ええ、個人的には、あの厄介な事態を無事に治めたこと、高く評価しています」

 

 王妃の言葉は本音であった。王家の長として、事態が最悪の方向へ転がるのを防いだことは事実だからだ。

 

「ありがたき幸せに存じます」

 

 マルガレーテの歩み寄る足音が、静かな部屋に響く。ヴィオラの目の前で立ち止まった王妃は、見下ろすように冷徹な宣告を下した。

 

「ですが……第一王子の婚約者という立場にある者が、表舞台で自ら手を動かし、大衆の感情を操るような放送を行うことは、それ自体が王家の品位を著しく損なう行為です。王族が下々の者と同じ土俵に立ち、大衆の機嫌を取るために媚びを売ったも同義。王家とは、常に手の届かぬ天上の絶対者でなければならないのです」

 

 ヴィオラは息を呑んだ。王妃の眼差しは、彼女の策の「結果」ではなく、王族としての「在り方」そのものを断罪していた。

 

「……申し訳ございません。ですが、あのままではヒルデガード様の独断により、セシリア様という一人の無辜の令嬢が理不尽に消費され、王家の名が不当に利用されることになっておりました。私は、そのような歪みを正したかったのです」

「歪み。ええ、そうでしょうね」

 

 マルガレーテは静かに目を伏せ、アイギスの地を吹き荒れる極寒の吹雪を思い出すかのように、低く語り始めた。

 

「ヴィオラ。私は、現在の制度……血統と品位のみを絶対とする体制に、手放しで賛成しているわけではありません。この構造が孕む矛盾も、腐敗も、理解しています」

 

 王家の守護者たる王妃自身が、体制の不備を認める言葉。ヴィオラは思わず顔を上げそうになるのを必死に堪えた。

 

「ですが、国家とは巨大な獣です。どのような形であれ、この幾年も続いてきた制度を安易に歪めれば、その波及効果は予測不可能な領域にまで及びます。制度を変えた結果、誰が飢え、誰が死に、どの国境が破られるか。すべての影響を完璧に対処することなど、人間の業では不可能です」

 

 マルガレーテの瞳に、凄絶なまでの覚悟の光が宿る。それは、北の最前線で何万という兵士の命を預かり、死地に送り出してきたアイギス公爵家の血の叫びであった。

 

「人の手には完全な制度設計が不可能である以上、我々は今あるこの不完全な制度で、強引にでも安定を図らなければならない。その過程で、不当に虐げられ、理不尽に命を落とす『小』が出ることも知っています。ですが……大のために小を切り捨てる覚悟。それを持つ者だけが、為政者として玉座を支えることができるのです」

 

 大のために、小を切り捨てる。

 その言葉は、冷酷な響きとは裏腹に、王妃が背負ってきたおびただしい数の犠牲と血の重さを内包していた。アイギスの戦場で、村を一つ見捨てて軍の主力を温存する決断。王都の権力闘争で、王家の体面を守るために罪なき者を処断する決断。

 

「貴女のように、目前の小さな悲劇を救うために自ら手を汚し、盤面全体に予測不能な揺らぎを与えるような真似は、二度と許しません。やるにしても、自らの手は決して汚さず、人を使うことを覚えなさい。それができないのなら、貴女は次代の王妃たる器ではない」

 

 叱責ではなく、次代の王妃に課される条件の提示であった。。そこには、ヒルデガードの浅薄な自己正当化とは次元の違う、国家存亡を懸けた重みがあった。ヴィオラは深い戦慄を覚えながらも、その言葉を全身で受け止め、額を床に擦り付けんばかりにして応えた。

 

「……王妃様の深い御思慮、身に染みて理解いたしました。この未熟なる身、今後は決して自らの手を汚すことなく、精進いたします」

「良いでしょう。下がりなさい」

 

 王妃の許可を得て、ヴィオラは静かに立ち上がり、一礼して部屋を後にした。

 重厚な扉が閉まり、王妃の私室から遠ざかる廊下を歩きながら、ヴィオラは小さく息を吐き出した。冷や汗でドレスの背中が張り付いている。だが、彼女の碧眼に恐怖はなかった。代わりに宿っていたのは、極めて高度な技術者としての思索の光であった。

 

(大のために小を切り捨てる。それが、今の不完全な制度における為政者の限界……)

 

 ヴィオラは、王妃の言葉の裏にある「論理的な欠陥」を正確に読み取っていた。王妃はただ、「影響の範囲が計算できない」からこそ、安全策として「切り捨てる」という手段を採らざるを得ないのだ。

 

(もし、切り捨てられる小を『極小』にするための、完璧に計算された合理的な制度を設計できたなら? 誰がどこで不利益を被るかをすべて明文化し、計算機のように処理できる仕組みを作れたなら?)

 

 その瞬間、彼女の脳裏に、リュートが旧書庫の闇の中で紡ぎ続けている「成文法」という名の分厚い束が浮かび上がった。リュートがやろうとしていることは、単なる復讐ではない。王家という少数の人間に「誰を切り捨てるか」という裁量権を押し付けてきた、この人治国家のシステムそのものを根本から解体し、法に置き換えることだ。

 

 それこそが、王妃マルガレーテが背負ってきた「大のために小を切り捨てる」という呪いのような為政者の覚悟を、過去の遺物として終わらせる唯一の手段ではないだろうか。

 

(リュート。貴方が法で社会の構造を書き換えるなら、私はそれを稼働させるための技術的骨格を構築する。……王妃様に、もはや誰も切り捨てる必要のない、新しい国家の設計図を突きつけてやるのよ)

 

 自らの果たすべき役割を明確に自覚したヴィオラは、王宮の重苦しい闇を切り裂くように、力強い足取りで前へと進み始めた。

 

 

 

 

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