リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第8話『空白の設計者1』

1 北の血と泥の証明

 

 冬の名残を含んだ潮風が、王都の港に低く流れていた。

 接舷を終えたばかりの魔導船は、船体の航路紋章をまだ淡く明滅させている。北方航路の凍てつきを潜り抜けてきた証のように、舷側には氷の擦過痕が幾筋も走っていた。

 

 桟橋の付け根で、リュートとアイリスは一行を静かに出迎えた。荷下ろしの号令、軋む滑車、行き交う人足。港の喧騒は、いつも通りに無関心で、それゆえに好都合だった。

 

 最初に舷梯を降りてきたのは、アイギス家の跡継ぎベアトリスである。帝国皇子アレクシスの来訪に伴う謁見の儀に備え、テオドールたちと同じ船で王都へ帰還したのだった。武門の女は桟橋に降り立つと、喧騒の中でも一切崩れぬ姿勢のまま、リュートとアイリスへ向き直った。

 

「リュート殿下。アイリス嬢。……この度の東からの支援により、救われた命があった。正式に礼を。北の防衛線は、安定して維持できている。北を代表し、感謝を」

 

 人目の多い港である。物資の規格も、戦線の内情も、彼女は一言も口にしなかった。語ったのは、公の場で明かしても差し支えのない、東の支援に対する武門としての謝意だけである。それでいて、深く下げられた頭には、儀礼を超えた実感の重さが確かに乗っていた。

 

「救われた命があるのは、防衛線を支え抜いたアイギスの武あってこそです。……例年より早い王都へのご帰還は、謁見の準備のためでしょう。どうぞ、お気遣いなく」

 

 リュートが穏やかに応じると、ベアトリスは短く頷き、従者を連れてアイギス家の王都邸へと去っていった。その背中が雑踏に紛れて見えなくなるまで、テオドールは黙って見送っていた。

 

 それから、ようやく身内の時間が訪れた。

 テオドールとカイルはリュートへ歩み寄り、帰還の挨拶を短く交わした。それだけだった。前線の話は、誰も口にしない。テオドールは一歩進み出て、姉の前に立った。

 

「姉上。……ただいま戻りました」

 

 告げたのは、無事の帰還。それ以上の言葉を、彼は港では選ばなかった。

 アイリス・ルーナ・オルディナは、目の前の弟をゆっくりと見上げた。出立の朝、己の不甲斐なさを噛み殺すように唇を結んでいた、お坊ちゃん育ちの弟はそこにいなかった。頬は削げ、目元には拭いきれない疲労が沈んでいる。それでも、まっすぐにこちらを見返してくる眼差しは、別人のように据わっていた。

 

(……いい顔に、なったわね)

 

 アイリスは胸の内で静かにそう確かめ、それから、微笑んだ。

 

「おかえりなさい、テオドール」

 

 弟の成長ごと、その帰還を喜ぶ笑みだった。テオドールはわずかに目を伏せ、小さく頷き返す。

 

 彼らは、それ以上を語らない。前線の惨状も、今後の流通機構の再編も、港で口にする愚は犯さなかった。言葉少なに合流した一行は、荷揚げの列を離れ、暗躍の拠点——海運組合の執務室へと、ただちに移動を開始した。

 

   ◇

 

 海運組合本部の最奥、二重の扉に守られた執務室。

 最後の扉が閉ざされ、防音の魔導錠が低い駆動音を立てて噛み合うと、室内の空気が一段冷えた。港で封じられていたすべてが、ここでようやく卓上に載せられる。

 

 口火を切ったのは、テオドールだった。彼は立ったまま、北の任務の顛末を報告し始めた。声は淡々としていた。だがその淡々さこそが、彼の運んできたものの重さを物語っていた。

 

 魔物の侵攻を国土の外縁で堰き止め続ける、絶対防衛線。その生命線たる補給路の凍結。規格外の積雪。横転する馬車。峠で立ち往生した輸送隊と、救援に割ける人員の絶対的な不足——。そして彼は、告発した。ほかの誰でもない、己自身を。

 

「次期当主として血を流す覚悟がある。北の現実を見て、姉上と家を護る責任を果たす、と。……その覚悟は、雪山の前では何の役にも立ちませんでした」

 

 卓の縁に置かれた拳が、白く強張る。

 

「凍った峠で輸送隊が動けなくなったとき、全員を救う手段はありませんでした。物資と人員をどう割り振り直しても、全員を生かす計算は、どうしても成立しなかった。……私は『責任を果たす』と吼えていました。ですが、多数を生かすために少数を見捨てるという選択を、実際の人命を懸けた判断として突きつけられて初めて、責任の重さを知りました。覚悟だけでは、兵は救えない」

 

 それは失敗の弁明ではなく、次期当主として下した判断と、その判断によって生じた結果を自らの責任として引き受ける報告だった。テオドールは誰かへ責任を転嫁する余地を残さず、北で露呈した己の限界を差し出していた。

 

 室内の誰も、慰めを口にしなかった。この場においてそれは、彼の告発への侮辱にしかならない。

 テオドールは息を整えると、外套の内側から数枚の紙を取り出し、卓上へ広げた。幾度も引き直された線の上に、積雪を想定した注記がびっしりと書き込まれている。人が牽ける小型の橇。そして、背負子。

 

「馬車が通れぬのなら、人が運べる形に変えるしかありません。幅広い滑走板で荷重を分散し、雪に沈みにくくする。橇で運びきれない分は、人の背へ分ける。……雪の上で使うことだけを考えた、北のための運搬具です。私の無知が奪ったものを、せめて東の力で返したい」

 

 己の無知と実力不足を恥じた男が辿り着いたのは、嘆きでも、誓いの上塗りでもなく、図面だった。気高さや覚悟だけでは届かない場所を、実務と技術によって埋める。その必要を、彼は骨身で理解して帰ってきたのだ。リュートは図面へ静かに目を落とし、それから顔を上げた。

 

「……良い着眼点だ。工房で形にしてくるといい」

 

「はい。このままクロムハルト工房へ持ち込みます。図面のままでは、まだ誰も救えませんから」

 

 テオドールは一礼し、図面を抱えて執務室を出て行った。扉の向こうへ遠ざかる足取りには、出立前の彼にはなかった揺るぎのなさがあったその足音が完全に消えてから、カイルが口を開いた。

 

「補足いたします。テオドール様のご報告は、数字の上でも裏が取れています」

 

 彼が卓上に置いたのは、几帳面な字で埋め尽くされた記録の束だった。馬車が横転した地点の標高。積雪による車輪の埋没深度。気温、風速、隊列の速度低下率——北の現場で拾い上げてきた、物理的なデータの列である。

 

「横転が集中したのは、王都基準の車幅と車輪径のまま峠へ入った隊です。埋没深度が車軸を超えれば、馬の力では抜けません。つまり——王都の中央貴族が定めた平時の規格を、あの環境へそのまま強制したこと自体が、事故を増やした主要因です」

 

 カイルの報告は、テオドール個人の判断不足に加え、損耗を生み続ける構造上の原因を示していた。過酷な現場に平時の規格を押し付ける——現在の王国の統治構造そのものが孕む欠陥もまた、標高と積雪の数字によって物理的に立証されていた。。

 

 リュートは記録の束を一枚ずつ繰りながら、沈黙のうちに頷いた。責任の在処を個人の覚悟に求め続ける限り、北の雪は毎年、同じように命を呑み続ける。規格を、制度を、現場に合わせて書き換えること。テオドールの図面とカイルの数字は、その必要を過不足なく示していた。

 

 報告を終えたカイルは記録の束を整えると、部屋の隅に控えていた黒衣の人影へ視線を向けた。組合警備隊としての本来の職務へ復帰する以上、不在の間の王都を知らねばならない。

 

「ルリカ殿。留守中の治安状況を頼む」

 

 ルリカは頷き、王都の現状を淡々と引き継いだ。ゼノビア侯爵が復帰したこと。それに伴い近衛騎士団の運用が改められ、王都の治安が目に見えて改善していること。

 

 そして、帝国皇子来訪時の警備をゼノビア侯爵家が担うため、王都の警備体制そのものが再編の途上にあり、組合警備隊の任務の重心もそれに合わせて移りつつあること。カイルは要点を書き留めながら、時折短い確認を挟むだけで、余計な言葉は差し挟まなかった。

 

 引き継ぎが一区切りつくと、張り詰めていた執務室の空気が、ほんのわずかに緩んだ。リュートは卓を挟んで立つカイルへ目を向け、テオドールが去った扉を見やった後、隣のアイリスと視線を重ねた。言葉にしたわけではない。ただ、二人が生きて戻ったという単純な事実だけが、そこで初めて静かな実感を伴った。アイリスは小さく息を吐き、口元を緩めた。

 

「……ひとまず、無事で何よりでした」

「ああ。……本当に」

 

 北の血と泥が証明したものを、これからどう制度へ写し取るか。現場の現実に統治を適合させる仕事は、ここから始まる。

 

 

 

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