リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 アレクシス出立前夜の警告
帝都の夜気は、硬質に冷えていた。
皇宮の外れに位置する離宮——皇妃ソラリアの居城は、夜半を過ぎてなお、執務室の灯を落としていなかった。
その部屋には、帝国の皇妃の居室と聞いて誰もが思い描くような豪奢はない。壁面を埋めるのは膨大な書架と地図架。中央の執務卓には各地から届いた報告書が用途別に積み分けられ、封蝋の色だけが唯一の彩りだった。
実利と武威を国是とする帝国にあって、この部屋は皇妃の思想そのものを体現している。飾るのではなく、機能すること。
扉が二度、控えめに叩かれた。
「入りなさい」
入室してきたのは、第二皇子アレクシスである。夜目にも艶やかな黒髪と、灯を受けて底光りする赤眼。その一歩後ろに、影のように付き従う長身があった。
シュタインヴァルト公爵家嫡男、イザルト・バルム・シュタインヴァルト。皇子の右腕にして護衛を兼ねる男は、入室の礼を最小限に済ませると、扉の内側に静かに控えた。
明朝には、王国へ向けて出立する。その前夜の招集だった。
「皇妃陛下。お召しにより参上いたしました」
ソラリアは手元の報告書から顔を上げ、卓の向こうの椅子を視線で示した。アレクシスが腰を下ろすのを待ち、皇妃は前置きなく本題へ入る。
「ええ。……出立の前に、あなたの見立てを聞いておきたかったの。あなたが王国に行く上で、最も注視している相手は誰かしら」
「リーゼロッテ王女です。婚約交渉の相手であることを措いても、あの書簡の存在があります。あれほどの法理と統治の論理を綴る頭脳が、あの腐敗した王宮のどこにあるのか。代筆か、それとも彼女本人のものか。それを直に確かめるだけでも、この訪問には価値があります」
ソラリアは小さく頷いた。妥当な答えだ。そして、妥当であるがゆえに、彼女の問いはその先にあった。皇妃は卓上の書類の山から、ひときわ薄い一冊の綴りを抜き出し、アレクシスの前へ滑らせた。
表紙には、王国第二王子の名が記されていた。
「では——ルナリアの実子であり、我が甥であるリュートは、どう見るの」
アレクシスは綴りを開いた。数頁をめくれば終わるほどの薄さだった。生誕の記録。母の葬儀で喪主を務めたという一行。それきりである。帝国の広範な情報網をもってして、この薄さだった。
「……見立てなら、すでにあります。王国は金髪金眼のみを『光』とし、我ら帝国の血を一段下に見る偏狭な国です。彼が最高位の血筋を持ちながら無名なのは、その歪んだ血統秩序によって『影』として封殺されているからに過ぎません。政治的実権を持たぬ、無害な存在です」
筋は通っている。王国の血統主義は帝国でも広く知られ、黒髪のルナリアがあの王宮でどう遇されたかも、記録に残っている。冷遇された母の子が、冷遇されたまま埋もれる。何の矛盾もない説明だった。
だからこそ、ソラリアは静かに首を振った。
「アレクシス。その見立てこそが、王国の歪んだ尺度に毒された慢心ではないかしら」
アレクシスがわずかに目を細める。皇妃の言葉は、冷徹な論理を伴って続いた。
「確かに王国は彼を冷遇しているでしょう。けれど、ルナリアの教育を受け、我ら帝国の血を引く者が、ただ大人しく封殺されると思うの? 才があるなら、その歪んだ血統秩序に抗い、何らかの痕跡を残すはずよ。事実、使節団の前でルナリアを母と明言したリーゼロッテ王女の優秀さは、帝国にまで伝わっている。それなのに、実の息子である彼自身の公的な役目は、ルナリアの喪主を務めた一度きり。学園の役職に名を連ねてはいるようだけれど、それが実務なのか、名前だけなのかすら判別できない。能力を示していれば、何らかの噂が立つはずなのに、その噂すらひとつも聞こえてこないのよ。ルナリアを知る者はルナリアの娘を名乗るリーゼロッテの能力に納得すると同時に実施の名前がでてこないことに違和感を抱くの」
噂すら、ない。
アレクシスは綴りの薄さを思い返した。冷遇の記録ならば、ある。だが、抗った形跡も、燻る野心の気配も、才を惜しむ声も——何ひとつ拾われていない。それは「潰された者」の記録ではなく、はじめから何も存在しないかのような、奇妙に均された完全な空白だった。
「……抗う力すらない、ただの凡庸な存在だということでは?」
半ば反論として、半ば確認として、アレクシスは問うた。ソラリアはそれを明確に否定する。
「凡庸と断じるには、この空白は整いすぎています。彼は、王国が望む『無害な影』という役回りに、記録上、疑念を抱かせる綻びすら残していません。彼が優秀だとして、考えられる理由は二つよ。一つは、彼が王国の歪んだ血統主義すら隠れ蓑として利用し、自らの能力と目的を完全に隠蔽している可能性。もう一つは、王国の中枢が、彼を表に出せない特務に就かせている可能性。どちらであっても、『哀れな第二王子』などという生易しい存在ではあり得ないわ」
自らの予想を告げる皇妃の声が、低くなる。アレクシスは、しばし黙するのを見て、ソラリアは別の書類を一枚、卓上に提示する。
「理解したようね。ここに、彼が動いたわずかな記録があるわ。東、西、南、北、それぞれの公爵家に赴いたという事実。しかし、そこから得られた成果については何も記されていない。……けれど、事象を組み合わせれば別の絵が見える」
ソラリアの指先が、報告書の一点を示す。
「例えば、彼が南のヴィルノールに赴いた直後、王都で食糧価格が深刻な暴騰を見せたわ。そして、それは短期間で沈静化した。王国の公式発表では、この功績は第一王子グラクトのものとされている。グラクトの進言を受けた国王が特権状を与えていた海運組合に南から食糧を運ばせたとね」
ソラリアはそこで言葉を区切り、アレクシスを射抜くように見つめた。
「これまで、南の食糧は陸路で王都へ運ばれていた。命令を一つ下しただけで、短期間のうちに王都全域の食糧不足を補い、価格の暴騰を鎮められるはずがないでしょう。前提として、海運という巨大な輸送基盤がすでに確立され、港まで食糧を運ぶ経路の整備と、魔導船の手配が終わっていなければ不可能な手品よ。しかし、それ以前には、そのような大規模な基盤整備の兆候が一切表に出ていなかった。……不自然だと思わないかしら」
(——私は、考えることをやめていたのか)
自覚は、冷水のようにアレクシスの背筋へ落ちてきた。
『王国の歪んだ体制に潰された哀れな王子』。それは王国側が用意した——あるいは、リュート自身が偽装した——あまりにもっともらしい説明だった。筋が通っているがゆえに、それ以上を疑う必要はないと、アレクシスは判断していたのだ。
グラクトの功績とされる事象の裏にある、物理的な準備期間の矛盾。巨大な物流インフラを無音で構築し、都合の良いタイミングで稼働させ、しかもその手柄を次期王に譲って己は完璧に姿を消す。
王国の有力者を見定めるとき、自分は最初から、その最も異質な一人を考慮の外へ置いていたのだ。
もっともらしい説明が与えられている場所でこそ、思考は止まる。敵地の情勢を読むと嘯きながら、その初歩を踏み外していた己の死角に、アレクシスは奥歯を噛み締めた。
「……姿を見せて動く者より、自ら進んで気配を消す者の方が恐ろしい」
「ええ、その通りよ。見えない相手ほど、足をすくわれかねない。見えないものを評価することはできない。立てられるのは予想だけで、しかも、見えない以上、すべての可能性を拾い切ることは不可能よ。自分にはすべてが見えているという奢りは捨てなさい」
ソラリアは燭台の炎へ視線を流しながら告げた。その声には、皇妃としての冷徹な警告と、妹をあの王宮で喪った姉としての、凍てついた実感とが同居していた。
「肝に銘じます。学園ではリーゼロッテに接触します。——そのうえで、リュートが被る『完璧な影』という仮面の下に、何を隠しているのか。必ず暴いてご覧に入れましょう」
「ええ。……気をつけて行きなさい。期待しているわよ」
退出の礼をとるアレクシスの後ろで、イザルトが音もなく扉を開く。廊下へ出る間際、アレクシスは右腕に、短くも有無を言わせぬ命令を下した。
「イザルト。王国の資料を洗い直す。出立までに、リュートに関わるものはすべて卓に載せろ。——空白も含めてだ」
「は。空白の形も、極めて雄弁な情報のうちですので」
主従の足音が遠ざかり、執務室にはふたたび、紙と封蝋の匂いだけが残された。ソラリアは卓上に残された薄い綴りへ目を落とし、その表紙を指先で静かになぞる。
(ルナリア……あなたの息子は——どちらなのかしらね)
問いに答える者のない帝都の夜が、出立の朝へ向けて、静かに深まっていった。