リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

384 / 384
第9話『設計者の輪郭1』

1 蜘蛛の布石

 

 謁見の間の喧噪は、三つの廊を隔てた側妃の私室までは届かなかった。届かないはずのその喧噪が、しかし、ヒルデガードの耳の奥では鳴りやまずにいた。

 

 宴の支度に沸く王宮の遠いざわめきを背に、第一側妃は窓辺の椅子へ腰を下ろしたまま、長いこと動かずにいた。侍女たちはすでに下がらせてある。広い私室に残っているのは、部屋の隅で気配を殺して控える、最も年若い侍女だった。

 

 新しく掛け替えられた壁の鏡が、燭台の光を静かに返している。この部屋で先代の鏡を砕いた、あの夜の自分を、ヒルデガードはよく覚えていた。あのときは、まだ怒りだった。砕くだけの力が、腕に残っていた。それが今は、扇を持ち上げる指の一本すら、ひどく重い。

 

『皇妃陛下は、妹君の忘れ形見を——常に、気にかけておいでだ』

 

 謁見の間に朗々と響いた皇子の声が、耳の奥で幾度でも繰り返される。ファブリス帝国、シュタインヴァルト公爵家。皇妃ソラリアの、実の妹。あの黒髪の側妃が背負っていた血の正体を、ヒルデガードは今日の今日まで知らずにいたのだった。

 

 あの言葉が広間へ落ちた瞬間、ヒルデガードの手の中で、扇がひとりでに音を立てて閉じていた。誰かに見られたかどうかを確かめる余裕さえ、あのときの彼女にはなかった。閉式ののち、私室までの長い廊下を、彼女はただ前だけを見て歩き通した。すれ違う誰の顔も、見ることができなかったからである。

 

 知らなかった、という言い訳が、帝国に通じるはずもない。自嘲は、笑いの形にすらならなかった。ヒルデガードは乾いた唇を開き、誰もいない空へ向けて、低く言葉を落としていく。

 

「……事実だけを、並べましょう。ルナリアは死んだ。その死には、わたくしの手が届いている。そして——ルナリアは、帝国皇妃の実の妹だった。ここまでが、動かぬこと」

 

 声は、震えなかった。震えなかったことだけが、今のところ唯一の救いだと思いながら、彼女は続けた。

 

「ここから先は、推測。……ですが、外れようのない推測ですわ。真相が帝国の耳へ届けば、皇妃は許さない。そうなれば王家は——国を守るために、側妃のひとりくらい、迷わず差し出すでしょうね。大のために小を切る。それが、この王宮の理ですから」

 

 言い終えて、彼女はゆっくりと目を閉じ、それから開いた。

 

「……結論は、ひとつ」

 

 ようやく持ち上げた指が、文机の抽斗へ伸びる。取り出したのは、まだ封じてもいない数枚の書付だった。各所へ張り巡らせた糸の、次の指示。派閥の縁を軋ませるための、小さな細工の数々。彼女はその一枚一枚を燭台の火へかざし、灰皿の上で、燃え尽きるまで指を離さなかった。炎が指先を炙る熱さすら、今夜ばかりは、まだ生きているという証のように思われた。

 

 工作は、すべて止める。攻めの糸も、守りの棘も、何もかもを畳み、表向きは完全な白旗を掲げて、「王家の結束」に誰よりも従順な側妃の顔で息を潜める。それが、事実と推測の先に残された、ただひとつの結論だった。最後の一枚が灰へ変わるのを見届けても、しかし、ヒルデガードの目までは死んでいなかった。

 

(——けれど。目まで潰して冬を越せた者を、わたくしは知りませんのよ)

 

 牙を折ることと、盲になることは違う。嵐の中でうずくまるにしても、風の向きだけは読み続けねばならない。では、これからの風は、どこから吹くのか。

 次の力の中心は、考えるまでもなかった。グラクト。あの子はもう、担がれるだけの神輿ではない。劇場の夜がそれを万人へ示し──そして今日の謁見が、その盤へ手を伸ばす自由を、わたくしから奪った。けれどグラクトへ通じていた糸は、ことごとく切れている。

 

 ゼノビア侯爵家は離れ、宰相の鎖は解け、セシリアは失われた。残された接点を探して彷徨う思考は、やがて、劇場の夜のもうひとつの光景へ辿り着く。

 あの夜、進行を塗り替える放送を流し、グラクトの祝福と寸分違わず噛み合ってみせた婚約者。表の場で初めて形になった、グラクトとヴィオラリアの内々の連携。次の御代の枢要が編まれていくのなら、その最も近くに立つのは、あの小娘をおいて他にいない。

 

(憎いか、ですって。ええ、憎いとも。……けれど今は、憎しみより先に、目が要りますの)

 

 ヒルデガードは椅子をゆっくりと回し、部屋の隅の暗がりへ、初めてまともに視線を向けた。

 

「……あなた」

 

 呼ばれた少女は、衣擦れの音ひとつ立てずに歩み出て、完璧な淑女の礼を執った。年の頃は、まだあどけなさの残る境だというのに、伏せた睫毛の角度から指先の高さまで、礼の形にひとつの緩みもない。かつてセシリアへ施したものと同じ——庇護欲を誘い、人の情を操るための教育を最後まで修めきった、ただ一人の逸材である。他の侍女を下げ、この娘だけを部屋へ残したのは、むろん偶然ではなかった。

 

「あなた、来季から入学でしたわね」

「はい、第一側妃様」

 

 澄んだ声が、静まり返った私室へ落ちる。ヒルデガードは畳んだ扇を膝の上へ置いたまま、命を下した。

 

「学園でヴィオラリアの侍女として潜り込みなさい。『第一側妃様に命ぜられ、お役目を果たせねば厳しい罰を与えられる』と涙ながらに訴えれば、彼女は無下に追い返すことはできません」

 

 少女の睫毛が、ほんのわずかに上がった。潜り込めと言いながら、差し向けた者の名を、こちらから明かす——その設計の意味を娘が測り終えるより早く、ヒルデガードは続けた。

 

「あの娘は、虐げられる者に弱い。第一側妃の名を出して助けを乞う哀れな娘を、追い返せる性根をしておりませんの。よしんば断られたとしても、あなたには縋る理由が立ちます。付き纏おうと、涙を見せようと、責められるのは命じたわたくしであって、あなたではない。……そして表向きには、婚約者殿へ『人を使う教育』を差し上げる、側妃の善意ですわ。嫌がらせと取られましょうけれど、外面は立ちますもの」

 

 それは命令というより、一篇の脚本だった。娘がどの場面で泣き、どの言葉で縋り、断られたあとにどう振る舞うか——その先の先まで、逃げ道と言い訳の形があらかじめ編み込まれている。少女は脚本を静かに呑み込み、それからただ一点だけを、確かめるように問うた。

 

「……お側へ上がりましたのちは、何をご報告すればよろしいですか」

「見たまま、聞いたままを。欠けても、盛ってもなりません。判断は、わたくしがいたします」

 

 問いはそれきりで、少女は床へ吸い込まれるように深く、頭を垂れた。

 

「必ず、ヴィオラリア様のお側へ上がり、ご報告に参ります」

 

 合意の上で交わした魔法契約が、この娘の忠誠を根の部分で縛っている。裏切りの芽は、契約を結んだその日に摘み終えていた。ゆえにヒルデガードは、駒の心の色までは検めない。検められないその内側で、少女が何を燃やしているのかも、また。

 深い一礼の陰、伏せた睫毛の下で、少女の瞳は静かに光っていた。

 

(ヴィオラリア様の懐へ入り込み、その信頼を勝ち得れば……いずれは未来の王子の守役。後宮と王宮を、裏から牛耳ることも夢ではありませんわ)

 

 涙と哀れみ。貴族の世で最も古く、そして最も検められにくい武器を、自分は誰よりも正しく使いこなせる——その自負だけを胸の奥に畳み、少女は退出の礼を執った。敷居を跨ぐ間際、一度だけ振り返って主へ向けた眼差しは、忠実な駒のそれとして寸分の疵もなく——その疵のなさこそが、この娘の底を誰にも測らせずにいる。足音もなく扉が閉じ、その音は、ほとんど聞こえなかったほどである。

 

 残されたヒルデガードは灰皿の灰へ目を落とし、それから、新しい鏡の中の自分と向き合った。白旗の下に、目をひとつ。冬を越す支度としては、それで足りる——足りるのだと、信じるほかになかった。

 

   ◇

 

 同じ宵、王宮の別棟にある魔導卿の執務室は、側妃の私室の静けさとは似ても似つかぬ活気で満ちていた。

 卓上に広げられているのは、今宵の宴の席次と、帝国使節への贈答の目録である。魔導卿は目録の一点を扇の先で押さえ、集った身内の若手たちへ向けて、機嫌よく講じていた。

 

「第二王子の血が何色であれ、国と国を結ぶのは、結局のところ家格と友誼よ。帝国とて、人の国。人と家の理で動く。宴の一夜は十年の外交に勝る——今宵が、その一夜だ」

 

 本日の謁見の一幕についても、この部屋の解釈は明快だった。第二王子が皇妃の甥であったならば、両国の縁はいっそう太い。縁が太くなれば、友誼の値も上がる——結構なことではないか、と魔導卿は笑い、取り巻きたちも声を揃えて笑った。動じる理由など、彼らの理の内には最初から存在しないのである。

 

 贈答の順と紹介の段取りが、淀みなく固められていく。その流れの合間に、若手のひとりが遠慮がちに口を挟んだ。念のため、側妃がたの動きやヴィオラリア様の周辺にも、人を置いてはいかがかと。

 魔導卿は扇を小さく鳴らし、その進言を風のように払った。

 

「側妃がたの手遊びに付き合う暇はない。ヴィオラリア様の周りとて同じことよ——グラクト殿下のお側には、我らのリーデルがいる。それで足りよう」

 

 進言した若手は首をすくめて列へ戻り、その代わりのように、名を呼ばれたリーデルが末席から胸を張って進み出る。まだ若いその顔には、家格への自負が艶のように乗っていた。

 

「お任せください、閣下。宴では、帝国の方々との橋渡し、この私が承ります。……王国の品位というものを、かの国の若い皇子にも、しかとお教えして差し上げましょう」

「うむ。家格に相応しい振る舞いを、な」

 

 満足げな笑声が卓を囲み、杯が軽やかに触れ合った。同じ宵、廊のいくつか向こうで何が燃やされ、どのような密命が下されたのかを気に掛ける者は、この部屋にはひとりとしておらず、席次と贈答の話だけが、宴の刻限へ向けて機嫌よく続いていくのだった。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

IR情報で読み解くダンジョン経済学(作者:カトーユキヒロ)(オリジナル現代/戦記)

ダンジョン出現に伴う大災害で両親を失い、底辺探索者として泥水にまみれる日々を送る青年・湊 陽太。▼彼の目的はただ一つ。ダンジョン由来の不治の病“魔素不適応症”に苦しむ妹を救うこと。だが、唯一の治療法である純水は、特権階級と巨大企業に独占され、底辺には手の届かない超高級品だった。▼絶望的な状況の中、陽太は気づく。▼ギルドで買い叩かれているゴミ素材が、実は規格外…


総合評価:314/評価:7.56/連載:66話/更新日時:2026年07月29日(水) 08:00 小説情報

ベルリク戦記 ー 戦争の生涯 ー (作者:さっと/sat_Buttoimars)(オリジナルファンタジー/戦記)

 ベルリクは好んで譲らず先頭に立って突撃する指揮官の鑑。知恵と勇気に優れる。▼ 戦争の狂気に浸っては平和を好まず、日頃から総力戦体制の構築に勤しんで先制攻撃を尊ぶ。▼ 身一つから成り上がっては世界を股にかけて歴戦の仮借なき軍勢を送り込み、やがては史上最大の殺戮破壊者へ至るだろう。▼ この世界に国際条約は存在せず、大義や国益があっても正義や悪に容赦や人権は無い…


総合評価:508/評価:8.59/連載:291話/更新日時:2026年07月28日(火) 17:39 小説情報

プリミティブ・プライメイツ ~暴君転生~(作者:翠碧緑)(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

気が付くと、俺は人間と魔族が争うクソみたいな世界で、赤ん坊として捨てられていた。▼孤児院で育ち、飢えと貧困に耐える日々。▼そんな中、外見の特徴を理由に貴族に拾われる。▼どうやら俺の血には「特別な何か」が混じっているらしい。▼理不尽(暴力)。▼理不尽(陰謀)。▼そして、逃れられない理不尽(因果)。▼それでも、俺は生きることを諦めない。▼「そっちがそう来るなら、…


総合評価:6394/評価:9.17/連載:136話/更新日時:2026年06月28日(日) 20:09 小説情報

銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜(作者:パラレル・ゲーマー)(オリジナル現代/冒険・バトル)

ブラック企業で心身をすり減らした元社畜は、並行世界の地球軌道上に浮かぶ完全ステルス要塞〈サイト・アオ〉で目を覚ました。▼彼の新たな肉体は、銀河帝国の最高権力者のスペアとして培養された完全無欠のクローン「ティアナ・レグリア」。神のごとき超能力と超絶テクノロジーを行使し、広大な銀河での大冒険すら早々に「クリア」してしまった彼は決意する。▼「宇宙の覇権とか面倒くさ…


総合評価:2339/評価:6.77/連載:180話/更新日時:2026年07月09日(木) 17:16 小説情報

【朗報】転生したら世界帝国の伯爵令息でした(作者:昼夜健康)(オリジナルファンタジー/日常)

【悲報】貴族の仕事は二十四時間、365日休みなしでした▼定時退社を愛する現代人が転生したのは、世界帝国ヴァルティアの伯爵家長男。▼広い屋敷、使用人、貴族の食卓。かわいい妹に婚約者、これは勝ち組転生では?▼……と思ったら、長男なので家督も領地も家名も全部背負うらしい。▼しかも貴族に退勤時間はない。▼ならば現代知識でチートを決めて、効率化してスローライフだ!▼そ…


総合評価:1850/評価:8.26/連載:29話/更新日時:2026年06月29日(月) 11:05 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>