リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
1 蜘蛛の布石
謁見の間の喧噪は、三つの廊を隔てた側妃の私室までは届かなかった。届かないはずのその喧噪が、しかし、ヒルデガードの耳の奥では鳴りやまずにいた。
宴の支度に沸く王宮の遠いざわめきを背に、第一側妃は窓辺の椅子へ腰を下ろしたまま、長いこと動かずにいた。侍女たちはすでに下がらせてある。広い私室に残っているのは、部屋の隅で気配を殺して控える、最も年若い侍女だった。
新しく掛け替えられた壁の鏡が、燭台の光を静かに返している。この部屋で先代の鏡を砕いた、あの夜の自分を、ヒルデガードはよく覚えていた。あのときは、まだ怒りだった。砕くだけの力が、腕に残っていた。それが今は、扇を持ち上げる指の一本すら、ひどく重い。
『皇妃陛下は、妹君の忘れ形見を——常に、気にかけておいでだ』
謁見の間に朗々と響いた皇子の声が、耳の奥で幾度でも繰り返される。ファブリス帝国、シュタインヴァルト公爵家。皇妃ソラリアの、実の妹。あの黒髪の側妃が背負っていた血の正体を、ヒルデガードは今日の今日まで知らずにいたのだった。
あの言葉が広間へ落ちた瞬間、ヒルデガードの手の中で、扇がひとりでに音を立てて閉じていた。誰かに見られたかどうかを確かめる余裕さえ、あのときの彼女にはなかった。閉式ののち、私室までの長い廊下を、彼女はただ前だけを見て歩き通した。すれ違う誰の顔も、見ることができなかったからである。
知らなかった、という言い訳が、帝国に通じるはずもない。自嘲は、笑いの形にすらならなかった。ヒルデガードは乾いた唇を開き、誰もいない空へ向けて、低く言葉を落としていく。
「……事実だけを、並べましょう。ルナリアは死んだ。その死には、わたくしの手が届いている。そして——ルナリアは、帝国皇妃の実の妹だった。ここまでが、動かぬこと」
声は、震えなかった。震えなかったことだけが、今のところ唯一の救いだと思いながら、彼女は続けた。
「ここから先は、推測。……ですが、外れようのない推測ですわ。真相が帝国の耳へ届けば、皇妃は許さない。そうなれば王家は——国を守るために、側妃のひとりくらい、迷わず差し出すでしょうね。大のために小を切る。それが、この王宮の理ですから」
言い終えて、彼女はゆっくりと目を閉じ、それから開いた。
「……結論は、ひとつ」
ようやく持ち上げた指が、文机の抽斗へ伸びる。取り出したのは、まだ封じてもいない数枚の書付だった。各所へ張り巡らせた糸の、次の指示。派閥の縁を軋ませるための、小さな細工の数々。彼女はその一枚一枚を燭台の火へかざし、灰皿の上で、燃え尽きるまで指を離さなかった。炎が指先を炙る熱さすら、今夜ばかりは、まだ生きているという証のように思われた。
工作は、すべて止める。攻めの糸も、守りの棘も、何もかもを畳み、表向きは完全な白旗を掲げて、「王家の結束」に誰よりも従順な側妃の顔で息を潜める。それが、事実と推測の先に残された、ただひとつの結論だった。最後の一枚が灰へ変わるのを見届けても、しかし、ヒルデガードの目までは死んでいなかった。
(——けれど。目まで潰して冬を越せた者を、わたくしは知りませんのよ)
牙を折ることと、盲になることは違う。嵐の中でうずくまるにしても、風の向きだけは読み続けねばならない。では、これからの風は、どこから吹くのか。
次の力の中心は、考えるまでもなかった。グラクト。あの子はもう、担がれるだけの神輿ではない。劇場の夜がそれを万人へ示し──そして今日の謁見が、その盤へ手を伸ばす自由を、わたくしから奪った。けれどグラクトへ通じていた糸は、ことごとく切れている。
ゼノビア侯爵家は離れ、宰相の鎖は解け、セシリアは失われた。残された接点を探して彷徨う思考は、やがて、劇場の夜のもうひとつの光景へ辿り着く。
あの夜、進行を塗り替える放送を流し、グラクトの祝福と寸分違わず噛み合ってみせた婚約者。表の場で初めて形になった、グラクトとヴィオラリアの内々の連携。次の御代の枢要が編まれていくのなら、その最も近くに立つのは、あの小娘をおいて他にいない。
(憎いか、ですって。ええ、憎いとも。……けれど今は、憎しみより先に、目が要りますの)
ヒルデガードは椅子をゆっくりと回し、部屋の隅の暗がりへ、初めてまともに視線を向けた。
「……あなた」
呼ばれた少女は、衣擦れの音ひとつ立てずに歩み出て、完璧な淑女の礼を執った。年の頃は、まだあどけなさの残る境だというのに、伏せた睫毛の角度から指先の高さまで、礼の形にひとつの緩みもない。かつてセシリアへ施したものと同じ——庇護欲を誘い、人の情を操るための教育を最後まで修めきった、ただ一人の逸材である。他の侍女を下げ、この娘だけを部屋へ残したのは、むろん偶然ではなかった。
「あなた、来季から入学でしたわね」
「はい、第一側妃様」
澄んだ声が、静まり返った私室へ落ちる。ヒルデガードは畳んだ扇を膝の上へ置いたまま、命を下した。
「学園でヴィオラリアの侍女として潜り込みなさい。『第一側妃様に命ぜられ、お役目を果たせねば厳しい罰を与えられる』と涙ながらに訴えれば、彼女は無下に追い返すことはできません」
少女の睫毛が、ほんのわずかに上がった。潜り込めと言いながら、差し向けた者の名を、こちらから明かす——その設計の意味を娘が測り終えるより早く、ヒルデガードは続けた。
「あの娘は、虐げられる者に弱い。第一側妃の名を出して助けを乞う哀れな娘を、追い返せる性根をしておりませんの。よしんば断られたとしても、あなたには縋る理由が立ちます。付き纏おうと、涙を見せようと、責められるのは命じたわたくしであって、あなたではない。……そして表向きには、婚約者殿へ『人を使う教育』を差し上げる、側妃の善意ですわ。嫌がらせと取られましょうけれど、外面は立ちますもの」
それは命令というより、一篇の脚本だった。娘がどの場面で泣き、どの言葉で縋り、断られたあとにどう振る舞うか——その先の先まで、逃げ道と言い訳の形があらかじめ編み込まれている。少女は脚本を静かに呑み込み、それからただ一点だけを、確かめるように問うた。
「……お側へ上がりましたのちは、何をご報告すればよろしいですか」
「見たまま、聞いたままを。欠けても、盛ってもなりません。判断は、わたくしがいたします」
問いはそれきりで、少女は床へ吸い込まれるように深く、頭を垂れた。
「必ず、ヴィオラリア様のお側へ上がり、ご報告に参ります」
合意の上で交わした魔法契約が、この娘の忠誠を根の部分で縛っている。裏切りの芽は、契約を結んだその日に摘み終えていた。ゆえにヒルデガードは、駒の心の色までは検めない。検められないその内側で、少女が何を燃やしているのかも、また。
深い一礼の陰、伏せた睫毛の下で、少女の瞳は静かに光っていた。
(ヴィオラリア様の懐へ入り込み、その信頼を勝ち得れば……いずれは未来の王子の守役。後宮と王宮を、裏から牛耳ることも夢ではありませんわ)
涙と哀れみ。貴族の世で最も古く、そして最も検められにくい武器を、自分は誰よりも正しく使いこなせる——その自負だけを胸の奥に畳み、少女は退出の礼を執った。敷居を跨ぐ間際、一度だけ振り返って主へ向けた眼差しは、忠実な駒のそれとして寸分の疵もなく——その疵のなさこそが、この娘の底を誰にも測らせずにいる。足音もなく扉が閉じ、その音は、ほとんど聞こえなかったほどである。
残されたヒルデガードは灰皿の灰へ目を落とし、それから、新しい鏡の中の自分と向き合った。白旗の下に、目をひとつ。冬を越す支度としては、それで足りる——足りるのだと、信じるほかになかった。
◇
同じ宵、王宮の別棟にある魔導卿の執務室は、側妃の私室の静けさとは似ても似つかぬ活気で満ちていた。
卓上に広げられているのは、今宵の宴の席次と、帝国使節への贈答の目録である。魔導卿は目録の一点を扇の先で押さえ、集った身内の若手たちへ向けて、機嫌よく講じていた。
「第二王子の血が何色であれ、国と国を結ぶのは、結局のところ家格と友誼よ。帝国とて、人の国。人と家の理で動く。宴の一夜は十年の外交に勝る——今宵が、その一夜だ」
本日の謁見の一幕についても、この部屋の解釈は明快だった。第二王子が皇妃の甥であったならば、両国の縁はいっそう太い。縁が太くなれば、友誼の値も上がる——結構なことではないか、と魔導卿は笑い、取り巻きたちも声を揃えて笑った。動じる理由など、彼らの理の内には最初から存在しないのである。
贈答の順と紹介の段取りが、淀みなく固められていく。その流れの合間に、若手のひとりが遠慮がちに口を挟んだ。念のため、側妃がたの動きやヴィオラリア様の周辺にも、人を置いてはいかがかと。
魔導卿は扇を小さく鳴らし、その進言を風のように払った。
「側妃がたの手遊びに付き合う暇はない。ヴィオラリア様の周りとて同じことよ——グラクト殿下のお側には、我らのリーデルがいる。それで足りよう」
進言した若手は首をすくめて列へ戻り、その代わりのように、名を呼ばれたリーデルが末席から胸を張って進み出る。まだ若いその顔には、家格への自負が艶のように乗っていた。
「お任せください、閣下。宴では、帝国の方々との橋渡し、この私が承ります。……王国の品位というものを、かの国の若い皇子にも、しかとお教えして差し上げましょう」
「うむ。家格に相応しい振る舞いを、な」
満足げな笑声が卓を囲み、杯が軽やかに触れ合った。同じ宵、廊のいくつか向こうで何が燃やされ、どのような密命が下されたのかを気に掛ける者は、この部屋にはひとりとしておらず、席次と贈答の話だけが、宴の刻限へ向けて機嫌よく続いていくのだった。