リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 「規範」の在り処
宴までの半刻を、王宮は忙しなく費やしていた。回廊を行き交う侍従たちの足音も、遠い厨の気配も、すべてが夜へ向けて速まっていく。王女の遣いに導かれて進むアレクシスの歩みだけが、その流れと逆向きに、静かな棟の奥へと分け入っていった。
部屋は、拍子抜けするほど静かだった。 中庭に面した窓から、暮れかけの光が薄く差している。卓には白い布と、茶器がふた組。飾りらしい飾りは、活けられた小ぶりの花くらいのもので、昼間の出迎えを彩った「今の帝国式」の趣向は、この部屋のどこにも見当たらなかった。
(……舞台は、畳んだか)
アレクシスは席へ着きながら、その簡素さの意味を測った。見せるための場ではない、ということだ。ならば、何の場か。謁見で王宮の思惑を崩した直後の招きである。抗議か、懐柔か、あるいは探りか——道中で立てた予測は、その三つのどれかに収まるはずだった。
従者は互いに扉の前へ下げてある。卓を挟んで向かい合う饗応役の王女が、自らの手で茶を注ぎながら、ごく当たり前の口調で言った。
「格式のないお席で、恐れ入ります。宴までのお疲れ休めと思し召しくださいませ。……文でのやり取りばかりでしたから、一度、こうしてゆっくりお話ししてみたかったのです」
「奇遇だな。俺も、同じことを考えていた」
湯気の立つ茶碗が、音もなく彼の前へ置かれる。文、と彼女は言った。幾往復も重ねられてきたそれは、婚約交渉の名で数えられこそすれ、中身は一通ごとが法理の問答で埋まっていた。
愛の言葉も、時候の挨拶さえ最小限に切り詰められ、残りのすべてが制度の底を抉る問いと答えに費やされている。
並の姫なら大人へ添削を仰ぐほかない難度の論にも、あの返書はいつも、迷いなく答えてきた。ゆえに、検めねばならなかった。あの論理の主は本人か、それとも王宮が仕立てた代筆か。
それを口にするより早く、リーゼロッテのほうが先に、静かに切り込んできた。
「アレクシス殿下。我が国の『品位』という規範について、殿下はどのようにお考えですか?」
問いの角度に、アレクシスはわずかに眉を動かした。社交の型ならば、避けて通る主題である。謁見での一撃のあとなら、なおさらだ。それをこの王女は、茶を注ぎ終えた手つきのまま、真正面から卓へ載せてきた。
「……それは、饗応役としての問いか。それとも」
「わたくし個人の、興味ですわ。この席に、記録の筆はございませんもの」
柔らかな即答が、席の性格を定めてしまう。ならば、と皇子も型を捨てた。
「率直に言わせてもらえば——人を裁く根拠になり得ない、恣意的なものに過ぎない、と考えている」
無礼と取られても構わない答えを、あえて選んだ。その答え自体が、相手の反応から書簡の主を見定めるための答え合わせでもあった。怒るか、怯むか、それとも社交の笑みで受け流すか。
リーゼロッテは、そのどれでもなかった。微笑を少しも崩さぬまま茶碗を手に取り、続きを促すように問い返してくる。
「恣意的、とは手厳しゅうございますこと。品位は、上位者を傷つけず、統治者の価値を認めるという、明確な規範ですわ。……では殿下、帝国の規範は、どのような根拠で成り立っているのですか?」
(——受けて、返してきた)
守るのでも、退くのでもない。こちらの断定を、品位が担う機能へ引き戻したうえで、間を置かず、帝国の規範が立つ根拠を問い返してくる。書簡の筆致と、同じ呼吸だった。これほど自然な応酬は、型だけで身につくものではない。アレクシスは茶を一口含み、卓へ戻してから答える。
「制限を課すだけの合理性だ。その場において、大多数の帝国民が自己の能力を最大限発揮できる状況を作れるかどうか。それが帝国の規範の根拠である。……その物差しで測るなら、貴国の品位は有害ですらある。上位者への配慮や忖度という規範は、相手の身分によって結果が変わる。それでは相手の顔が見えない取引において『予見可能性』を著しく損ない、結果として人々の行動を制限する。能力ある者が上位者に忖度しなければならない環境は、決して能力を最大限発揮できる状態とは言えない」
「まあ。……けれど殿下、それは少し、王国に厳しすぎるお見立てですわ。顔の見えない相手を信じるために、この国では家名が、信用の担保を務めてまいりましたのよ。殿下のおっしゃる予見可能性を、血統が肩代わりしてきた——そうは考えられませんこと?」
旧い体制の側に、あえて立ってみせる問い方だった。アレクシスは茶碗へ伸ばしかけた手を止め、正面から受けて立つ。
「担保が担保として働くのは、家名と中身が一致している間だけだ。一致が外れた瞬間、その規範は人を欺く道具になる。……そして身分の規範は、実体を伴わない担保を市場から退場させる仕組みを、持っていない」
「退場の、仕組み」
繰り返した声はわずかに低くなり、茶碗へ添えた指が一瞬だけ止まった。しかし次に顔を上げたときには、彼女はもう元の柔らかな微笑へ戻っている。
予見可能性。帝国の法家が使う、堅い言葉である。並の令嬢が相手ならば、ここで問答は一度途切れる。言葉の意味を測るための沈黙が、どうしても挟まるからだ。しかし、リーゼロッテは、沈黙しなかった。
「予見可能性——先が読める、ということでございますね。明日も同じ物差しで測られると、名も知らぬ相手を、誰もが信じられること」
「……その通りだ」
正確に、噛み砕いてみせた。それも、法家の講釈ではなく、市井の商人の実感へ寄せた言葉で。アレクシスの相槌がわずかに遅れたのは、正しさに驚いたからではない。翻訳の向きに、驚いたからだった。 彼女は茶碗を静かに皿へ戻し、言葉の意味をすでに掌の上で転がし終えた者の顔で、ゆっくりと頷いてみせた。
「なるほど。……規範というものは、『場』によって変えることができる、ということですね」
「……ほう?」
「王宮の規範は品位のままであっても、巷の規範を、殿下のおっしゃるような『予見可能性のある合理的な規範』にすることも可能ということ。自分の能力に合う場を選べば、その場の規範こそが、その者の従うべきものとなるのですね」
卓の上では、注がれたばかりの茶が冷めていくのも忘れられていた。アレクシスは、すぐには答えなかった。答えられなかった、と言うほうが正確である。
いま彼女が口にしたのは、彼の反論の要約ではない。彼の論を丸ごと呑み込んだ上で、彼自身もまだ言葉にしたことのない一段先——旧い体制を壊さぬまま、『場』を切り分けることで無力化する、という統治の設計図だった。
そして、指先で茶碗の縁に触れたまま、皇子はひとつの違和感を拾い上げていた。いまの言い回しを、彼女は王宮を守る側の発想としては口にしなかった。規範を受け入れる側でも、押し付けられる側でもなく——場を切り分け、規範を使う側の目で語った。その意図まで確かめるには、この半刻はあまりに短い。
こちらの論理を一度で吸収した速さは、書簡の向こうで幾度も感じた手応えと重なっていた。今日この席のために仕込まれた応答ではない。まだ結論を急ぐまいと自分へ言い聞かせながらも、皇子は頷かずにはいられなかった。
「……ああ。その通りだ。実際、我が帝国でも、玉座の前の謁見においては、巷とは異なる独自の規範が存在するからな」「まあ。では帝国も『場』を分けていらっしゃるのですね」
リーゼロッテはさも愉しげに目を細め、それから、窓の外の暮れ色をちらりと確かめた。潮時の測り方まで、澱みがない。
「ありがとうございました。異なる知見を拝聴できて、勉強になりましたわ。……そろそろお時間です。歓迎の宴へ向かう頃合いですわ」
「名残惜しいな。……この続きは、次はこちらから問いを持って来よう」「楽しみにしております。それまでは、また」
立ち上がった王女は、完璧な礼をひとつ残し、衣擦れの音だけを連れて部屋を出ていく。扉が閉じ、冷めた茶の残る茶碗がふたつ、卓に残された。
アレクシスは背もたれへ体を預け、彼女の消えた扉を眺めながら、道中で立てた三つの予測を順に破り捨てた。抗議でも、懐柔でも、探りですらない。あれは、こちらの持つ最も硬い論理を引き出し、受け止め、より遠くへ投げ返すために設けられた、半刻の問答だった。
しかも席を設けたのも、話頭を選んだのも、幕を引いたのも、最初から最後まで彼女である。主導権は、一度としてこちらへ渡っていなかった。
(代筆などでは、あり得ない)
書簡の圧倒的な知性は、間違いなく、あの王女自身のものだ。答え合わせを終えた胸に残ったのは確信と、彼自身にも覚えのある、抑えがたい知的な昂ぶりだった。あの頭は、この品位の国で、いったい何を組もうとしているのか。
宴の始まりを告げる鐘が、遠くで鳴り出していた。今宵の最初の舞の相手は、彼女である。答え合わせのつもりで席に着き、気づけば問答そのものに没頭していた——そういう半刻を、アレクシスは久しく持った覚えがなかった。
帝都の学者も、廷臣も、皇子の論へは頷くところから入る。真正面から受けて、より遠くへ投げ返してくる相手というものを、彼は玉座の周りで見たことがない。
(……面白くなってきた)
アレクシスは冷めた茶を一息に干して、立ち上がった。卓の隅の小さな花が、暮れ残りの光の中で、主の去った席をまだ飾っていた。