リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 求愛という宣戦布告
歓迎の宴の広間は、謁見の間とは打って変わって、暖かな光と管弦の音に満たされていた。
昼の帝国式の簡素さはここでは影を潜め、代わりに王国の富が惜しみなく示されている。無数の魔導灯が天井の金泥を照らし、卓を埋める料理からは湯気が立ち、貴族たちの礼装が光の中で色を溶かし合っていた。
ただし、その華やかさを支える段取りには、無駄が一つもない。見せるべきものを見せ、動かすべき人を動かす——昼から夜へと衣装を替えても、この宴を組んだ手の癖は変わらずそこにあった。
最初のダンスは、主賓と饗応役から始まる。差し出されたアレクシスの手に、リーゼロッテが自らの手を重ねた瞬間、広間のざわめきがひとつ、低くうねった。帝国の皇子の黒と、王国の王女の淡い色彩。
ついさきほど謁見の間へ挑発を投げ込んだ当人が、いま何食わぬ顔でパートナーと拍子を踏もうとしている。誰もがその一組から目を離せずにいた。
壁際からダンスを見守るイザルトも、その一人だった。杯を手に柱の陰へ身を置き、主と王女の踏み出しを、社交の笑みの下でひたすら見つめていた。囁きは、この距離では聞こえない。
だが、肩の張り、指のかかり、視線の逃げ場——言葉にならぬ徴の一切を拾い上げるのが、彼の役目だった。あの空白の隣に誰が立つのかを見極める前に、まずは主自身が仕掛けるこの一戦を、余さず記録しておかねばならない。 弦の一音を合図に、二人は流れ出す。
(——ほう)
最初の一歩で、アレクシスは内心に小さな感嘆を灯した。彼がこのダンスで検めようとしていたのは、茶会で確かめた「知性」ではない。
人の上に立つ者に欠かせぬもう一つの資質——大衆を惹きつけ、場を支配する品性のほうだった。論理がいかに切れても、それだけでは玉座の前の一歩は踏めない。その一歩を、リーゼロッテは危なげなく踏んでいた。
足の運びに澱みはなく、視線の配り方は広間の隅々まで行き届いている。ターンの合間に卓の脇の老貴族と一瞬だけ目を合わせ、労うようにわずかに頷いてみせる。それだけで、言葉を交わされもしなかった老貴族が誇らしげに背を伸ばした。広間の反対側では、談笑に興じていた夫人たちがダンスに気づいて口をつぐみ、いつしか見惚れている。
皇子の手を取って進むその姿は、居並ぶ貴族の目を自然と惹きつけ、なお誰ひとり不快にさせない絶妙な位置を、途切れず保ち続けていた。
書簡の知性が代筆でなかったように、この振る舞いもまた、付け焼き刃では決して身につかぬ種類のものだ。知性に、品性まで揃っている——アレクシスは満たされた気持ちで、腕の中の王女を見下ろした。
見下ろされている当のリーゼロッテもまた、このダンスを測る側に立っていた。皇子がこちらの品性を検分しに来ていることは、最初の一歩で知れている。
ならば見せてやればいい、と彼女は思う。人を惹きつけるための表層なら、いくらでも差し出せる。その代わり、その奥にあるものは、指の一本ぶんも渡さない。見られてよいものだけを見せ、心の底だけは伏せておく——茶会でそうしたように、このダンスでも、どこまで明かすかを決めるのは彼女自身のはずだった。
その見下ろした先で、リーゼロッテの微笑がほんの一瞬だけ揺れた。揺らしたのは、至近で自分を導く皇子の顔立ちだった。闇のように濃い黒髪と、灯を吸って底光りする赤い瞳。それは、彼女が世界で最も敬い、最も執着する人の色と——あまりにも、同じだった。
お兄様。
いつも見ているあの背中。この世で唯一、彼女が理屈抜きで敬い、理屈抜きで守りたいと願う人。常は論理で幾重にも固めているはずの胸の奥から、その面影が不意に立ちのぼり、彼女の完璧を、瞬きひとつぶんだけ内側から押した。
どこまで見せるかは自分が決めると信じていたのに、心は思いがけず綻びを露呈した。皇子の顔立ちひとつに、まさかお兄様を重ねて動じるなど——理屈で武装した彼女自身が、最も予期していなかった隙である。
ダンスは、止まらない。足はひとつも乱れなかった。ただ、瞳の奥にだけ動揺が走った。だが、その一瞬を、アレクシスは見逃さなかった。
人の弱点を嗅ぎ当てることにかけて、この皇子の嗅覚は常軌を逸している。完璧に武装された王女の、鎧の継ぎ目がいまわずかに覗いた——そう悟った瞬間、彼の中で見抜いた者の愉悦が、狩人の衝動へと姿を変えた。ここだ、と。ここを突けば、あの澱みない論理が初めて崩れる、と。
ステップが二人を近づけた拍で、アレクシスは顔を寄せ、リーゼロッテだけに届く低さで囁いた。息のかかる距離の、甘やかですらある声。だが、その言葉は甘くなかった。
「気に入った。これほどの知性と品性を持つお前が、この腐敗した王国に埋もれているのは、大いなる損害だ。……お前の心を、本気で奪いに行かせてもらう」
それは、愛の告白の形をした宣戦だった。 理屈で理屈を崩せぬなら、『感情』という搦め手から防壁を穿つ。茶会で一度も主導を渡さなかった王女が、たった一度だけ瞳を揺らした。その隙を執拗に押し広げ、鎧の奥に隠されたものを暴くことこそ、皇子の狙いであり、彼なりの意趣返しだった。
効果は、覿面だった。 想定していなかった角度からの一撃に、リーゼロッテの白い頬へ、みるみる朱が上る。伏せられた睫毛が震え、握られた手のひらがわずかに強張った。
論理では武装できても、こうした情の不意打ちに対しては、彼女はまだ——ただの少女だった。人としての弱さが、鎧の隙間から確かに露わになった一瞬である。
だが、リーゼロッテは、そこで折れなかった。朱の差した頬のまま、彼女は荒ぶる胸の内を強引に手綱で締め上げた。
(——愚かなこと。お兄様と、この男を、一瞬でも同じ天秤に載せるなんて)
湧いた熱を、彼女は自らの内で切って捨てる。目の前の男の色にお兄様を見たのは、ただ視神経が引き起こした過ちにすぎない。過ちと名がついたなら、二度と繰り返さぬよう仕舞い込むだけのことだった。ひとつ、深く息を継ぐ。
次の拍が来るころには、彼女はもう顔を上げていた。頬の赤みだけを残し、瞳には元の澄んだ光を取り戻して、何事もなかったかのように完璧な笑みを張り直す。足取りは寸分の狂いもなく拍へ重なり続け、彼女はそのまま、皇子のエスコートを受けて優雅に舞い納めてみせた。
その立て直しの、常軌を逸した速さ。 崩れた鎧を、周囲に悟らせぬ間合いで組み直してのける手際に、アレクシスの愉悦はいっそう深まった。ダンスの最後の一歩、彼女を支えてターンさせながら、皇子は再び毒を含んだ声を耳元へ落とす。
「純朴だな。……だが、その切り替えの早さは、更に気に入った」
この王女を気に入ったのは、嘘ではない。知性も、品性も、純朴な一瞬さえも、彼の興を惹いてやまない。だが、その好意の根には、拭いようのない捻れがあった。
人の弱みを見抜き、そこを執拗に突き、鉄壁の論理が音を立てて崩れるさまを見て初めて満たされる——アレクシスという男の本質は、そういう底意地の悪い攻撃性にこそ宿っている。好意と悪意は、彼の中では別のものではなかった。同じ衝動の、表と裏だった。
柱の陰のイザルトは、二人の間に起きた変化を、声のない徴だけで読み取っていた。頬に上った朱と、それを間を置かず覆い隠した笑みまでは見えたが、囁きの中身までは知りようがない。
それでも、主が何かを仕掛け、王女が一度は揺れながら即座に立て直したことだけは、その身のこなしが余さず語っていた。あの気配のない第二王子とは、まるで質の違う手応えだ——王女は、突けば確かに応える。
だが、応えたと見えた次の刹那には、もう元の冷静さへ戻ってしまう。イザルトは杯の縁へ口をつけながら、その厄介さを主へ伝えるべき所見として胸に刻んだ。
ダンスが終わり、二人は微笑を交わして離れる。 広間の貴族たちの目には、それは非の打ちどころのない、優雅な王侯のロマンスとしか映らなかった。帝国の皇子と王国の王女。一対の見事な華が、初めての宴で早くも心を通わせ始めたのだ、と。
だが、その華やかな一組の内側で交わされていたのは、まるで別種のものだった。片時も皇子へ主導を渡すまいと踏みとどまる王女と、好意と悪意を綯い交ぜにして彼女の感情を暴き立てようとする皇子。一歩も引かぬ二人が、微笑の下で演じていたのは——精神の支配権を賭けた、静かで残酷な奪い合いにほかならなかった。
拍手が広間を包み、次の曲へ向けて楽が調子を変えていく。エスコートを解いたリーゼロッテは、饗応役の顔へ完璧に戻り、次の組を舞へ導くべく身を翻した。頬の朱は、もうどこにも残っていない。
その澄まし切った横顔を見送りながら、アレクシスは口の端にわずかな笑みを刻む。今宵の一戦は、まだ端緒にすぎなかった。滞在は続く。彼女へ別の仕掛けを試す機会は、これから幾らでも訪れる。
次に広間の中央へ進み出たのは、次期王と、その婚約者の一組であった。皇子は、次の組をダンスへ導くリーゼロッテをなお視野の端に留めたまま、静かにその一組へ目を向けた。