リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
4 次期王の覚悟
二曲目の弦が広間へ流れ出すのと同時に、グラクトとヴィオラリアは中央へ進み出た。
金の髪をひとつに結わえた次期王と、同じ金に碧の瞳を添えた婚約者。並び立つだけで絵になる一対を、貴族たちは満ち足りた目で眺めやった。
先の劇場でひとつに描かれた二人が、こうして宴の場でも寄り添ってみせる——王家の未来はつつがない、と誰もがそう読み取り、安堵の吐息を洩らす。けれど、差し出された手を取り合って踏み出したその二人が、拍の下で交わそうとしていたものは、睦言のたぐいでは断じてなかった。
グラクトが口を開くより先に、ヴィオラリアは彼の佇まいの変化を読み取っていた。背の伸ばし方が、以前とは違う。母の影に半ば身を預け、誰かの指図を待っていた頃の、あの頼りない揺らぎがない。ダンスのリードにも迷いはなく、自らの意思で一歩ずつ踏んでいることが、重ねた手のひらから伝わってくる。劇場の夜を境に、グラクトは変わった——その予感を、彼女はすでに確信へ変えていた。
「まず、礼を言わせてくれ。先の劇場でのあの采配……レオンハルトへの配慮も含めて、君が動いてくれたおかげで、私は面目を保てた。心から感謝している」
その声には、以前の彼にはなかった率直さがあった。ヴィオラリアは相手の手に添えた指先の力を変えぬまま、静かに首を横に振ってみせる。
「お礼を仰るほどのことでは。……わたくしは、虐げられる者の辛さを、己の意思を通せぬ者の苦しさを、この身で知っておりますから。ただ、それを見過ごせなかっただけですわ」
その言葉には、別の意味も込められていた。意思を通せぬ者。自由を奪われる者。それは、自分自身がいずれ王妃という檻へ入れられることへの、控えめでありながら切実な拒絶でもあった。
しかし、グラクトはその意図を読み取らず、彼女の言葉を劇場の一件への謙遜として受け取り、小さく頷いただけだった。
拒絶の意図が伝わらなかったと見て、ヴィオラリアは本題へ移る。ステップが二人を寄せた拍を選び、周囲には聞こえぬ声量で問うた。
「それより、殿下。わたくしがお出しした『宿題』に、答えは出せましたか? ……派閥を作ろうとなさっているご様子。ならば、レティシア様のことは、どうなさるおつもりですの」
核心を突かれても、グラクトは目を逸らさなかった。
「レティシアのことは……ヴィオラ、君がオセロ協会の職に就けて匿ってくれたと聞いた。私が自ら動くことはできなかったから、正直、助かった」
労いに似た言葉のはずが、続けたヴィオラリアの声は、氷を含んで低く沈む。
「ええ。ご自分で動かれなかったのは、賢明でございました。もし殿下ご自身がお動きになっていれば……いまごろ、大変なことになっていましたわ。第一王子がひとりの女に執心していると露見すれば、それだけで格好の弱みになりましたもの。ましてレティシア様は、庇護なくば、たやすく攫われ、他家の政略の道具にもされかねない御立場。あの方をオセロ協会の一職員として迎えたのは、殿下のお名を一切表に出さず、あの方をお守りするためですのよ」
宿題、と彼女が呼んだのは、まさにこの一点だった。想う相手をどう守り、どう迎えるか——そこに次期王としての算段が伴わなければ、その想いは即座に敵の刃へと化ける。冷たく事実だけを置いたその言葉に、グラクトは一度、唇を引き結んだ。それから、自らの非力を認める者の顔で、まっすぐに言い切る。
「わかっている。私は、非力だ。……だが、はっきりさせておきたい。私はレティシアが欲しいのであって、意のままになる人形が欲しいわけではない。だからこそ、私自身が力を付けて、私の手で彼女を迎えられるようにならねばと考えている」
その言葉の底には、劇場の夜に焼き付いた一つの光景があった。周囲の思惑も自らの立場もかなぐり捨て、ただ想う女を抱き締めるために舞台へ駆け上がった、レオンハルトの背中。あの男は、誰かの指図を待たず、自らの手で己の想いを掴み取った。
あれを目の当たりにして、王家の神輿に甘んじてきた我が身を、グラクトは初めて心底から恥じたのだった。
舞のかたちを崩さぬまま、彼はほんのわずかに顔を寄せた。
「ヴィオラ。君の意向も聞かせてほしい。……これは、君の将来にも関わる話だからな」
その一言に、ヴィオラリアは思わず目を見開いた。
王家の神輿であることを疑いもせず受け入れ、母の描いた筋書きの上を漂うだけだった、かつてのこの人。それが今は、一人の男として自らの足で責任を引き受け、自分の望みが婚約者の将来を左右すると認めたうえで、彼女自身の意向を問うている。その姿は、劇場の夜の変化が一過性のものではなかったことを、確かに告げていた。
驚きを一拍で仕舞い、彼女は静かに応じる。
「……その覚悟、しかと承りました。改めて場を設けて、本音で話したいと?」
「ああ、そのつもりだ」
「わかりました。ですが——学園に戻るまで、殿下にもわたくしにも、腰を据えて語らう自由な時間などありはしないでしょうね」
言い交わしながらも、しかしヴィオラリアは、彼を手放しで称えることをしなかった。芽生えたばかりの覚悟が、最も試される場所を、彼女はもう見据えている。ターンで一度離れ、再び手を取り合った拍に、彼女は最も鋭い刃を、静かに滑り込ませた。
「ときに殿下。アレクシス殿下については、どうなさるおつもりですの」
「……帝国の、皇子か」
彼女は、微笑を保ったまま、言葉の刃をひときわ深く沈めた。
「ええ。ルナリア様の一件が万が一にもあの方の耳へ届けば、それはもはや派閥争いなどでは済みません。王国の存亡そのものにまで、発展しかねませんもの。……責任を持つと仰るのは、結構なことですわ。けれど……その『責任の取り方』だけは、二度と、お誤りになりませんように」
それが何を指しているのか、グラクトに分からぬはずがなかった。
あの夜、第二側妃ルナリアが害されると知りながら、彼は守るべきものへ背を向け、自らの弱さの中へ逃げ込んだ。ヴィオラリアの言葉は、その一度の罪の最も深いところへ、真っ直ぐに触れていた。逃げた事実を生涯背負いながら、次は王国への影響まで引き受けて判断すること——それを、彼女は次期王の責任として突きつけていた。グラクトは、その重みを喉の奥で噛み締め、目を逸らしたくなる衝動を押し留めた。
「……ああ。わかった」
低く、それだけを絞り出す。言い訳も、弁明も、そこにはなかった。
その姿を、ヴィオラリアは睫毛の下からじっと見ていた。かつてのこの人なら、痛いところを衝かれれば怒りで塗り潰すか、あるいはまた別の何かへ目を逸らしたはずだ。それが今は、逸らさずに受け止めている。逃げた過去を、逃げたと認めたまま、その重さごと引き受けようとしている——それだけでも、劇場の夜の変化が本物であることの、確かな証だった。
広間の反対の端から、その一組へ時折視線を向ける者がいた。最初の舞を終えたアレクシスは、次の相手と言葉を交わしながらも、目の隅で次期王とその婚約者を掠め見ている。
声は届かず、唇の動きも読めぬ距離だ。それでも皇子は、二人の間に甘やかな親密さではなく、問いと応答の緊張があることを、表情と身のこなしから捉えていた。次期王が答えを示し、婚約者がそれを見定めている——皇子はその関係を面白そうに一瞥し、また己のダンスへと視線を戻した。
二曲目が終わりへ近づき、二人の足取りが緩やかに収束していく。エスコートの手を取り合ったまま、ヴィオラリアは伏せた睫毛の下で、静かに思考を巡らせていた。
グラクトが本物の主体性を持ち始めたのなら、彼の望みはやがて現実の行動へ変わる。レティシアを迎えるために自ら力を得ようとするなら、自分との『婚約破棄』もまた、現実の輪郭を帯びてくるだろう。だが、その未来を決める権利は、グラクトではなくレティシア自身にある。
(——すべては、レティシア自身の心次第。グラクトの求めを、ただ黙って飲むつもりは、わたくしにはない)
虐げられる者の意思を、何を措いても守り抜く。それと同時に、離宮が土の下で静かに育てている変革の芽を、決して踏み荒らさせはしない。
国が傾くほどの混乱だけは、あらゆる手を尽くして押さえ込む。グラクトが自ら動けば、彼とヴィオラリアの婚約も、レティシアの立場も、王家を取り巻く諸家の思惑も一斉に揺れる。その動きが噛み合わなければ、軋みは国を割る亀裂へと育つ。
その勢いを殺さず、しかし破局へは至らせぬよう、どこまでも精緻に舵を取り続けること——それこそが、次期王の傍らへ送り込まれた自分の役目だと、ヴィオラリアは弁えていた。次期王の覚悟を見極め、その行動がレティシアと離宮を踏みにじらぬよう導く——舞い納める最後の一歩で、ヴィオラリアは離宮の共犯者としての己の立ち位置を、もう一度、静かに確かめ直した。
拍手の中、二人は非の打ちどころのない微笑を交わして離れる。傍目にはただ睦まじい、次代の王とその伴侶の一幕。その内側で、グラクトが何を誓い、ヴィオラリアが何を戒めたのかを知る者は、当人たちのほかにはいなかった。