リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第9話『設計者の輪郭5』

5 認識の断絶

 

 宴が半ばに差しかかり、広間の熱がほどよく回った頃合いだった。

 

 アレクシスは、卓のひとつでリーゼロッテと歓談していた。杯を片手に、他愛のない話題を振っては彼女の応じ方を眺める——そう見える仕草の裏で、皇子は場の呼吸をひそかに計っていた。給仕が次の酒器を運び込む間合い。卓上に並ぶ硝子の脚の位置。

 

 そして、王女の視線がどの拍でこちらへ返ってくるか。すべてが噛み合う一点を待って、彼はごく自然な調子で、彼女の背後の飾りへと話題を振った。

 

 リーゼロッテが、示された方へ体をわずかに開く。その所作に合わせて伸ばした手の先が、卓の縁の杯へ触れた。

 

 澄んだ音を立てて、それは倒れた。

 

 紅い葡萄酒が布へ広がり、あろうことか、近くに立っていた数人の貴族の裾へと飛沫を散らす。ほんの一瞬の出来事だった。誰の目にも、それは饗応役の王女の、ささやかな不手際としか映らない。

 

 傍らのアレクシスが、卓上の脚の一本を目立たぬよう半歩ぶん寄せておいたことも、話題を振る拍をそのために選んだことも——場の誰ひとりとして、気づく者はいなかった。むろん、当のリーゼロッテ自身にとってさえ、それは紛れもなく己の手が招いた粗相だった。

 

 その隙へ、歩み寄った男がいる。

 

 魔導卿の子息リーデルであった。彼は魔導卿より、外交の伝手として帝国の皇子とグラクトの側近の歓心を買うよう命じられていた。飛沫を浴びた同派の貴族の顔と、帝国の皇子の姿とを見比べた彼は、この出来事を「貸しを作る」絶好の機会だと瞬時に計算する。

 

 彼は恭しい態度を装い、アレクシスの耳元へ顔を寄せ、ひそやかに囁いた。

 

「殿下。ここは王女殿下へ一言お詫びを。我が国の品位において、王族は尊ぶべき上位の存在。貴方様から歩み寄り、王女殿下の面目を立ててくだされば、事は波風立たず丸く収まりましょう」

 

 それは、帝国の皇子に「王国の品位と規範」を教え諭す体裁をとりつつ、恩を売って優位に立とうとする浅薄な助言であった。

 

 だが、その打算を断ち切ったのはイザルトだった。彼は主の斜め後ろから半歩進み出ると、そのような助言など端から必要ないとばかりに、感情をいっさい覗かせぬ声で告げた。

 

「その必要はございません」

 

 王国側の面目や裏の政治的思惑などではなく、誰が杯に触れたかという事実だけを基準に、イザルトは言葉を続ける。

 

「殿下は、この件に一切関与しておられません。杯に触れたのは王女殿下のお手であり、殿下のお身体はそこから優に一歩を隔てておりました。因果の糸が存在せぬ以上、我が主に詫びるべき謂れはございません」

 

 イザルトは、主がこの粗相を仕組んだことを知らない。彼にとって今の説明は、目に映った事実をそのまま述べたものにすぎず、ゆえに誰にも反証のしようがなかった。

 

 だが、正しさは、時に火に油を注ぐ。恩を売るつもりが事実によってすげなく撥ね退けられたことに、リーデルの背後に控えていた取り巻きの貴族たちが色をなした。

 

「無礼な! 帝国の者は、下らぬ理屈を並べ立てて王女殿下の品位を落とすおつもりか!」

 

 声を荒らげた彼らの剣幕に、広間の一角は、一触即発の険しさに凍りついていく。

 その凍てついた沈黙を破って、当事者であるリーゼロッテが動いた。

 

 彼女の頭の中では、この一瞬のうちに算盤が弾き終えられていた。杯を倒したのは、まぎれもなく自分の手だ。ならばイザルトのように因果の正しさを説いたところで、事実として粗相を犯した側がそれを言えば、傲慢の上塗りにしかならず、場の緊張は解けるどころか固まるばかりだろう。

 

 ならば——と彼女は結論する。ここは自分が泥をすべてかぶればいい。

 

 王女が自ら頭を下げれば、帝国への実利と面目は保たれる。そのうえで、外交の場で騒ぎを大きくしたリーデルたちから、これ以上帝国に食ってかかる大義名分を完全に奪い取ることができる。

 

 自らの落ち度を逆手に取り、振り上げられた拳の行き場をなくして、事態を強制的かつ穏便に鎮火させる。それが、この場で打てる最も確実な一手だった。

 

 彼女は、言葉をひとつも連ねなかった。弁明も、取りなしも、その口からは出てこない。ただ静かに数歩進み出ると、王女の身でありながら、アレクシスとイザルトへ向かって深々と頭を垂れた。そうして下げた頭のまま、背後のリーデルへ、短く、しかし有無を言わせぬ声で命じた。

 

「——ここは、引いてください」

 

 張り詰めていた広間の沈黙が、その一声で破られた。

 その瞬間、グラクトの傍らに控えていたエドワルドの視線が、素早く広間の端へと走っていた。

 

 彼は、以前のオセロ大会でリーゼロッテがリーデルを理詰めに追い込んだ様を見ている。ゆえに、この振る舞いが怯えなどではなく、計算し尽くされた一手であることを即座に読み取っていた。王女が泥をかぶったことで、リーデルらはこれ以上その場に留まる大義名分を失った。あとはこの火種を取り除くだけだ。

 

 主君の命が下るより早く、エドワルドは実動役となるレオンハルトを視界に捉え、いつでも目配せを送れるよう下準備を終える。

 

 一方、同じ光景を、主君であるグラクトはまるで違う意味に受け取っていた。

 

 彼は、リーゼロッテが第一側妃の庇護のもとで蝶よ花よと育てられた娘だと信じきっている。ゆえにグラクトの目には、異国からの圧力と、取り巻きを暴走させたリーデルの失態との板挟みになった温室育ちの妹が、その場を収める術を他に見いだせず、王家の体面すら投げ出して頭を下げてしまった——そうとしか、見えなかった。

 

 いたたまれぬ想いに突き上げられ、グラクトは傍らのエドワルドを目配せで呼び、声を低めて命じる。あの混乱の元凶を、速やかにこの場から下がらせよ、と。妹をこれ以上さらし者にせぬための、兄としての庇いだった。彼は、レオンハルトへ話を通すよう、エドワルドへ託した。

 

「御意に」

 

 命を受けたエドワルドは、恭しく一礼して動き出す。だが、主君からのその命は、彼にとっては「すでに完了している準備への最終的な承認」に過ぎなかった。

 

 主君は妹を庇うつもりで命じ、腹心は王女に制圧された駒を予定通り片づけるつもりで動く。同じひとつの命令が、二人の間でまるきり別の意味を帯びていることに、当のどちらもが気づいていない。

 

 エドワルドはといえば、自分よりもよほどリーゼロッテに近しいグラクトが、その本当の切れ味を知らぬはずはないと頭から思い込んでいる。王女の力量が主従の間で言葉に上ったことは、ただの一度もない。その静かな断絶は、誰にも気取られぬまま、この夜の底へと沈んでいった。

 

 一方、リーゼロッテの意図を見抜いた者たちの見立ては、同じところへ行き着いていた。

 

 広間の隅で気配を殺すリュートも、その傍らのアイリスも、少し離れて令嬢同士の会話をするヴィオラリアも——そしてなにより、王女の真横でその一部始終を見届けたアレクシスも。

 

 彼らが見ていたのは、追い詰められた王女の謝罪ではない。本来、王国の品位を守るべき特権階級のリーデルが、己の派閥すら統制できずに引き起こした醜態。

 あろうことか王女自身が無言で泥をかぶることによって、彼らの大義名分を刈り取り、グラクトとエドワルドが有無を言わさず退場させるための完璧な盤面を整えてみせた。

 

 なかでもアレクシスだけは、リーゼロッテが自らの粗相と思い込んだ出来事を、瞬時に場を制圧する刃へ変えたことまで見抜いていた。彼だけは、その粗相が自分の仕掛けたものだと知っている。王女を揺さぶるために仕掛けた罠を、彼女は事情も知らぬまま奪い取り、帝国との実利を守りながら、目障りな者たちを退場させるために使い切った。

 

 仕掛けた側のこちらが、いつのまにか彼女の掌の上で踊らされている。その感触は、茶会で味わったものと同じだった。アレクシスの胸に、深い歓喜がこみ上げる。

 

 だが皇子は、帝国の貴人としての礼節と品性を、髪の毛ひとすじほども崩さない。彼は恭しく微笑むと、優雅な所作で王女の傍らへ寄り、なおも頭を下げたままの彼女を、そっと押しとどめた。

 

「どうか、お直りください。……謝罪など、無用のことです」

 

 場をやわらげる、寛大な皇子の一言。周囲の貴族たちの耳には、それはただそう響いた。皇子はさらに、親愛の情すらにじませて続ける。

 

「ですが、せっかくの折です。リーゼロッテ殿下と、より親しく交わるためにも——明日はぜひ、あなたご自身の手で、この王国を案内していただきたい」

 

 友好的な、心尽くしの申し出。誰の耳にもそう聞こえた。

 

 だが、その言葉の切っ先を真正面から向けられた当のリーゼロッテだけは、流麗な外交辞令の奥に潜むものを、寸分違わず聴き取っていた。

 

 お前が今しがた見せてくれた思想の底を、明日は一日かけて、余さず暴いてみせる——皇子の柔らかな微笑は、彼なりの嗜虐に彩られた、次なる試練の招きにほかならなかった。

 

 リーゼロッテは、頭を上げる。頬には、外から見ればどこまでも自然で、愛らしくさえある笑みが刷かれていた。その内実が、感情のひとつぶも残さず削ぎ落として組み上げられた、完璧な王女の作り笑いであることを見抜ける者は、この広間にごくわずかしかいない。彼女はその笑みのまま、突きつけられた挑戦を、正面から受けて立った。

 

「喜んで、ご案内いたしますわ」

 

 管弦の音が、何事もなかったように広間を満たし直していく。零れた酒はいつしか拭き清められ、火種となったリーデルらの姿も、エドワルドから目配せを受けたレオンハルトによって、人垣の向こうへ速やかに押しやられていった。

 

 誰もが、寛大な皇子と健気な王女の美談を見たと信じて、宴の続きへ戻っていく。その美談の裏で、リーデルが穏便に退場させられ、アレクシスによる明日の王国案内という次の試みが定められたことを知る者は、やはりごくわずかであった。

 

 

 

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