リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
6 王国の査定
宴の喧騒が遠い記憶になった深夜、来賓へあてがわれた客間には、燭台の焔がふたつ、静かに揺れているきりだった。
卓には昼のうちに配られた王都の市街図が広げられたままで、その端に、イザルトは一冊の帳面を置いた。宴のあいだ、観測した徴の一切を書き留めておいた覚え書きである。アレクシスは窓辺に立ち、夜の光の都を見下ろしながら、背中で従者を促した。
「始めろ。……今日一日で、この国の何が見えた」
イザルトは帳面を繰り、まず宴で見た王女の判断から報告を始める。
「では、王女殿下から。宴での一件。杯を倒したのは王女殿下ご自身のお手、これは動きません。ですが殿下は、その明白な落ち度を弁明なさらなかった。因果を説けば説くほど傲慢に映ると見切られたうえで、自ら頭を垂れ、泥をすべてかぶられた。……結果として、帝国との実利は保たれ、あの若い貴族は、王女に頭を下げさせたその一点で、自らの品位を落としたといえるでしょう」
「見事な手腕だった」
窓の外へ向けたまま、アレクシスが低く応じる。イザルトは頷き、王女の判断から、その思想がどこで培われたのかへと踏み込む。
「己の失態すら邪魔な駒を除く刃へ組み替える——あの冷徹な割り切りは、身分の衣に隠れて責任から逃げ続けるこの国の貴族社会には、まるで馴染みません。異物です。では、どこで培われたのか」
皇子は振り返り、卓へ歩み寄った。
「……ルナリア妃だな。思い出せ。あの王女は、以前の使節団の饗応でも、亡きルナリア妃の葬儀でも、我ら帝国の前で、はっきりとルナリア妃を『母』と呼んでみせた。血の繋がらぬ側妃を、だ。あれをただの社交辞令と見るのは、今日の対応を見たあとでは、もう無理がある」
「同意いたします。王女殿下の根にあるあの合理性、その土台を築いたのは、間違いなく亡きルナリア様の教育かと。……皇妃陛下の妹君の薫陶が、王国の王女に受け継がれている。厄介な事実ですが、確かなことです」
だが、と皇子は卓上の帳面へ指を落とし、今日一日の断片を順に手繰り寄せる。処刑だけではない。門前の、あの隙のない帝国式の出迎え。控えの間で語られた「相手に合わせる」という道理。そして何より、宴前の茶会での、あの淀みない問答。
「茶会で、はっきりした。あの書簡の知性は、代筆でも借り物でもない。まぎれもなく、あの女自身の頭だ。……規範は場によって変えられる、と言ってのけた。旧い体制を壊さずに、場そのものを切り分けて無力化する——そこまで見通す頭は、そうそう転がっていない」
アレクシスは言葉を切り、しかしすぐには続けなかった。手繰り寄せた断片の一つが、他とわずかに手触りを違えていたからである。
「ただ——ひとつ、腑に落ちん。あの頭のよさは、確かに本人のものだ。だが、王宮の儀典を丸ごと帝国式へ組み替え、王と王妃にまで呑ませてみせた、あの段取りの大きさはどうだ。頭が切れることと、宮廷の歯車を残らず動かせることは、別の話だぞ」
「……発案は王女殿下でも、それを通した手は、別にあるやもしれぬ、と」
「そこが、まだ読めん」
皇子はその引っかかりを胸の隅へ留め置き、市街図の端を指先で押さえて、話の矛先を転じた。
「では、次だ。……あの空白は、どう見た」
「そちらこそ、今日の本題です。謁見での無反応。血筋を暴かれてなお、瞬きひとつ乱さなかったあの不自然さ。あれだけでも十分に異様でしたが、宴で、もう一つの事実を拾いました。……リュート王子の傍らに、終始ひとりの令嬢が控えておりました。東のオルディナ公爵家の姫です」
その名を聞きながら、アレクシスの脳裏には、謁見の間で交わした一瞬が蘇っていた。血縁を暴いたあの瞬間、彼はわざと視線を外さず、あの第二王子を正面から射抜いた。赤と赤の目が、確かに合った。
だが返ってきたものは、敵意でも怯えでもなく——こちらを映したうえで、何ひとつ返さぬ、底の見えぬ静けさだった。あの目の記憶が、いま従者の報告と重なって、皇子の警戒を静かに濃くしていく。
「経済の要、か」
「はい。事前の調べでは、海運組合を実質的に切り回しているのは、組合の出資者である当主ではなく、あの令嬢だと見ています。王国の富の血脈そのものと言っていい。……その公爵令嬢が、第二王子にエスコートされて宴に臨みながら、ただの一度もダンスに立たなかった。公の場で、です」
アレクシスの眉が、ひそかに動いた。イザルトは、事実と推測の境目を崩さぬまま、続ける。
「両家の結びつきを世に示したいのであれば、あの二人こそ真っ先に踊ってみせるべき一対です。にもかかわらず、揃って動かなかった。これは推測に過ぎませんが……リュート王子という存在を、他者の視線からことさらに遠ざけようとする、意図された処置ではないかと」
「意図して、影に置いている」
「ええ。そして、もしその意図が本物なら——彼に寄り添って同じく動かぬあの令嬢もまた、その『裏の事情』を分かち持っている公算が、極めて高い」
皇子はしばし黙し、それから市街図の海運組合の位置へ、静かに指を置いた。
「……オルディナの令嬢。観察対象へ加えておけ。断定はまだ早い。だが、あの空白の隣に自ら進んで沈黙する者がいるのなら、その者は、空白の中身を知っている」
「承知しました」
帳面に一行が書き足される音が、静かな客間へ落ちる。アレクシスは椅子を引き、ようやく腰を下ろした。
「最後だ。次期王を、どう値踏みした」
「あの混乱の折、グラクト王子は、自らの権威を振りかざして喚き散らすような愚は犯しませんでした。騒ぎを速やかに畳むために動かしたのは、元帥家の侯爵令息——レオンハルトです。的確な人選で、彼を自然に動かしている。未だ権限らしい権限を持たないはずのグラクト王子が、です。すべてとは言えませんが、次代を掌握していると見えます」
そこまで述べて、イザルトはわずかに首を傾げた。皇子も、同じ引っかかりを覚えている。ふたりが見た盤面では、リーデルはすでに王女の手でその場にいる大義名分を失った。ゆえにグラクトのあの采配は、済んだ駒を身内の武力で速やかに盤から下げた、実に理に適った後始末に映る。彼らには、次期王が状況を正しく読み切ったうえで動いたとしか見えなかった。
「次代の人材を掌握し、実務の駒として使いこなす。その器量は、認めざるを得ません。少なくとも、王国の『品位』とやらを絶対の掟と信じ込んでいる手合いではない。無能な身内を庇うためではなく、盤から下げるために武を動かせる男です」
「思想の底までは、まだ読めんがな」
「はい。真の脅威となるか否かは、そこを掘らねば分かりません。ですが——配下を使える王だ、という評価だけは、動きません」
皇子は指を組み、卓上の三つの点を——処刑を為した王女、影に沈む空白、武を使いこなす次期王を——胸のうちで並べ直した。
誰もかれもが身分という衣にくるまり、責任から手を引く。それがこの王国の常であるはずだった。だが今日一日で、その常から外れた者たちの輪郭が浮かび上がった。
自らの落ち度を引き受けて帝国との実利を守った王女。身内の失態を庇わず、武門を動かして処理したように見える次期王。そして、何を探っても反応も痕跡も返さない第二王子。表向き、国は健全に回り、王権も揺るがない。だがその内側では、彼らを結ぶ何かが確かに編まれている。
組んだ指の上で、アレクシスの赤眼が焔を映した。
「イザルト。妙な話だと思わんか。王女の背後には、あの淀みない様式を王宮に呑ませた、顔のない設計者の影がちらつく。一方で、この宮には、洗っても洗っても何も出てこない空白の王子がいる。……別々の糸だ。別々の糸のはずだが、どうにも、同じ手が撚っているような気がしてならん」
イザルトは帳面を閉じ、主の思考を先へと繋いだ。
「その糸の先を確かめるには、盤の上へ引きずり出すよりありません。幸い、来季には王女殿下も、あの空白も、揃って学園に入ります。宴のような取り繕った場ではなく、日々の営みの中でなら——影に徹する者ほど、隠しきれぬ綻びを見せるものです。表舞台へ、強いてでも引き出しましょう」
言い添えながらも、イザルトの声には、わずかな用心の翳りがあった。
「……ただ、殿下。ひとつ申し上げておきます。あの王子は、生まれてこのかた、影であることに己を最適化してきた男です。今日の謁見でも、あれだけの揺さぶりに、綻びの一片も見せなかった。そういう相手を無理に光の下へ引きずり出そうとすれば——こちらの手の内が、先に読まれる恐れもございます」
皇子は薄く笑った。危うさを聞かされて、かえって獲物の格が上がったとでも言うように。
「承知の上だ。読まれて構わん。読み合いになった時点で、あれはもう『無害な影』ではいられなくなる。……盤の上に引き出しさえすれば、こちらの勝ちだ。影のまま埋もれていられることこそが、あの男の唯一の武器なのだからな」
「なるほど。……では、そのように」
「ああ。それが、次の盤だ」
結論を口にして、しかしアレクシスの意識は、すでにもう一歩先へ滑っていた。窓外の都へ、彼は再び目を向ける。
「——だが、その前に。明日は、王女みずからがこの国を案内してくれるそうだ」
宴の締めに、彼自身が引き出した約束である。友好の名を借りた、あの試練の一日。
「あれの思想の底を、明日こそ余さず暴いてやる。……そうすれば、背後の設計者の輪郭も、いくらか炙り出されてこよう。その正体と、力量とをな」
窓外の都は、無数の灯を宿したまま、寝静まっている。あの光のどこかに、処刑を為した王女がいて、影に沈む王子がいて、その二人の背後で、別々に見えた糸を撚り合わせているかもしれぬ、顔のない手がある。踏み込むほどに底の見えぬ国だ——だが、踏み込むだけの価値のある盤であることだけは、この一日で疑いようがなくなった。
燭台の焔が、ひとつ、小さく爆ぜた。
明日への備えを胸の底へ沈め、皇子は冷めかけた杯を、ゆっくりと傾けた。窓の外では、光の都が何ひとつ知らぬ顔で、静かに夜を更けさせていた。