リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 盤上の王国
海運組合の重厚な石造りの建物を辞した頃には、春の日はすでに中天を過ぎていた。
次いで王女リーゼロッテがアレクシスを案内したのは、王都の一角に構えられた「オセロ協会」である。民にも広く開かれたその棋院では、一階の広間に並ぶ無数の卓を老人も職人も子供も身分の隔てなく囲んでいた。石を裏返す乾いた音が、そこかしこから絶え間なく立ちのぼる。血統と品位で固められたこの国で、生まれの上下が消えるのは、この盤の上くらいのものだった。
広間の一隅で、アレクシスの足がふと止まる。
仕立てのよい上着をまとった貴族の若者と、爪に染料の跡を残した職人風の男が、一つの盤を挟んで身を乗り出すように打ち合っていたのだ。若者が長考の末に一手を置くと、職人は待ちかねたように石を返し、盤の白黒が大きく入れ替わる。
本来の身分であれば、この二人が同じ卓に着くことなど王宮の宴席でもありえない。それがここでは、盤の規則と勝負の熱だけを頼りに、ごく当たり前に対等へ向き合っている。アレクシスは、その奇妙な眺めにしばし見入った。
その棋院で一行を案内するヴィオラリア・オルネ・クロムハルトは、技術を束ねる西の公爵家の令嬢であり、この風変わりな遊びを考案して王家へ献じたと記録された者である。その立ち居振る舞いは王族にも劣らず隙がなく、優雅な微笑みの奥には、物事を数値として割り切る技術者の冷たい知性がのぞいていた。
アレクシスは、海運組合で実務の長を問い質したのと同じやり方で、目の前の考案者へ問いを向ける。
「見事な遊びだ。身分を問わず誰もが同じ盤を囲んでいる。クロムハルト嬢、これほどの遊びをどこから思いつかれたのですか。ぜひその発想の源を伺いたい」
身分の上下を盤の上でひっくり返すこの危うい思想が、品位で固められた王国のどこから生まれたのか。その鋭い探りに対し、ヴィオラは令嬢らしい微笑みを崩さず、少しも動じずに首をかしげた。
「発想などと、大層なものではございませんわ。この遊びは相手の石を奪い取るものではございませんの。挟まれた石は盤から取り除かれもいたしませんし、壊れもいたしません。ただ見せる面が変わってそのまま盤に残るだけ。……幼い頃、石を並べて遊んでおりました折にふと『決まり事』を足してみたにすぎませんのよ。考え出したというより、そこに転がっていた自然の理を拾い上げただけでございますわ」
アレクシスは、身分の上下を盤の上で消すという思想の出処を問うたはずだった。だがヴィオラはそれを、ただの遊びの決め事にすぎないと言ってのけ、暴くべき思想そのものを彼の手元から消してしまう。問いは的を外れたが、彼は引かず、今度は別のことを問う。
「では、なぜそれを王家へ献じられたのです。市井での流行を見るに、ご自領で独占しておくこともできたでしょうに」
「単なる民の慰みに留まればよかったのですが、思いのほか広まりすぎましたの。商人が群がり利権が絡むものを、一介の公爵家が独占し続けるのは分を越えますわ。相応しい場所へお預けしただけでございます」
深い意図を探る視線を、ヴィオラは王妃教育で磨いた微笑みで受け流す。彼女の答えは、盤の仕組みと公爵家としての分、その二つだけできれいに閉じていて、そこから政治の意図へ踏み込む糸口がない。これ以上は崩せないと見て、アレクシスは彼女をこれ以上警戒すべき相手とは見なさなかった。
ヴィオラ自身への関心を解いたアレクシスは、海運組合でも使った別の問いを向ける。
「海運組合でオルディナ嬢から、あなたも生徒会で従兄弟殿とご一緒だとお聞きしたのだが、従兄弟殿とはご交流がおありですか」
「生徒会で多少ご一緒するくらいでございますわ。物静かで、過度な社交を好まれない、ひたすらに真面目な方……とだけ」
よどみなく返されたその答えは、当たり障りのない模範解答にすぎない。アレクシスはその本心までは読み切れなかったが、海運組合で聞いた『そこそこ優秀』と同じく、彼女もまたリュートを脅威とは見ていない、その一点だけを胸に留めた。ヴィオラがどんな物差しでリュートを平凡と切り捨てたのかは、皇子には分からなかった。
一階での視察を終え、一行は二階の対局室へと通される。窓の大きな明るい一室には壁際に名局の棋譜が飾られ、中央に一卓と対面の椅子のみが据えられていた。
この王女が何を守り、何を捨てるのか。盤の打ち方に出るはずの考えの形を掴むため、アレクシスはリーゼロッテを対局へと誘った。
白と黒の石を交互に置きながら、皇子は盤を挟んで探りを入れる。
「姫。この遊びは身分を問わず誰もが同じ規則で打つ。血統と品位を重んじるこの国がこのような遊びを民に広く配ることにあなたは何の意味を見ておいでですか」
答え方を誤れば足をすくわれる問いだった。リーゼロッテは慌てず、黒い石を一つ盤に置いて、静かに言葉を継ぐ。
「意味と申しますほどのことでも。品位ある国が民へ娯楽を恵むその鷹揚さの表れにすぎませんわ。そうですわね。同じ規則の下でなら、身分の高い者が低い者に理不尽に勝つことはございません。生まれではなく、盤の上での手筋だけが勝敗を決める。……たとえば、先ほど一階で打っておりました者たちをご覧になったでしょう。仕立てのよい若者と手の荒れた職人。盤の前では若者が生まれで職人を退けることもできなければ、職人が身分をわきまえて手を緩めることもない。ただ論理を深く読んだ方が勝つ。民が身分に潰されることなく、己の力量だけを試せる場が一つでもあること。……それもまた品位ある国の鷹揚さの表れでございましょう」
その言葉を口にしたとき、盤へ伸びた王女の指がほんのわずかに宙で迷った。『理不尽に勝つことはない』と口にした瞬間、彼女の胸の奥で、成文法による統治という本当の理想が口の先まで出かかったのだ。
彼女はその失言を隠すように一階の二人を例に引き、最後には『品位ある国の鷹揚さ』という建前で無理やり覆い隠した。その結果、いつもの彼女なら一言で切り捨てるはずの返答が、言い換えを重ねたぶん常より長くなっていた。
だが、アレクシスの思考はその流麗な返答に潜む決定的な矛盾を見逃さなかった。
彼女は「品位ある国の鷹揚さ」という建前で盤上の平等を肯定したが、血統による身分秩序であるはずの品位と、生まれの優劣を退ける規則は本質的に相容れない。品位という言葉を隠れ蓑にしながら、彼女はその論の底で、何者にも侵されぬ「規則」を明確に最上位へと置いている。
この巧妙なすり替えは、海運組合で感じた違和感と符合した。この王女が内奥で庇い立てているのは、王国の根幹である品位などではない。
彼女は品位という衣を被せながら、その内側で「規則」という品位とはまったく別の概念を育てようとしている。読み取れぬのは、彼女がその異質な思想をどこから得たのかという点だった。
その思想が帝国の血を引く母ゆずりのものかを確かめようと、アレクシスはルナリアの名を持ち出した。
「身分を問わず、力量だけで競わせる。ルナリア妃なら、この遊びをさぞお気に召したでしょうね」
「母は盤遊びには関心のない人でございました。母が好んだのは規則のある遊戯ではなく、現実の勝敗でしたから」
実力主義の精神はルナリア妃のものだが、規則の中で競うこの遊びの意見はルナリア妃から出たものではない。
さらに、現実で使えるものは何でも使って実力を見せるという帝国の思想と王国の品位、このどちらではない。
規則のある場では品位が規則に縛られるのか、この点をアレクシスは踏み込む。
「ですが、品位ある国の鷹揚さとあなたは言う。力量だけで競わせることが鷹揚さだと。……それは品位よりも力量を上に置く言い方に聞こえますが」
王族の自分を否定するにも等しい指摘だったが、リーゼロッテは少しも動じない。
「いいえ、殿下。順序が逆でございます。力量を競わせてよいのは、品位ある国がそう『許している』からこそ。許す度量があるからこそ、民に規則を貸し与え、その中で存分に競わせられるのでございます。規則が品位の上にあるのではなく、品位が規則を民へ恵んでいるのですわ。……鷹揚さとはそういうことでございましょう」
品位が規則を恵んでいると言い切れば済む否定に、リーゼロッテは度量だの許すだのと言葉を継ぎ足し、鷹揚さの一語で締め直して、また一言を余らせた。
説明が厚くなるのは彼女が守りたい一点に触れられたときだと見てきた皇子は、その回りくどさに、自分の問いが痛いところに触れたと察して、警戒を強めた。
この王女は、ルナリアの実力主義とも王国の品位とも違う、独自の考えを確かに持っている。だが、その正体を暴こうとするほど、彼女が重ねる用心深い言葉に阻まれて、肝心のところはかえって見えなくなる。
それは盤の上でも同じだった。勝負そのものはアレクシスが大きな差で勝っていた。だが、彼が本当に読んだのは石の数ではなく、彼女の打ち方だった。
リーゼロッテは相手の石を攻めて奪うよりも、角と辺を固め、崩れにくい形を保って受けに回り続けていた。皇子がどれほど鋭く攻め込もうと、彼女は最後まで盤の要を一歩も譲らなかった。
「ずいぶんと守ってばかりですね」
勝ちを決める一手を置きながらアレクシスが告げると、リーゼロッテは盤面から一切目を上げずに応じる。
「攻めるのは手に入れたいものがある方でございましょう。守っておりますのは失いたくないものがあるからでございます」
それは盤の上だけの応酬ではなかった。力ずくでは崩せない守りを、彼女は盤の外の政治でも同じように築いている。いまの答えは、その守りの姿勢そのものだった。
この王女は、守ろうとする「何か」を隠し持っている。アレクシスはその気配を確かに感じたが、それが何かは、盤にも言葉にも最後まで出てこなかった。
石を置き、返す乾いた音が、階下の広間からなお絶え間なく上がってくる。皇子の手元に残ったのは、海運組合で抱いた違和感に、王女の育ちと思想の食い違いという新たな謎が重なった、それだけだった。