リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 品位という秩序
中央劇場に着いた頃には、日は西へ傾いていた。
王都で最も大きなこの歌劇場は、円い観客席が舞台を囲み、天井や壁には豪奢な装飾が施されている。アレクシスは二階正面の貴賓席にリーゼロッテと並んで座った。二人の間には距離が保たれ、リーゼロッテの後方にはルリカが、アレクシスの斜め後ろにはイザルトが控えていた。
場内の灯りが落ち、幕が上がった。
演目は『白百合の檻と暁の星』の再演だった。傷があるために家格に阻まれ、一度は愛を退けられた令嬢が、それでも品位の掟に逆らわず、王家の品位を高める行動をとる。その功績によって王家に欠かせぬ者となり、やがて愛を許される。舞台の上で令嬢と青年が結ばれると、観客席のあちこちからすすり泣きが漏れた。
国が場と予算を与えて繰り返し上演させる劇には、国が民に信じ込ませたい絶対的な秩序が反映されている。この劇が示しているのは、品位がすべてに優越し、個人の感情さえも品位を高める功績にすり替えて初めて許容されるという冷徹な秩序だった。アレクシスはこの筋書きから、この国が民に強いている思考統制の構造をただ静かに見据えていた。
◇
幕間になり、場内に微かなざわめきが戻ったところで、彼は隣のリーゼロッテへ静かに問いを落とした。
「よくできた劇です。ですがリーゼロッテ殿下、私が着目しているのはこの劇の筋書きではありません。個人の感情すら品位への貢献がなければ認められない、それがこの国が民に強いている秩序です。あなたご自身は、この秩序をどう評価しておられますか」
「よくできた秩序だと思いますわ。事実として、この国はその秩序によって長く平穏を保ってまいりましたから。国の根幹を成す仕組みとして、これほど機能しているものはございません」
彼女は国家の歴史的事実を盾にして立ち回り、自らの本心には一切触れさせなかった。今日一日、彼女は品位を最上位に掲げながらも、血統よりも個人の力量を、身分よりも万人を律する規則を重んじる思想を示してきた。ならばこの劇が示す秩序に対しても、表向きとは異なる冷徹な評価を下しているはずだが、彼女の完璧な受け答えの前にアレクシスは引き下がるほかなかった。
舞台が再び動き出すのを眺めながら、アレクシスは今日一日の応答を振り返った。
彼女は品位を口にしながら、海運組合でもオセロ協会でも、その論の底で「規則」を最上位に置いているように見える。これは彼女は品位という衣を被せながら、その内側で「規則」という別の概念を持っているのではないか。
人の思想には、教育者の影響が色濃く反映される。ルナリア妃に育てられたのなら、彼女の考えにはもっと明瞭に帝国の実力主義が現れているはずだった。だが、彼女は、力量を規則の内へ収めようとする思想が見て取れるが、これはルナリア妃とは異なる考え方であり、これを彼女に教えた者が存在するのではないか。
幕が下り、観客が席を立ち始める喧騒の中で、アレクシスは思考の核心を彼女に直接ぶつけた。
「一日、あなたのお考えを伺ってきました。品位を重んじながら、生まれよりも力量を重んじられる。王国の品位とも、帝国の実力とも違う。……リーゼロッテ姫、あなたのその思想はいったいどなたに教わったものですか」
「どなたと言われましても、私は、母ルナリアから帝国の実力主義の考え方についても教えを受けました。力量を重視して見えるのでしたらそのせいでしょう。しかし、ここは王国であって、王国を発展させるためにどのように扱えばいいか考えたときに品位の中で力量を競わせればよいと考えたのです。もっとも、王宮の書庫にはあらゆる国のあらゆる考えが収められています。それらの書物からも影響を受けたのではと思います。なので、特定の誰かから教わったというものではございませんわ」
彼女はルナリア妃のみならず、あえて書庫まで持ち出して言葉を連ね、特定の教え手がいることを念入りに否定した。ルナリア妃の教育を受けたとはいえ、王国の現状と書物を読んだだけで、これほど一貫してどの国の型にも収まらない論理を十四歳の王女が独りで構築したとは、アレクシスには到底思えなかった。アレクシスはこの追及を一旦保留せざるを得なかった。
◇
やがて劇場を出た二人は、夕闇の迫る車寄せで馬車を待った。そこで、アレクシスは今日、全くと言っていいほど手が届かなかったもう一人の標的に対する探りを入れる。
「今日は、お会いした方々にも第二王子殿下がどのような方か伺いました。あなたにもお聞きしたい。第二王子殿下は、あなたから見てどのような方ですか」
その名を口にした途端、リーゼロッテが今日一日保ち続けていた理知的な立ち振る舞いが鳴りを潜めた。
「お兄様はわたくしの誇りでございます。学問でも、魔法でも、政の道理でも、わたくしなど遠く及びません。あの方のお考えはいつもわたくしの一歩も二歩も先を行っておられて、お側におりますとただただ感服するばかり。それに、本を読まれるお姿がとても麗しくて。頁をめくる指の運びのひとつまでまるで一幅の絵のようで、わたくしいつまでも見ていられ――」
「――もう十分です、リーゼロッテ殿下。よく分かりました」
なおも熱を帯びて続く過剰な賛美を、アレクシスは冷ややかに断ち切った。
分かったのはリュートの人物像ではなく、この王女の評価は身内への偏愛が強すぎて客観的な事実としては受け取れないということだった。学問や魔法の評価まではまだ人物評価の体裁を保っていたが、読書の姿が麗しいと言い出した時点で、それは評価ではなく単なる心酔の表明に過ぎない。
しかし、彼女は言った『政の道理』と。すなわち、彼が政治についての見識を持っているということを。ルナリア妃の息子としてその教育を受けたであろう従兄弟殿は、現在の王国に対してどのような見識を持っているのか。姫が賛美する以上、彼にも同等かそれ以上の見識があってもおかしくない。大いに興味がそそられる。
もっとも、組合長は『そこそこ優秀』と王家の色を持たぬことを指摘し、オセロ協会の代表は『真面目な方』と当たり障りのない評価に留めた。そして、リーゼロッテの漏らした言葉をとっても、やはり第二王子の全体像を把握することはできなかった。
◇
やがて帝国の馬車が到着し、アレクシスは車内へ乗り込んだ。リーゼロッテはルリカを連れて自らの馬車で先に発ち、幌の内にはイザルトと二人だけが残る。今日一日で拾い集めた情報を、初めて誰に憚ることもなく卓に並べられる時間だった。
窓の外を流れる王都の灯を眺めたまま、アレクシスは今日の視察の最大の目的であったリーゼロッテへの評価を口にする。
「リーゼロッテ姫からいこう。あの方は品位を口にしながら、考えの根本では規則を品位の上に置いている。一日問い質しても本心は明かさず、彼女にその異質な思想を吹き込んだ者の正体までは辿れなかった。だが、誰に教わったにせよ、あの年齢であの盤石な論理を保ち続ける手腕は見事だ。帝国に連れていけば帝国のあり方を学び、さらに発展させる知恵を出すであろう能力をみることができた。妃に迎える価値は大きい。パーティーで言った通り、求婚の交渉は進めていく」
「御意。実務から補足いたしますと、魔導船の売却交渉でオルディナ嬢が見せた対応は、殿下が推測された相互依存の論理と完全に一致しておりました。海運組合の背後に明確な政治的意図を持った設計者がいるのは確実ですが、それが王女ご自身なのか、国王や別の者なのか、特定には至りません」
「構わん。彼女自身の価値は見定めたのだ。裏の仕掛け人が誰にせよ、急いで暴く必要はない。……ならば、次は従兄弟殿のことを詰めるぞ」
本命である王女の評価を確定させたアレクシスは、手元に残るもう一人の標的へと話題を移した。イザルトは実務官として、第二王子に関する事実と接近への道筋を提示する。
「第二王子殿下についてですね。接触の手段についてですが、殿下がいま王女殿下と婚約の交渉中であることを利用すれば、王女殿下が心酔する兄君と親交を結ぶことは、求婚を有利に進めるための正当な口実となります」
リーゼロッテへの求婚を利用してその兄であるリュートへと接近する算段を、アレクシスは実利の観点から肯定した。
「妥当な手段だ。姫君があれだけ心酔しているのだから、その兄を知りたいと言えばあちらは喜んで受け入れるだろう。潰したい相手ではないのだ。母上も、王家の色を持たないがゆえに王国では不利な立場にあるとはいえ、これほど表に出てこないことを不自然に思っておいでだった。単に出る気がないのか、出られない事情があるのかは分からんが……ルナリア妃も亡きいま、あの方にこの王国へ執着する義理もない。本当に能力があるのなら、姫君と一緒に帝国へ連れ帰ることも選択肢に入る」
王国に固執する必要のない実力者を自らの陣営へ引き抜く。その合理的な方針に対し、イザルトは交渉官としての事実を並べる。
「ええ。姫君が心酔し、オルディナ嬢すら優秀と認める男です。しかし、現状ではあの方の実像を結ぶ事実が少なすぎます。魔導船での動きも、単なる物見遊山なのか別の意図があるのか、また表向きの人物評価も一致いたしません。思想だけが立派で実務能力が伴わぬ『絵に描いた餅』では、連れ帰る意味がありません」
「姫の言葉を聞かなかったのか。彼女は従兄弟殿を学問と分けて「政の道理」においてもと言った。従兄弟殿に学問として政治以上の政治の見識があると、しかも姫自身が認めるほどのものをだ。能力が本物かどうかを試す必要があることは確かではあるが、期待が増したのは事実だ。来季の学園という場であれば、こちらから接触する口実にも、あちらの能力を引きずり出す状況を作ることにも事欠かん」
左腕候補の能力を直接査定するという来季の学園での方針を確定させ、アレクシスは対話を打ち切った。
◇
やがて馬車は王宮の車寄せに止まり、外に出ると、一足先に戻っていたリーゼロッテがルリカを従えて待ち受けていた。
「本日は一日、わたくしの案内にお付き合いいただき感謝いたします。帝国の皇子殿下に、この王国がいくらかでも伝わったのであれば幸いですわ」
「こちらこそ、得るものの多い一日でした。姫ご自身の立ち位置も、この王国の構造も、ずいぶんと見せていただいた。……もっとも、今日提示していただいた事実が明確であったからこそ、まだ見ぬ事実をより深く知りたくなりましたがね」
アレクシスが言外に突きつけたのは、今日姿を見せなかった第二王子リュートの本当の能力である。その明確な標的を前にしても、リーゼロッテは態度を変えずに応じた。
「お一人のことを知れば、もうお一人のことも知りたくなる。帝国の皇子殿下はずいぶんと欲張っていらっしゃること。ですが、来季の学園で殿下の目に見えるものが増えるかどうかは、ひとえに殿下ご自身の手腕次第でございます。わたくしからは、何一つ確約できるものはございませんわ」
リーゼロッテはルリカを連れて回廊へ去り、残されたアレクシスはその背を見送る。
今日の一日で、リーゼロッテの思想の特異性は確かめ、妃とする価値は見定めた。次に確かめるべきは、彼女が庇い立てる第二王子の真の能力だ。アレクシスは、来季の学園でその実力を自ら査定し、自陣へ引き抜く算段を定めた。