リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
5 離宮の一手
三人が退出し扉が閉じられると、会議の間には王妃マルガレーテとリュートの二人だけが残った。現体制の守り手と卓を挟むのは初めてである。だが、王妃から学園裁判について譲歩を引き出す場をもらえたのは、こちらにとって渡りに船だった。
王妃が先に口を開いたとき、先ほどの席で見せていた態度はもう残っていなかった。
「二人だけで確かめておきたいことがあります。ルナリアの件。……セオリスが起こしたことの詳細を知るあなたは、その気になればそれを帝国へ持っていくこともできる。リュート殿。あなたは帝国に与するつもりはありませんね」
王妃が問うているのは、事件の真相を知る自分が帝国へ情報を持ち出すかどうかであり、リュート個人の寝返りだった。つまり王妃は自分を王国へ繋ぎ止める必要があると見ているが、勢力と見られていないうちは勢力ぐるみの企てまで彼女の視野には入らず、その見立て自体をこちらの盾にできる。忠実な一個人に見えておけばよいと判断し、彼は頭を垂れた。
「私の求める平穏は、この国にございます。……帝国へ売って私が得るものは、私を旗頭とした終わりなき動乱でしょう。離宮での平穏を望む私にとって与する理由がございません」
言葉に嘘を混ぜる必要はなかった。ただ、平穏の内容が異なるだけである。誰も個人の意思により不当に虐げられない法治の世を作るという企ては、この国でしか成し得ない。帝国へ渡れば、作り替えるべき場所そのものを失ってしまう。売る理由がないという点だけは本心であり、この答えは探られても揺るがない。王妃はその言葉の奥を探るようにリュートを見た。
「よろしい。……ではあの皇子をどうします。今日一日はリーゼロッテが引き受けました。ですが学園への留学の間ずっとというわけにはいきますまい」
王妃が皇子の扱いを問い、本題への入り口を開いた。リュートはこの問いが来ることを見越していた。ただし整えた答えの表の顔と、自分が本当に守ろうとしているものとは別だった。
「謁見とパーティーでの対応を見る限り、あの皇子は隠されるほど知りたがる質でございます。謁見でルナリア妃の血統が暴露されたとき、彼が見ていたのは居並ぶ貴族の反応よりも私の反応でした」
あの場で皇子の注意は自分へ向けられ、母の血統が暴露されたときの反応を見定めようとしていた。自分への探りそのものは許容できても、関わる時間が増えるほどその先にあるルナリアの件や離宮へ届く危険も増す以上、皇子の関心は自分から逸らしておく必要がある。
「差し出された案内だけで満足する男ではございません。私が表の役に立ち続ければ、皇子はそれを足がかりに、私との接触を増やしかねません。皇子との公の接点を減らすために、私は学園での表の職務から退きます。私が退くことで、皇子の関心は婚約相手であるリーゼロッテ王女へ向きやすくなります」
皇子の興味をリーゼロッテに固定できることは、婚約交渉を進めるうえでも王妃には都合がよく、彼女は頷いた。これが王妃には、リュートが皇子に評価される機会より、リーゼロッテと帝国との婚姻、ひいては王家の利益を優先したと見えている。だが彼が本当に断ちたいのは、皇子の関心が自分へ向き、その糸を手繰った先で背後の勢力までが引きずり出されることだった。王妃が頷いたその一手は、離宮を王家の目から隠すための盾にほかならない。
同じ「退く」を王妃は忠勤と読み、自分は盾として打つ。リュートにとっては、王妃にその読み違いを悟らせないことこそがこの一手の本体だった。
「つきましては来季、私が生徒会で担ってまいりました務めをリーゼロッテ王女へ引き継ぐことをお認めいただきたい。私が退き、彼女が学園の表舞台に立つことで、皇子の関心は間違いなく婚約相手である王女へと集中いたします。私は彼女の支えに回る。……それが最もよろしいかと」
自ら表の職務を退くことを離宮を王家の目から隠す盾としながら、皇子の関心をリーゼロッテへ集中させる。帝国との婚約交渉を進めたい王妃にとって、この筋書きに異存が出るはずもない。その異存のなさに紛れさせて、彼は自らの求めるものを盤上に差し込んだ。
「私が退くにあたって、一つ確かめておきたいことがございます。学園裁判の拠り所についてです。いま学園の裁きは、第一王子たるグラクト兄上個人の品位に支えられ、兄上ご自身が裁定を下しておられます。ですが私が退き、リーゼロッテが訴追官として立つとなると、一つの危機が生じます。……グラクト兄上とリーゼロッテの、品位の衝突です」
次期国王と、いずれ帝国へ嫁ぐ王女が、公の場で裁き合う。その危うさを、王妃は即座に読み取った。
「リーゼロッテが訴え、グラクトがそれを退ければ、帝国へ嫁ぐ妹に兄自らが泥を塗る。妹を立てて勝たせれば、今度はグラクト自身の裁定への信が揺らぐ。……どちらに転んでも、王家の品位が傷を負いますね」
王妃が先を引き取った。リュートは頷き、彼女が最も触れられたくない一点へ、静かに話を進める。
「仰る通りでございます。そして恐ろしいのは、リーゼロッテが敗れた場合のその先。品位を潰され追い詰められた彼女が、帝国への切り札に何を握っているか」
王妃の眉が、わずかに動いた。ルナリア妃の真実——口にはせぬまま、その名が二人のあいだに置かれる。将来の国王と皇妃の亀裂は、王家が最も伏せておきたい一事を、帝国の手へ渡す引き金になりかねない。リュートは、間を置かず次を重ねた。
「兄上をひいては王国をそのような盤面に立たせ続けるわけにはまいりません。……加えて、もう一つ。たとえ兄上が裁定を下しても、当事者が自領へ逃げ帰り、学外にいることを盾に従わなければどうなるか。学内で下した裁きが外で覆されれば、兄上の権威は、学園の中だけの張りぼてになってしまいます」
「品位の衝突と、裁きが外で覆ること。確かに、どちらも王家の品位を損ない、現在のみならず将来の王国の安定に禍根を残し得ますね」
王妃は反論を挟まず、視線だけで先を促した。リュートはその意を受け、あらかじめ整えていた二つの献策へ話を進める。
「一つは、裁きの拠り所を、グラクト兄上個人の品位から切り離し、学園の規則とすること。そうすれば、万一リーゼロッテが敗れても、それは規則に敗れたのであって、兄上が妹を傷つけたことにはなりません。直接の衝突は避けられます。もう一つは、その裁きが、当事者が学外へ出た後も覆らぬよう、外での執行力を認めること。そうすれば敗者は逃げ隠れできず、兄上の裁定が守られます。……この二つを、王家の品位を保つ盾として、国王陛下へお取り次ぎいただけないでしょうか」
王妃はリュートの提案を吟味し、現体制の守り手として制度そのものへ意識を向けた。
「あなたの危惧はもっともです。帝国を前に、グラクトやリーゼロッテの権威が軽んじられる隙を見せるべきではない。ですがリュート殿。学園裁判の決定すべてに学外での効力を認めた場合、もし学園で身分に関わる裁判が行われ、学外の貴族がそれを拒絶すればどうなりますか。それこそグラクトの品位は損なわれ、貴族社会の血統の秩序まで乱れることになる。領地の統治や血統の秩序を、学園という箱庭の決定に委ねるなど暴挙です」
リュートも、学園裁判の効力を無制限に学外へ及ぼせるとは考えておらず、何らかの制限がかかることは想定済みだった。王妃は予想どおり、その点を突いてきた。
「ゆえに、学園裁判で扱うことができる事件そのものを、最初から『学園内で完結する財産関係』のみに限定します。婚約や身分、領地に関わる重大な事案は学園裁判の対象から外し、従来通り王宮と諸公爵家の裁定に委ねる。そして『学園内で完結する財産関係』の裁判に限り、学外執行力を与える。それならば身分秩序を揺るがすことなく、学園で下された裁定が外で反故にされる事態を防ぐことができます」
王妃が突いたのは、学外執行力の強弱だけではなく、学園裁判が何を裁けるかという管轄そのものだった。身分や領地を裁く権限を残したまま学外での執行だけを制限しても、学園内ではなお身分秩序に触れる裁定が成立し得る。だからリュートは、執行力を削るのではなく、裁ける事件自体を『学園内で完結しうる財産関係』へ限った。その限定された裁定にのみ学外執行力を持たせることで、身分秩序への介入を防ぎながら、判決の実効性は保てる。
「わたくしから国王陛下へ、そのように上申しましょう。ただし——学園の品位は、あくまで第一王子グラクトの品位によって定められたものとして扱います。グラクトがこのまま王となれば、その品位は王権の品位として引き継がれる。ゆえに学外での執行も、王家の威信によって支えられる。……そういう形にいたします」
リュートは、王妃の示した条件を受け止めるように頭を垂れた。
「恐れ入りました。学園裁判によってグラクト兄上の権威を高めつつ、その裁判の対象自体を限定することで、貴族社会の秩序も守ることができる。私は、グラクト兄上の裁定を学外で守り抜くという『実務の機能』にのみ目を奪われておりました」
リュートは、王妃の指摘を受け入れた姿勢を崩さぬまま、さらに言葉を重ねた。
「もし制限を設けず執行力を与えれば、学園での若者の諍いが親の代の身分や領地境界に波及し、貴族社会の秩序を根本から揺るがしかねません。兄上をお守りするつもりが、王国の根幹を危うくするところでした。私の浅慮でございます。王妃陛下がその綻びをご指摘くださらなければ、私は無用の政争を招くところでした」
王妃は頭を垂れるリュートを見下ろし、学園裁判の機能は読めても、貴族社会を支える身分秩序までは見通せていないと評価した。その限界のある知性ならば手綱は握れると判断し、目の前の若者を第一王子を支える者と見定めた。
「分かればよいのです。あなたは優秀ですが、まだ盤面のすべてを見渡せているわけではない。過ぎた欲は身を滅ぼします。これからは、より一層グラクトを支えることに励みなさい」
再び頭を垂れるリュートに王妃は頷いた。身分秩序を守り抜き、適用範囲を絞り込んだ上で、学園の品位の根拠をグラクトの王権へ括りつけた。旧体制を守る王妃自身には、これ以上ない差配に思えた。
——だが、王妃の思考の片隅に、一つの違和感が残った。
帝国の思惑と、グラクトとリーゼロッテの品位の衝突という力学を弾き出した頭脳が、学園が身分秩序に介入する欠陥を、見落とすものだろうか。自らの限界を、演じてみせたのではないか。
王妃の視線が、頭を垂れるリュートを射抜いた。しかし、リュートの姿勢に崩れはない。王妃はその疑念を切り捨て、自らの差配を正しいものとして受け入れた。
その視線を受けながら、リュートの計算は動いていた。王妃がリュートの知性の限界を誤認し、手綱を握ったと錯覚してくれればいい。違和感を抱かせたとしても、彼女自身が妥当と認めた「財産関係のみ」という制限が、その判断を正当化する目隠しになる。
適用範囲が財産関係に限定されようと関係ない。最初から身分事件を扱うことなどできると思っていない。リュートが真に欲しかったのは、限定された管轄であっても、明文の規則に基づく裁判と対外的な強制執行力が、王家のお墨付きで機能する前例だった。
王家が自らの威信を担保に、学園という箱庭の手続を正式な裁きとして認め、そこで下された判決が現実の社会で強制執行されることを公式に承認した事実こそが、リュートの求めるものだった。この運用が継続し、裁定の執行が反復された時、貴族たちは否応なく学習する。恐れるべきはグラクト個人の機嫌や品位ではなく、明文化された規則と手続、及びそれに基づく執行力なのだと。
王妃がグラクトの継承という果実へ手を伸ばしたまさにその同じ合意の中で、リュートはその根の最初の一寸を土へ埋めていた。同じ卓の同じ約束でありながら、王妃が見ていたのは今日の均衡で、彼が見ていたのは誰も知らぬ未来だった。
「国王陛下の裁可が得られれば、来季から運用を始めます。学園の一年が終わってあの皇子が帰国した後に、その実績を見て継続を改めて判断します」
「ありがたき幸せ。ご期待に沿うよう、必ずや全ういたします」
一年——前例を残すには十分すぎた。彼はその条件にも従ってみせ、急いていると悟らせぬことまで計算に含めていた。