リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
6 知略の長と、嫡子を生かす叱責
魔導卿セラフィナ侯爵の私室は夜半でも静かに息づいていた。壁を埋める書架には幾百の書物が収まり、その隙間に置かれた魔導具が灯を絞った部屋の暗がりへ淡い燐光を落としている。彼は自分の嫡男の始末に一夜を費やしていた。
昨夜の宴でリーデルは家の面目を潰す醜態を晒した。その火消しのため、セラフィナ侯爵は方々へ人をやり、口の軽い者には黙らせるだけの金貨を握らせて、この時刻まで動き続けてきた。当主が嫡男の粗相の後始末に家の財を溶かして走り回る。その屈辱に近い労を彼は眉一つ動かさずに片づけたが、胸の底には澱のような苛立ちが静かに沈んでいる。
卓の前にはその嫡男が畏まって立っている。父に呼ばれた理由をリーデルは叱責と受け取ってはいたがその顔にはどこか腑に落ちぬ色があった。皇子に品位の理を説いたのは家のためを思えばこそ。なぜ咎められねばならぬのか——その思いが伏せた目の底でまだ燻っていた。
リーデルはセラフィナ家の嫡男であり家督を継ぐべき者を見限るなど当主の思案に上る話ではなかった。それにこの息子はなお第一王子グラクトの側近という札を握っている。魔導卿派が次代に力を保つにはその札こそが要る。
第一王子派が王宮の内で確たる形を成しつつある今、その中でリーデルが地歩を築きあわよくば自分に連なる者たちを束ねる芽をその内側に育てておく。加えて帝国との独自の伝手を握ればグラクトが王座に就いた後、リーデルは王国の内で帝国との関係を差配する側近として代えのきかぬ位置に立てる。それがセラフィナ侯爵がこの息子に賭けた次代への布石だった。
だからこそ昨夜の失態は痛かった。問題はこの不出来な嫡男をいかにして使い物になる側近へ鍛え直すかその一点にある。まず本人に自分が何を損なったのかを分からせねばならなかった。
「リーデル。昨夜、お前が何を誤ったか分かっているか」
声を荒げはしない。この問いで確かめたいのは、息子が自らの失態の芯をどこまで見ているかだった。問われてリーデルは頭を垂れた。詫びの姿をとりながらその胸のうちでは失態そのものより、周囲の目に自分がどう映ったかのほうが先に立っている。
「……皇子殿下に進言を退けられ、あまつさえ王女殿下にまでお手を煩わせました。面目次第もございません」
その答えにセラフィナ侯爵は内心で嘆息した。分かっていない。この息子は失態の皮ばかりを撫でてその芯に指が届いていない。進言を退けられたことも王女に頭を下げさせたことも失態の結果であって、その原因となった判断の誤りそのものではないのだ。。
「違う。お前が今挙げたのは、失態の結果にすぎん」
結果だけを失態だと思っている息子に、セラフィナはその結果を招いた最初の判断まで思考を遡らせようとした。どこで判断を誤ったのかを分からせぬ限り、この嫡男は同じ失敗を何度でも繰り返す。
「進言を退けられ、王女殿下の手を煩わせた。それはお前の誤りが招いた結果だ。私が問うているのはその前——お前がどこで判断を誤ったかだ。……先に言っておくが、皇子と誼を結ぼうとしたこと自体は責めておらん。帝国の皇子とグラクト殿下の側近、その両方に取り入っておけと命じたのはこの私だからな。お前はその狙いまでは正しく読んで動いた」
リーデルの伏せた顔がわずかに上がる。叱責を覚悟していたところへ狙いは正しかったと言われて戸惑ったらしい。セラフィナ侯爵はその戸惑いを見据えた。狙いが正しかったからこそ、その先で判断を誤ったことがいっそう惜しい。息子から目を逸らさぬまま、さらに先を促す。
「誤ったのはその先だ。お前の取り巻きが飛沫を浴びた、その時だ。お前は王女殿下の品位を立てようとして、皇子へ詫びを勧めた。そこが最初の誤りだ。お前がすべきだったのは、皇子を動かすことではない。お前自身が頭を下げ、王女殿下と皇子、双方の面目を立てて場を収めることだった。それがあの場で打てた、ただ一つの正しい手だ」
セラフィナ侯爵の言葉には迷いがなかった。下位に立つ者が粗相の泥をかぶり上位の者へ頭を下げる。それでこそ場は収まり詫びを糸口に皇子との誼も自然に結べたはずだった。父が命じた二つの実り——側近としての面目と帝国への伝手——はその一つの手でどちらも掴めた。
「ですが父上。王女殿下は王家の血を引く御方。皇子殿下とて他国の客人にすぎませぬ。この国の品位において王族は何より尊ばれるべき上位でございましょう。ならば皇子殿下の側から王女殿下へ歩み寄り面目を立てるのが筋。私はその品位の理を皇子殿下にお教えしたまでのことでございます」
まだ己の正しさを疑っていない声だった。その反論の中身こそがセラフィナには息子の病の深さをそのまま映して見えた。
「お前は、皇子を王女殿下へ歩み寄らせる側に置いた。つまり皇子を、自分が上から差配し、品位を説いてやれる相手だと見た。お前が踏み外したのはそこだ。あの場でお前より上に立つのは、王女殿下お一人ではない。他国の客とはいえ皇子は皇子——お前よりはるかに上にある。お前は詫びを受ける側ではなく、詫びる側だった。その上下を逆に見たことこそが、お前の失敗だ」
息子が己の正しさとして掲げたものをそのまま病巣として抉り出す。セラフィナ侯爵の声に容赦はなかった。
リーデルの顔から血の気が引いた。皮の下の芯にようやく指が届いたのだ。彼は自分が皇子へ品位を説き、王女殿下への謝罪を促せる立場だと思い込んでいた。その誤った序列認識のまま皇子へ進言したことで場の上下を取り違え、取り巻きも皇子筋を自分たちより下と見て従者へ食ってかかった。そこから応酬が広がり、収めるべき場を凍らせ、ついには饗応役の王女本人に頭を下げさせて退場を命じられるところまで事を運んだ。
叱るだけなら誰にでもできる。当主の務めは叱った後に正しい立ち回りを授けることにあった。そこでセラフィナ侯爵は、この息子の最も危うい癖——品位の扱い方へ話を進めた。
「お前は品位を重んじる。それ自体は悪いことではない。だが、お前は品位を上から相手に押しつけ、従わせるためのものだと思っている。そこが間違いだ」
そのときセラフィナ侯爵の脳裏をゼノビア家の末路がよぎった。武門の当主は政の機微を解さぬまま息子へ『主君の命なくば一歩も動くな』と教え込んだ。下位の者を縛るだけの教えは主君の命を待たずに独断した息子を止められず一族を破滅の淵まで追い込んだ。
あの裁きの場に列したセラフィナ侯爵はそれを武に偏った家が自ら招いた破綻と見下してきた。我が家は違う。側近はただ縛られるのではなく主君の望む結末を読み知略によってそこへ導かねばならない。自分が授けようとしているのは服従だけを教える戒めより一段上の処世である。少なくとも彼はそう信じていた。
「品位は、それを振りかざして従わせるものではない。上位の者の望む結末を実現するために使うものだ。お前は取り巻きに囃され、それを振りかざして、上位者のために収めるべき場を自ら壊した。品位を使うなら、まず自分と相手の上下を違えるな。そのうえで、上位者自身の判断として品位を全うさせ、表向きの功は上位者へ帰せ。上位者の望む結末を、その者自身の判断として実現させた実績は、側近であるお前の立場を強くする。」
上位者の品位を守りながら、自家の立場も強くする。それがセラフィナ侯爵の授けようとした処世だった。品位そのものを目的にせず、上位者を立てたまま、その者自身が望む結果へ導く。息子がその区別を理解すれば、次代の政局を渡る武器になると彼は信じていた。自らの教えに一分の隙もないと信じたまま、セラフィナ侯爵は訓戒を締めくくる。
「……分かったなら下がってよい」
命じられてリーデルは背筋を伸ばした。その顔から先ほどまでの蒼白はもう消えている。叱責を受けたはずの息子の目に宿っていたのは悔いの陰りではなく、何か使命を授かった者のような熱を帯びた光だった。
「……はい父上。よく分かりました。側近たる者は己の考えを上から押しつけるのではなく、殿下のお望みを読み、殿下ご自身の御判断として品位を全うしていただく。それが私の務めなのですね。……肝に銘じます」
その言葉をセラフィナ侯爵は、息子が教えを理解した証として聞いた。息子はようやく上下を守り、上位者自身の望みを読んだうえで品位を使う処世を理解したのだと。満足げに頷き退出する嫡男の背を見送った彼には、『上位者の望む結末』という教えが、息子の中で別の意味へすり替わったことまでは見えていなかった。
リーデルなりに、父の教えを理解したつもりだった。皇子へ品位を説いたことそのものが誤りだったのではない。自分が上から教え諭そうとしたことが誤りだったのだ。ならば側近としてすべきことは、主君へ品位を押しつけることではなく、主君自身の判断として品位ある結末を選ぶよう導くことにある。父の言う「上位者の望む結末」は、彼の中でいつの間にか「上位者が選ぶべき正しい結末」へと置き換わっていた。
そのすり替えに、リーデル自身は気づいていない。父は自分に、品位を軽んじるグラクトを、殿下自身の判断という形を守りながら正しい結末へ導く役目を認めたのだ。そう受け取った瞬間、父の訓戒はリーデルの中で、グラクトを正すという新たな使命へ変わっていた。
父は、上位者の望みを読み、その者自身の判断として実現する処世を授けたつもりでいる。息子は、自分が正しいと考える結末へ、主君自身が選んだ形で導く役目を授かったつもりでいる。二人の理解は『主君自身の判断として導く』という表面だけで噛み合い、その奥では、何が正しい結末かを誰が決めるのかという一点が決定的にずれていた。
嫡男の足音が遠ざかるとセラフィナ侯爵は今宵ばら撒いた金貨のことを頭から追い払った。灯を絞った私室で次代の側近を一歩鍛え直したと信じる知略の当主は、人の心を読むことにかけては誰にも劣らぬはずでありながら我が子の胸の内だけは読み違えていた。