リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
9 家族の食卓
離宮の食卓に湯気が立っていた。会議の張り詰めた気配はもうこの部屋にはない。灯りの落ちた小さな食堂でリュートとリーゼが差し向かいに座り、ルリカはまだ席に着かず二人の皿へ静かに料理を取り分けている。表の顔も裏の企てもこの卓の上ではいったん脇へ置かれる。ここだけがリュートが王子でも企ての主でもなく、ただの兄に戻れる場所だった。
夕餉が半ばに差しかかった頃、リュートはかねて気にかかっていたことを軽い調子で妹に問うた。企ての話ではなく、ただ兄として確かめておきたかったのである。
「リーゼ。来季からあの皇子も学園に入る。婚約の話も進んでいることになっている。……君は本当のところあの皇子に嫁ぐ気はあるのか」
こんな問いを正面から口にできるのもこの食卓だからだった。リーゼとアレクシスの婚約はもとをたどれば、リーデルとの縁談を退けるためにルナリアが帝国を動かして作った時間稼ぎの縁にすぎない。その経緯を三人ともが承知しているからこそ、婚約交渉のさなかにあってなお嫁ぐ気があるかと腹を割って訊ける。リーゼの答えに迷いはなかった。箸を置くと彼女はまっすぐに兄を見て言った。
「ございません。……わたくし、この離宮を出る気はございませんもの」
言い切ったもののリーゼは自分の言葉にふと引っかかったようだった。嫁ぐ気はないならば、この先いったいどうやって自分はこの場所に留まり続けるのか。その問いが胸をよぎったのだろう、彼女はしばし考え込み、やがて悪戯っぽく目を細めて思いつきを口にした。半ば本気の色をその声に忍ばせて。
「いっそ、お兄様の側室にでも入れていただこうかしら。……そうすれば、この家を出ずに済みますでしょう」
その一言にリュートは思わず箸を止めた。動揺したと言ってもいい。そして、その動揺を悟られまいとして彼はとっさに理屈の方へ逃げ込んだ。妹の言葉の底にあるものへ向き合うよりも、それを論で退ける方がこの兄にとってはずっと歩き慣れた道だったからである。
「……馬鹿を言うな。近しい血で子をなせば、その子に負担が出る恐れがある。血が濃すぎるというのはそういうことだ。それに王女である君が僕のような者と婚姻すれば、王家の血筋と離宮の力とが公の場で一つにまとまってしまう。要らぬ疑いを方々から招くことになる。……だからその話はなしだ」
言い終えてからリュート自身、その反論がどこか的を外していることにうっすらと気づいていた。王族の婚姻にはもっと明白でもっと先に語られるべき障りがいくらでもあるはずだった。それを差し置いて血の濃さと権力の集中という手近な二つだけを持ち出したのは、本当に向き合うべきものから目を逸らすために手近な理屈を盾に取ったからにほかならない。彼は自分でも薄々それと知りながらその盾の陰に隠れていた。
だが、その盾はリーゼの手でたやすく崩された。先ほどまでの悪戯っぽさも軽口の色も声から消えて彼女は理を一つずつ確かめていくあの静かな明晰さで兄の論の綻びを衝いた。
「お兄様。危ういのは血ではなく子でございましょう。血が濃いことで負担を負うのは生まれてくる子でございます。ならば、子をなさなければその危うさはどこにも生じません。婚姻することと子をなすことを同じ一つのものとお考えになっているのがそもそもの綻びですわ。その二つは切り離せます。……もう一つの権力のお話も同じこと。婚姻しただけで王家の権もお兄様の背負うものも束なってしまうと仰るのなら、正すべきは婚姻の方ではございません。婚姻しただけで権限まで一緒くたになる、その制度の設計の方でございましょう」
リュートは返す言葉を見つけられなかった。妹がたった今、自分の論を切り分けてみせたその手つきに彼は内心で息を呑んでいたからである。婚姻と生殖を分け、婚姻と公権を分ける。血や身分といった渾然と絡み合ったものを一つずつ解きほぐし、別々の規則の下へ置き直すその刃はまぎれもなく彼自身がこの国を作り替えるために磨いてきたあの分割の思考そのものだった。かつて王宮の書庫で盤を挟みながら、品位も暴力も等しく人を恣意で食い殺すのだと説いて聞かせたあの日の教えが、いま教え子の口から教えた当人へ向かって危なげなく振るわれている。
返す言葉を探すうちにリュートはもっと大切なことに思い当たった。リーゼは婚姻を望んでいるのではない。側室になりたいわけでも、まして兄を異性として欲しているわけでもない。彼女がさきほどから手を変え品を変え言おうとしているのはただ一つ、この離宮からこの食卓から自分が切り離されない形を探しているということだった。嫁ぐ気はないという答えも、側室にでもという軽口もその一つの願いを別々に言い換えたものにすぎなかったのである。
その気づきは彼の胸に悔しさではなく静かな喜びをもたらした。妹が自分の思考を追い越して半歩先へ出た――そう思えたからだ。要をどこにも置かず、誰か一人に全てを負わせない。今日あの会議で確かめたばかりのその設計がいま家族の食卓の上で最初の証しを結んでいる。
もしリーゼが僕の思考をここまで我がものにしているのなら、いつかこの作り替えの設計者という座さえこの妹に譲れる日が来るかもしれない。自分が欠けても回る仕組みを作るとは突き詰めれば自分がこの企ての要でなくなるということだ。設計者としては本来なら寂しいはずのその事実が、いまのリュートには企てが彼一人の頭を離れて根を張り始めた徴として何より確かな安堵に感じられた。リュートが言葉を返さないのを見てリーゼは自分の中で形を得たものを確かめるようにゆっくりと口を開いた。
「……わたくし、ずっと自分は誰も選べずにいるのだと思っておりました。どの縁談もどの殿方もしっくりこない。それはわたくしがわがままで選り好みをしているからなのだと。……でも違うのですわ。わたくしは選べずにいたのではありません。ただ、この食卓を失うのが怖かったのです。必要とされるからここにいる、役に立つからここに置かれる、そうではなくて。ただここにいてよいのだとそう思いたかったのだと思います」
言葉が後半へ進むほどリーゼの声からは理を確かめるときの静かな明晰さが少しずつほどけていった。論理で幾重にも武装してきた彼女が初めてその鎧の下にある願いへ自分から触れていた。『必要とされること』と『いてよいこと』の二つは別ではないか――今日の会議で掴みかけた問いに彼女はようやく自分自身の言葉で答えようとしていた。
今日の会議で確かめた『特定の一人を要にしない』設計は、彼女の中で静かに別の問いへ姿を変えていた。その言葉が食卓に落ちると給仕を続けながら二人の応酬を聞いていたルリカは手にしていた布巾を置いた。侍女として一歩引いていた立場を解くように三つ目の椅子を引き、とうに用意されていた自分の紅茶を手に取る。護衛でも侍女でもなく、この食卓の三人目として腰を下ろしたその所作だけでリーゼの願いは目に見える形になった。
その情景を見てリーゼはようやくいつもの柔らかな笑みを取り戻した。そして、その笑みに少しだけ悪戯の色を混ぜて言い足した。
「ですからお兄様。もし、いつかわたくしが誰かを選ぶとしたら。その方はわたくしをこの家から連れ出そうとなさる方ではございません。この食卓に帰ってこられる道を作ってくださる方。わたくしからこの家族を奪うのではなく、この家族の輪の外側にそっと加わってくださる方。……そんな方がもし現れましたら、そのときは少し考えて差し上げてもよろしくてよ」
容易には満たせぬ条件を柔らかな言葉に包んで差し出した。それは当分は誰のもとへも嫁がず、この食卓を失わないという静かな誓いでもあった。だが、いまはその輪の外にいる一人の皇子がいつかそこへ加わりうるのではないかとリュートだけがふと思い当たり内心で苦笑した。この妹が守ろうとする家族の輪へはたしてあの皇子が加われる日が来るのか。それはまだ誰にも分からない。
夜が更けていく。この食卓の温もりは王宮の誰の目にも映らない。隠されたものを見逃すまいとしたアレクシスも、一日の視察で掴めたのは離宮が見せると決めた範囲までだった。必要とされるからではなくただいてよいからここにいる。その繋がりは有用か無用かを測る視線の外にあり、外から探るだけでは触れられないものだった。
だが、春の休みは明日で終わる。学園が再開すれば、リュートは三年目を迎え、リーゼとリーデルが新たに門をくぐり、アレクシスも留学生として加わる。視察のあいだだけ遠くから注がれていた皇子の目は明日から日々のすぐ隣に置かれる。表に立つのはリーゼ、影に退くのはリュート――今宵確かめた配置がその目の間近で試される日々が始まるのだ。
食卓の湯気はまだ細く立ちのぼっている。その温もりを三人はしばし無言で分け合った。明日から始まる長い攻防を前にした束の間のけれど何より確かな家族の時間だった。