リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

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第9章『法治の拡張』
第1話『秩序の告示1』


1 民事制度の骨格

 

 入学式まで、あと一刻あまり。生徒会室の卓には、役員の一人ひとりの前に、革表紙の冊子が一冊ずつ配られている。表には『学園民事制度』とだけ箔押しされていた。同じ冊子の束が卓の端になお高く積まれているのは、今日の式を終えた全生徒へ配る分である。窓の外を、新入生を講堂へ導く係の声が中庭伝いに横切っていくが、この部屋の内側にはまだ、式を待つ生徒の気配は届いていない。

 

 卓を囲むのは、今期の役員だった。最終学年のベアトリス、三年のグラクト、エドワルド、ヴィオラ、アイリス、ライオネル、二年のユスティナとレオンハルト。風紀官の三人はまもなく会場設営の指揮へ抜けるが、それまでの半刻を、リュートは式の前の擦り合わせに充てるつもりでいた。新入生の着任は式のあとと定められているから、リーゼロッテもリーデルも、留学生のアレクシスも、まだこの場にはいない。

 

「式の前に、共有しておきたいことがあります」

 

 リュートが口を開くと、雑談めいた気配は自然に引いた。この一年、彼が段取りの前置きを口にするとき、それが単なる連絡で終わったためしがないことを、この場の全員が知っている。

 

「お手元の冊子には、今年からの学園裁判の枠が結論だけ書いてあります。このあと兄上が新入生への挨拶でその趣旨に触れますが、生徒に問われて役員が答えられないと、規範そのものが軽く見られます。ですから先に、順を追って理由ごと説明しておきます。まず一つめは、人事です。昨年まで私が務めていた訴追官の役目を、今年からはリーゼロッテに引き継ぎます。婚約交渉の当事者である彼女を裁きの表に立たせておけば、来られる帝国の皇子殿下にその力を示せます。王家にとっての利にもなる配置です」

 

「リーゼロッテは本宮でずっと守られて育った身だ。訴追官のように、法廷で大勢を前に理を張り合う役に、あれほど守られてきた者の力が届くのか。届かぬまま演じさせて、心のほうが潰れはしないか」

 

 グラクトは、妹が母ヒルデガードのもとでただ大切に育てられたものと信じている。だからこれまでの裁判の経験に照らして、守られてきた妹に訴追官の重責が務まるのか、その心が持つのかを案じたのだ。

 

「その二つとも、私が引き受けます。裁きの筋を組み立てる力が及ばないなら後ろで補いますし、役目の重さに心が傾けば支えます。前の訴追官が次の訴追官を見るのは筋の通った話です。分からないことがあれば私に聞けばいい、任せきりにはしません」

 

 リュートの答えは、能力と心の両方を分けずに引き取るものだった。それを聞いても、エドワルドはグラクトが妹の能力そのものを危ぶんでいるとは受け取らなかった。交流の薄い自分でさえ饗応の席でリーゼロッテの采配を見て取ったのだから、弟妹として近いはずのグラクトがその力を知らぬはずはない、と前提していたからである。ならば会長が本当に案じているのは能力ではなく心のほうだと、エドワルドは読んだ。

 

「殿下が気に懸けておられるのは、役目の重さに心が耐えられるか、でしょう。そこは心配いりません。訴追官の席が苦悩を伴うのは確かですが、リーゼロッテ殿下がそれに呑まれるとは思えません。昨年の使節饗応で、あの方が難しい席をどう捌くかは、この目で見ています」

 

 グラクトが最も判断を頼る側近が、実際に見た上でそう請け合う。能力への危ぶみには触れられぬままだったが、心の側を保証されたことで、会長の懸念はひとまず鎮まった。

 

 そこへ、ヴィオラが言葉を添えた。王妃からリーゼロッテへの説明役を託されている以上、この配置の筋は自分の口からも通しておかねばならない。そしてこの一言は、これまで表向き交わりのなかった協会長と第一王女が、公の場で結びつきを持つ最初の機会でもあった。

 

「殿下、リーゼロッテ殿下へのご説明は、わたくしがお引き受けしております。皇子殿下のご関心をこの学園に、とりわけリーゼロッテ殿下へ向けておくことは、婚約交渉を進める上での要にございます。そのために訴追官の席が要るのであれば、わたくしも協会の側から場を整え、力を添えますわ」

 

 アレクシスを引きつけるためにリーゼロッテを表へ立たせるという筋が、婚約交渉の当事者と協会長の双方から示されたことで、移譲の理由は誰の目にも通った。アイリスもその理由に得心し、なぜリーゼロッテなのかを問い返しはしなかった。

 

「二つめは、裁きの根拠です。学園裁判の根拠を、人の品位から学園そのものの品位へ移します。これは去年から進めてきたことで、いまさら驚く話ではありません。ただ、今年はリーゼロッテが訴追官として、兄上が裁く側として、同じ法廷に立ちます。もし裁きの根拠を個人の品位に置いたままなら、判決の一つひとつが、リーゼロッテの品位とグラクト殿下の品位のどちらが上かという争いに見えてしまう。それを避けるためにも、裁く基準は個人ではなく、学園に属する者へ等しく求められる振る舞いに置き直します」

 

 規範を人から場へ移せば裁く側自身にも及ぶ、その帰結をエドワルドは念のため確かめにきた。

 

「その基準は、会長にも等しく及びますね。学園の品位で裁く以上、裁く側のグラクト殿下もまた、同じ品位で測られることになる。そこまで含めての移し替えだと理解してよろしいか」

 

「及びます。学園の秩序のために学則を作り、それを承認したのは兄上ご自身です。作った者が自分だけは及ばないとすれば、それは自ら承認した規範への責任を放棄することになる。だからこそ、兄上が真っ先に縛られる。そこまで含めなければ説得力を持ちません」

 

 その念押しに、グラクトは迷いなく応じた。かつてセオリスの暴走を制御できず、責任を負わぬまま神輿に甘んじた自分を、彼はもう演じるつもりがない。神輿を降りて一人の主体として立つとは、自ら承認したものに自ら縛られることにほかならないと、この一年で分かっている。

 

「構わない。私が承認した学則が、俺自身を縛る。それを式辞で、俺の言葉として言おう。俺が言い出した形にしておかなければ、いずれ私が最初にその規範から逃げたとき、誰も俺を止められなくなるからな」

 

「三つめは、裁きの及ぶ範囲です。昨年までは学則違反、つまり生徒と学園の間の争いだけを扱いました。今年からは、そこへ生徒どうしの財産の争いを加えます。貸し借り、売り買い、約束の不履行といった、金銭や物へ換算できる紛争です。そのうえで、ここで下した財産上の裁定には、学園の外でも効力を持たせます。この執行力も、王妃様のご承認を得ています」

 

 執行力が家と家の取引にまで及ぶことよりも、去年の暮れに聞いていない仕組みが前提に置かれている点に、アイリスはまず引っかかった。

 

「リュート殿下、その争いの相談は、まずどこが受け付けますの。昨年わたくしが伺っていた話には、生徒同士の相談を受ける窓口までは、まだ含まれておりませんでしたわ」

 

「今年から、その窓口を生徒会が担います。エドワルドと昨年末に組んだ民事事件における相談制度です。ここが要になるからこそ、範囲をはっきりさせておかねばなりません。膨大な事件が考えられる民事事件においては、何を受けるかがあやふやだと、財産の争いも、ただの愚痴も、みな役員のところへ流れ込んで捌ききれなくなる。何を受け、何を受けないか。その線引きが、そのまま役員の負担を決めるからです」

 

 アイリスは扇を閉じ、その方針に頷いた。境目を一件ずつ詰めるという判断が、海運や金融の帳簿で契約の成立地と紛争地が割れる取引を幾度も見てきた自分の実感と、そのまま噛み合っていたからである。

 

「殿下のおっしゃる通り、そこは一件ずつ詰めるほかございませんわね。ただ、そうと決めれば、詰める仕事はみな生徒会へ集まってまいります。いずれ役員だけで抱えきれるものか——相談を受ける手を増やす要も出てまいりましょうけれど。もっとも、それは今日この場の話ではございませんわ。式で何をお伝えするか、先にそちらを」

 

「それは後の議題にするとして話を戻しましょう。いま詰めているのは、学園の内の争いとしてどのよな事件を受けるかという、その境界のことです。これは形式的には決められません。契約というものは、交わされた場と、その中身が争われる場が、いつも同じとは限らない。家と家の間で交わされた約束が、その中身をめぐって学園の内で争いになることもあります。それが学園の内で始末のつく争いに入るのかどうかは、一つの決まりで括れるほど単純ではありません。ここで基準を示してしまうと、実情に合わない決まりを後生大事に守ることになる。ですから事件を受けることができるかという境界は、実際の争いが持ち込まれたときに、一件ずつ詰めます」

 

 交わされた場と争われる場が割れる取引を、アイリスは海運と金融の帳簿で幾度も見ている。だからこそ、境目を一件ずつ詰めるというその判断が、逃げではなく実務の裏づけを持つものだと分かり、扇を閉じた。

 

「残るは、この制度をどのように周知させるかです。冊子を配る手筈は整っていますから、あとは趣旨を誰の口から通すか——」

 

 その先をリュートが役員へ諮り終える前に、グラクトが「そこは私が行う」と言葉を断った。趣旨を誰の声で通すかは、補佐の采配に委ねてよい細目ではない。品位を学園へ移し、その規範に自分が真っ先に縛られると告げる役目を他人の口から流させれば、承認した当人が承認から半歩退いたことになる。だからこそここだけは自分の声で引き受けると、心を決めた。

 

「先程の品位の内容も含め式辞で、私の口から言い渡すことにする。品位を学園のものへ移すこと、それが私自身をも縛ること。王家の名で公に告げた以上、以後この学園で、その規範を知らなかったとは誰にも言わせないためにその形にするのが一番だ」

 

 それに、異を唱える者はなく、風紀官の三人が設営の指揮へ立ち、残る役員も式へ向けて席を立った。誰も声を張らないまま、学園の裁きの根拠を人から規範へ移す一年が、この静かな朝から始まろうとしている。遠くの講堂で、開式を告げる鐘が鳴りはじめた。

 

 

 

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