リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 現実の舞台へ
講堂の正面扉は両開きに開け放たれ、朝の光が石床の半ばまで差し込んでいた。テトラは扉の脇に立ち、腕に抱えた冊子の束から一冊ずつ取り出して、入ってくる生徒へ渡していた。革表紙には『民事制度』の四文字が箔押しされている。
上位貴族の子弟にとって革装丁の冊子そのものは珍しくないはずだが、入学式の日に民事制度を扱う冊子を一律に渡されることには、まだ馴染みがないらしい。その場で頁を開く者もいれば、題だけを確かめて従者へ持たせる者もいた。
テトラは一人ひとりの動きを目の端で確かめながら、配布の手を止めなかった。何人がその場で中を確認し、何人が確認しないまま席へ向かったかという行動なら、観察した事実として報告できる。そこから何を読み取るかは、他の材料と合わせて判断されるべきことだった。
隣ではスピネルも同じ冊子を配っていた。没落男爵家の令嬢という来歴を知らない生徒には、まず整った顔立ちのほうが目につくらしく、冊子を受け取ったあとにも立ち去らず、話しかける機会を探す男子生徒が幾人かいた。
スピネルは彼らと目を合わせることなく、後ろに待つ生徒へ次の一冊を差し出した。入口で列を滞らせれば風紀官から注意を受けるため、男子生徒たちも居残ることはできない。拒絶の言葉を使わず、配布係としての役目を続けることで、私的な会話へ移る余地を与えないやり方だった。
新入生の列が一度途切れたところで、回廊のほうからライオネルが歩いてきた。風紀官の腕章をつけたままで、持ち場から長く離れるつもりはないらしく、立ち話を済ませればすぐ戻れる位置に足を止めた。
「精が出るな、テトラ。これが終わったら席の整理にも回ってもらうことになりそうだ。朝から悪いな、こき使って」
「問題ありません。こちらはそろそろ、全員の入場が完了すると思います。全員が入ったことを確認できましたら、ライオネル様のもとへ向かいます」
テトラは短く返し、入口へ来た生徒へ一冊を渡した。ライオネルは回廊と講堂の双方へ一度ずつ目を向けた。人払いをすれば、それだけで聞かせたくない話だと知らせることになるため、周囲に立ち止まる者がいない時間だけを選び、普段と変わらない声量で口を開いた。
「突然で済まないが、卒業したあとのことなんだが、オレはいずれ南を継ぐことになる。そうなれば、言われた仕事だけをこなす人間じゃ足りない。数字を読んで、集めた事実を整理して、その上で上の意図を汲み取って自分なりの判断を出せる人間が必要になる。それに、扱う話の中には外へ漏らせないものも出てくる。お前みたいなのが南に一人いてくれると、かなり助かるんだよな。考えてもらう余地、あるか?」
次の冊子へ伸ばしかけたテトラの指が、わずかに止まった。孤児院で拾われ、読み書きと計算を教えられ、特待生として学院へ入った自分に、いずれ公爵家を継ぐ男が将来の仕事を持ちかけている。しかも求められているのは、命じられた数字を書き写すだけの事務員ではなく、情報を整理して判断に関わる人材だった。その評価の意味を理解したからこそ、テトラは喜びを示すより先に提案の範囲を確かめた。
「私を公爵家の政務の一員として迎えたい、という意味でしょうか」
ライオネルはすぐには肯定しなかった。テトラ本人の希望だけで決められる話ではないと承知している以上、ここで公爵家への移籍を既定のものとして扱えば、彼女を育てて現在の役目を与えている側への干渉になる。
「もちろん、移籍自体も選択肢には入る。ただ、今ここで返事されても、オレのほうが困る。君が今どこに属していて、本人一人の判断で動ける立場じゃないことくらいは分かってる。必要なら、話は然るべきところへ通す。それに、南へ移ってもらう形だけが答えとも思ってない。今の所属を変えず、必要なときにこっちと話のできる人がいるだけでも、処理しやすくなる案件は多い。互いに人を出し入れした事実を表立って残さないほうが都合のいい仕事もあるからな」
最後まで聞いて、テトラは相手が求めているものを理解した。テトラ個人の能力だけを評価しているのであれば、現在の所属を維持したまま協力させるという発想は出てこない。少なくとも彼は、テトラが属する先と南部公爵家のあいだに連絡役を置くこと自体に利益があると見ており、それ自体は納得できるものであった。
「能力のある人間が、最初に属した場所だけで将来まで決まる必要はないと思ってる。今日は、そういう道もあるって伝えたかっただけだ。お前が応じてくれるとしても、南を専属とする立場となるにしても、先に話すべき相手へ話してからでいい」
回廊の角から新しい生徒の一団が姿を見せた。これ以上ここへ留まれば、風紀官が持ち場を離れて何を話していたのかという別の関心を招くため、ライオネルは会話を切り上げた。
「じゃ、こっちは任せた。あとで席の整理も頼む」
「承知しました」
ライオネルが誘導へ戻ると、テトラは次の一冊を取り出した。
今の会話がテトラ一人への評価なのか、孤児院を出た者たちに別の進路が生まれ始めた兆候なのかは、まだ分からない。同種の申し出が他の者にも向けられるのかを見なければ一般化はできないが、孤児院で教育を受けた者の能力が、保護した側の内部だけでなく、別の統治主体からも利用価値を認められたことは確かだった。もし同じ動きが続けば、地方統治や他組織へ人材を送り出す選択肢が生まれる可能性がある。
隣で冊子を配っていたスピネルが、一度だけテトラへ視線を向けた。どこまで会話を聞いていたのかは分からないが、問いただすことも、自分の希望を先に示すこともなく、次に来た生徒へ冊子を渡している。その態度から確かに読み取れるのは、この場でテトラに結論を迫るつもりがないということだけだった。
テトラも何も言わず、残りの冊子を一冊ずつ生徒の手へ渡していった。
◇
馬車を降りたレティシアが講堂へ続く石畳へ足を踏み出したとき、一年前にも同じ道を歩いた懐かしさと、その頃の自分を思い出す居心地の悪さが同時に胸へ戻ってきた。
制服も、石畳も、遠くに見える尖塔も、一年前から大きく変わってはいない。それでも景色が以前と違って見えるのは、この場所について知っていることが増えたからだった。
一年前のレティシアにとって、この学院は生活する場所というより、知っている物語が進行する舞台だった。次に何が起きるのか、誰と会えばイベントが進むのか、攻略対象がどの場面で自分を見るのかということばかりを考え、自分では行動しているつもりでも、実際には記憶している筋書きに沿って次の出来事を待っていた。
講堂の入口で、見覚えのない小柄な少年から冊子を一冊渡された。
「ありがとうございます」
受け取った革表紙には、『民事制度』と箔押しされている。一年前なら、授業か世界設定を説明するための冊子だと考え、恋愛に直接関係しないと分かれば後回しにしたかもしれない。だが今は、この題を見て読み飛ばす気にはならなかった。
民事制度が何を定めているのかを知らなければ、自分が家の中でどのような立場にあり、財産や契約や婚姻について誰が何を決められるのかも分からない。提示された条件が従わなければならないものなのか、拒否や交渉の余地があるものなのかについても、判断する基準を持てない。
春休みの二か月で、レティシアはそれを自分自身の問題として理解した。実家では、相場の暴落によって家の存続が危うくなり、父が帳簿と契約条件を追いながら資金をつなぐ方法を探し続けていた。家に金がなくなれば、誰の財産を処分するかだけでなく、誰との関係を条件に資金を得るかまで検討され、その中には娘である自分の婚姻や将来も含まれ得る。父には家を残す責任があるとしても、その合理性の中へ自分の人生が組み込まれる側にとっては、家の事情だけで受け入れられる話ではなかった。
さらに、携帯式の端末を持って村を回ったときには、借金を返せない家から奉公へ出される同い年の娘たちを、自分の手で登録した。人口調査として記録する側から見れば、名前と年齢と番号を間違えずに入力し、一件処理すれば次へ移るだけである。しかし、登録したからと言って奉公を取りやめることができるものではなく、予定通り家を離れ、別の生活へ移ることになる。
その経験を経て学院へ戻ると、ここを以前と同じ意味で「舞台」と考えることはできなかった。この学院で教育を受けた貴族の子弟たちは、やがて家や領地や役所へ戻り、人の財産、契約、婚姻、仕事に関わる判断をする。自分もまた、その社会の外側から眺めている者ではなかった。
指定された席へ向かいながら、レティシアは去年の自分が何をしていたのかを考え直した。次のイベントを待ち、攻略対象が自分へ関心を向けるのを待ち、知っている筋書きが正しい結末へ運んでくれるものだと思っていた。何かを選んでいるつもりでも、その選択肢はゲームの記憶から与えられたもので、自分が現実の条件を調べて作ったものではなかった。
春休みに思い知ったのは、自分に関わる条件を知らず、決定を他人へ預けたままでいれば、自分の将来についても他人の事情を優先した結論が出され得るということだった。家を存続させようとする父にも理由があり、債務を回収する側にも理由があり、娘を奉公へ出さなければ家計を維持できない家にも事情がある。それぞれが自分の立場から合理的に判断する以上、レティシア自身が何も主張しなければ、彼女の希望だけが当然に優先される理由はない。
自分の人生を自分で選びたいのであれば、何が起きているかを知り、どの条件なら受け入れられ、何を受け入れられないのかを知って、判断しなければならない。その判断が他人と衝突するのであれば、なぜ拒むのかを説明し、その結果として何を失うかについても引き受ける必要がある。
席に腰を下ろしたレティシアは、学院へ戻ってきたという実感を持った。去年と同じ場所へ戻っても、自分まで去年と同じでいる必要はない。ここで学び、自分に関わる制度を知った上で何を選ぶかを決めることが、今のレティシアにとって学院へ通う意味になっていた。
そして、グラクト様についても、同じように考える必要があった。
去年のレティシアは、グラクト様本人を知るより先に「攻略対象の王子」という役割を当てはめ、正しい選択肢を選び続ければ最後には自分を選んでくれる存在だと考えていた。だから、王家の婚姻、継承、身分秩序が現実の制度として自分の前へ現れたとき、制度への拒絶とグラクト様個人への評価を分けることができず、彼本人から裏切られたかのように受け取って距離を置いた。
今になって考えれば、その反応には、自分が最初から彼自身を十分に見ていなかったことも関係している。グラクト様が王家の制度の中にいることも、レティシアがその制度に受け入れられないものを感じたことも変わらない。ただ、彼が制度をどう考え、自分の地位に伴う義務を何だと理解し、何を自分の意思で選んでいるのかについて、レティシアはまだ十分に知らない。
攻略対象だから好意的に解釈することも、王家の人間だからという理由だけで本人の言葉を聞く前から拒絶することもしない。グラクト様が何を考え、何を行い、自分の立場から生じる結果にどこまで責任を負おうとしているのかを見た上で、自分が彼をどう評価するのかを決める。
その結果として自分が彼を選びたいと思っても、彼が同じ結論を出す保証はない。反対に、彼から望まれても、レティシアが受け入れられない制度上の条件まで引き受ける理由はない。現実に提示される条件を見て判断する必要がある。
そして、グラクト様との関係だけがレティシアの将来を決めるわけでもい。オセロ協会で働いた経験によって、自分にも仕事を持ち、任された役割を果たして対価を得る道があると知った。ただし、王家との関係を選んだ場合にその仕事を続けられるのかはまだ分からず、婚姻や身分にどのような制約が生じるのかを調べていない以上、両立できるとも、できないとも決めるべきではない。
分からないことが残っているのであれば、先に結論を作るのではなく、必要な事実を確かめればいい。グラクト様がどういう人間なのか、王家の制度は何を要求するのか、オセロ協会で働き続けるためには何が必要なのかを知った上で、何を選べば何を得て、何を失い、その結果にどのような責任を負うのかまで考える。それができて初めて、自分で選んだと言えるのだと、レティシアは思った。
講堂の高い天井には、生徒たちのざわめきが反響していた。レティシアは膝の上へ置いていた『民事制度』を開き、冒頭の頁へ目を落とした。
自分に関わる制度を知り、その制度が何を認め、何を認めていないのかを確かめる。その上で、自分に提示された条件を受け入れるのか、拒むのか、別の条件を求めるのかを判断する。
誰かが用意した筋書きではなく、自分が知った事実を根拠として選ぶために、レティシアは最初の一行から読み始めた。
ストックが無くなってしまったので、基本日・火・木の週3回の更新に変更させていただきます。ちょっとしんどくて。
もし、楽しみにしている方がいらっしゃるなら、申し訳ありませんが、許容していただきたいと思います。