リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 品位の在処
新入生の入場に続いて式次第が進み、生徒会長として挨拶に立つ番が来て、グラクトは壇へ上がった。正面に立つと、講堂を埋めた生徒の顔が一望できた。前方には四大公爵家をはじめとする上位貴族の子弟が並び、後方へ向かうほど下位貴族から特待生の席へと連なっている。誰がどの言葉にどう応じるかは、壇の上からのほうがよく見えた。
「新入生諸君の入学を、生徒会を代表して歓迎する。この学園は諸君が学び、互いに交わるための場だ。家の名を競う場でも、身分の上下を確かめ合う場でもない。学業を修め、いずれ王国の各所でその力を用いる。その素地をここで培ってほしい」
定型の歓迎に学園の本務を重ねたここまでは、例年の会長挨拶と変わらない。多くの生徒は、次の一節が来るまで、今年も型どおりの祝辞が続くものと聞いていた。
「その本分を全うするために、私が一つ取り組んだことがある。まず、その前提を諸君と分かち合っておきたい。この学園が落ち着いて学べる場になっているかどうか、ということだ。何をすれば守られ、何をすれば咎められるのか。その線引きが曖昧なままでは、生徒は自分の振る舞いが咎められはしないかと絶えず気を配ることになり、学びそのものに気を集められない。線引きが誰の目にも明らかであればこそ、生徒は余計な気遣いから解かれ、本分である学びに専念できる」
グラクトはそこで一度、講堂の全体へ視線を巡らせた。前方の席にも後方の席にも、等しく問いを向けるまなざしだった。
「そこで私はこう考えた。学則とは、学園の秩序を守るために私が定めて承認した決まりだ。この学則に沿って物事を解くかぎり、どちらの言い分が通るかは学則だけで決まる。そこに、それ以外のものは入り込まない。この、学則が示す振る舞いのことを、学園の品位と呼ぶことにする。個々人の品位ではなく学園の品位を拠りどころにするとは、そういう意味だ。そして、この学則を定めて承認したのは私だ。定めた者が縛られないのでは、その学則は誰にも守られない。だから私は、作った責任として、私自身もこの学則に縛られる。会長だから逃れられるということも、王族だから外されるということもない」
グラクトは手元の冊子を掲げてそれを体の向きを変えつつ講堂にいる全員に見えるように掲げる。今朝すべての生徒に手渡したものである。
「その考えのもとで、今年から新しい試みを設ける。諸君の手元にある『民事制度』が、その概要だ。これまで学則が扱ってきたのは、学園の秩序を乱す行い、つまり学則そのものへの違反だけだった。今年からはそれに加えて、生徒どうしの争いごとも学則に沿って解決できるようにする。貸し借り、売り買い、約束の不履行。金銭や物に換算できる、生徒と生徒のあいだの争いだ。秩序を乱したかどうかを問う従来の扱いとは、拠って立つところが違う。どちらの言い分が学則に照らして通るのかを解きほぐす。それが、この制度だ」
グラクトは、そこで一気に先を続けなかった。学則を定めて承認したの責めも自分が負う。それを、これから王国を担う次代に示しておきたかった。責めを負って立つ主君の姿を次代に見せこの主君についていこうと思わせること。その積み重ねの先にしか、自分が望む相手を迎えられる立場は開けない。
加えて、王族である自分が真っ先に縛られると示せば、この学則は、もはや誰の家格をもってしても軽く覆せるものではなくなる。だからこそ、この言葉を一方的に告げて済ませるつもりはなかった。グラクトは講堂をゆっくりと見渡し、前列の一人へ、後方の一人へと順に目を合わせていった。いま話しているのは諸君一人ひとりに向けてなのだと、視線を重ねることで伝え、全員を視野に収めてから、次の言葉を継いだ。
「これは、いまの私が考えた形にすぎない。私自身、これで十分だとは思っていないし、これからも考え続けるつもりだ。だから諸君にも考えてほしい。この仕組みは、諸君の学びを支えるに足るものか。足りないところがあるなら、どこをどう補えばよいか。まずは冊子を読み、各自で考えてみてほしい。制度について問いがあれば、生徒会が窓口として受け付け、その問いに答える。争いを抱えた者の相談も、同じく生徒会が受ける。この制度は渡して終わりのものではない。諸君と共に、より確かなものへ育てていきたい」
前方の席で、幾人かが視線を交わした。会長が自ら学則に縛られると言い切ったことの意味を、彼らは静かに測っている。定めた者が真っ先に縛られると公にした以上、この学則は、後から誰かの家の重みで押し戻せるものではなくなる。そのことを察した者ほど、面には出さず、口を結んだ。何を思おうと、それを表に出すこと自体が品位を欠く振る舞いとされる以上、彼らに残された手立ては沈黙のほかになかった。
後方の席の受け止めは、静かな高ぶりだった。下位貴族や特待生の席では、幾人かが目を見張り、わずかに身を乗り出している。何をすれば守られるのかが学則で明らかになり、その学則には会長自身も縛られるという。これまで気を張って上を見ていなければならなかった者ほど、その言葉に、息のつける場所を見た心地がした。だが彼らも、喜びを声にはしなかった。この場で下位の者が浮き立てば、それだけで品位を乱したと見なされる。彼らの高ぶりは、見開かれた目と、前へ傾いた姿勢の内側にとどまっていた。
「あらためて、諸君の入学を祝う。身分の別なく落ち着いて学べる場を、諸君と共に築いていきたい。よき一年としよう」
結びまで述べて、グラクトは壇を下りた。その足取りの内で、グラクトは今の反応を、望みどおりのものだとは考えていなかった。制度を告げ、共に考えようと呼びかけても、声を返した者は一人もいない。皆、それぞれの立場でこの制度の重みを測りながら、口を開くには至っていない。
今日の呼びかけは、その静けさの中へ問いを一つ差し入れてみせたにすぎない。この問いかけを幾度も重ねれば、生徒はやがて制度の中身を自分で吟味し、疑問があれば口に出すようになる。そうして生徒がこの制度を自分たちのものとして扱うようになって初めて、学園はその下でひとつにまとまる。
担がれる神輿としてではなく、自ら学生をまとめて次代へ影響を及ぼす主体として立つには、この一歩を積み重ねるしかない。グラクトは、静まった講堂を背に、そう見積もっていた。
◇
新入生席のリーデルは、前方の抑えた沈黙とも後方の抑えた高ぶりとも違う受け止め方で、グラクトの挨拶を聞いていた。
引っかかりは、二つあった。
一つは、殿下が下の者に問うたことだ。諸君はどう考えるか、と殿下は言った。上位に立つ者がそう望むなら、応えるのが下位の者の務めである。だからリーデルも、まずはその問いに向き合おうとした。だが、向き合おうとしたその手前で立ち止まった。
そもそも、上に立つ者が、下の者に考えさせる必要があるのか。品位とは、下位の者が上位者の意を汲み、その威厳を損なわないよう自ら振る舞うことをいう。上位者は自分の判断を示せばよく、それを汲んで形にするのが下の者の務めだ。ところが殿下は、自ら定めるべき判断を下の者に預け、逆に問い返してくる。リーデルには、それが品位の順序を逆さまにしたものに思えた。
もう一つは、殿下が自ら学則に縛られ、その責めまで負うと言ったことだ。誤りの責めを負うのは、本来、臣下の役目である。上位者が過ちに触れそうになれば、臣下が自らの不徳として引き受け、主君の威を守る。それが品位の作法だ。主君が自ら縛られ、自ら責めを負うと公言すれば、臣下が主君を守る余地はなくなる。責めを負うと自ら口にする殿下の姿は、リーデルの目には、守られるべき立場を自ら手放しているように映った。
この二つは、拠りどころとされた学園の品位そのものへの疑いに行き着く。殿下は、自ら定めた学則を、そのまま学園の品位の表れだと言う。だが品位とは本来、家々が長い歴史の中で築いてきたものではないのか。それぞれの家が代々王国に仕え、その働きの積み重ねが家格となり、家格が品位となって、いまの秩序を支えている。
学園という、その歴史よりずっと後に生まれた場の学則を、そのまま品位と呼んでよいものか。まして王家は、この国の品位が発する源である。その源に連なる殿下が、自ら作った学則を品位と称し、その是非を下の者に問い、あまつさえ自らそれに縛られると言う。
グラクト殿下は、品位というものの在り処を、取り違えておられるのではないか。
その疑いが、リーデルの内に静かに生じた。だが彼は、それを表情にも、隣の者への言葉にも出さなかった。入学式の場で新入生が会長の挨拶に異を唱えること、それこそが品位を欠く振る舞いだと、彼自身が誰よりよく知っているからだ。いま口にすべきことではない。リーデルは抱いた問いを胸の内にとどめ、壇を下りていくグラクトの背を見つめた。
いずれ、この引っかかりを確かめる場が来る。そのときまで、この問いは自分の内で温めておけばいい。そう決めて、リーデルは前へ向き直り、次の式次第へ意識を戻した。