リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
6 問いの残り火
アレクシスとイザルトが去り、生徒会室にはグラクトとエドワルドだけが残った。卓の上では、あの皇子が口をつけなかった茶が、とうに湯気を絶やしている。学園の品位は何を拠りどころに立つのかと去り際に問われて、グラクトは答えられなかった。一人になったいまも、その問いが胸から去らずにいる。
「エドワルド。あの学則を組み上げたのは、お前とリュートだ。あれが私の権威を拠りどころにしていることは、私にも分かる。生徒が学則に従うのは、その根に神の血を継ぐ第一王子の位があるからで、そこまではあの皇子にも答えた」
神の血を継ぐ者の言葉ゆえに皆が従うという理屈なら、幼い頃から体に刻まれている。臣従の儀では、自らの刃が臣下を傷つけても詫びてはならず、それを下位者の不徳として引き取らせることこそ王家の品位だと教えられた。位が人を従わせるとはどういうことか、その作法としては知っているが、そこから先が続かない。
「私が詰まったのは、その先だ。あの学則は家の格によらず学園の者すべてを一律に縛る。私の権威で従わせるなら、家格の高い者を上に置く形にもできたはずだ。それをせず一律にしたのは、どういう考えでのことだ」
「殿下が、思うように動けるようにするためにございます。家格が幅を利かせておれば、生徒はまず己の家に従い、その次に殿下を仰ぐ。家と家の釣り合いに殿下のお手も縛られますが、家格を退けて一律に据え直せば、生徒は家をではなく殿下を直に仰ぎます」
エドワルドの答えには迷いがなかった。この一律が最後にどこへ届くのかまで、この側近は初めから見据えて組んでいる。
「殿下がお進めの第一王子派の確立も、後宮の力の配りようを変えることにほかならず、家々の顔色をうかがう立場のままでは成りませぬ。あの一律は、殿下がご自身の手で動けるようになるための地ならしにございます」
筋は通っていたが、いま初めて聞く話ではなかった。この学則を承認したとき、グラクトは似た言葉をエドワルドから聞かされ、なるほどと頷いて判を押している。一律に縛るという形も、そこへ込めた狙いも、自分が生み出したものではなく、エドワルドとリュートが組み上げたものを良いと思って承認したにすぎない。
あの皇子に詰まって初めて、その承認が何をしたことになるのかを、グラクトは疑った。式辞では、この学則には自分も縛られる、会長だから王族だからと逃れはしないと、次代の前で言い切った。だがそれは、定められた則を自分も守り、その通りに回すというところまでのことだったと、いま思い知る。
「私は、この制度を運ぶ責めなら負っている。運用を誤れば、運用を正せばいい。だが、この制度そのものが誤っていたなら、それが生む一切が誤りになる。その、制度そのものの是非を負う責めを、私はまだ負っていない。あの皇子は、そこを訊いていた」
「殿下、それは負う必要のない責めかと存じます。制度の是非をその根から負うなど、王のなさることではございません。王は良しと定めて用い、是非を詰めるのは我ら臣下の役目にございます。殿下は我らの組んだものを是と裁可なさった。それこそが、王の責めの果たし方かと」
王は良しと定めて用い、是非は臣下が負う。エドワルドの言う王は、そういう王だった。だがグラクトは頷けなかった。頷けない理由を、この一年で読んだ王国史が指している。あの書には、王が体面や情で法と品位を使い分け、そのたびに国が弱い場所から崩れていった例が、いくつも記されていた。
使い分けた王たちはいずれも、良しと定めて用いるだけで、是非を自ら負わず下に投げ、うまくいかねば臣下の不徳とした。神輿として責めを他人へ預けてきたかつての自分も、その列に連なっていたはずで、そこから抜けると決めたのではなかったか。ならば、良しと定めて用いるだけでは足りないはずだった。
「いや、エドワルド。良しと定めて用いるだけなら、この制度はいつまでもお前たちのもので、私のものにはならない。真に自分のものとするには、判を押すのでは足りぬ。こういう趣旨で作れと、私自身の考えから指し示すことがいる。条文はお前たちが組めばいいが、その趣旨を示すのは、私にしかできぬはずだ。だが、その趣旨を導く考えが、私の中には無いのだ」
言葉にしてみて、グラクトはその無さの底の深さに行き当たった。趣旨は、何を基にこの国を統べるのかという一本の考えから出てくるはずで、それが定まって初めて、こういう趣旨で作れと言える。レティシアを迎えたい、そのために後宮の制度を変えたいという望みなら、はっきりある。
第一王子派を確立して権を自分へ集めるところまでは、進めてもいる。だが、それは自分がしたいことであって、この国を何を基に統べるのかという話ではない。後宮の制度を変えるその手つきの下に、国全体を貫く考えがあるかと覗いても、そこには何もなかった。望みはあり、望みを叶える力の組み方もあるのに、その下に敷かれているべき考えだけが欠けている。
それは、エドワルドへ告げると同時に、自分自身へ突きつける言葉でもあった。神輿をやめ、責めを負う主君として立つと決めたが、責めを負うと決めるだけでは、まだ入口にすぎなかったのだ。どういう秩序を作るのかを自分の考えから示し、その是非まで負う、その場に立つには、何を基に統べるのかという考えそのものが要る。決意の先に据えるべきその一つを、自分は空のままにしていた。
「その考えを何とするかは、私が申し上げられることではございません。臣下は、殿下のお示しになる考えを制度の形にして差し上げる者。何を基に国を統べるのか、そこだけは、殿下ご自身がお定めになるほかございません」
エドワルドは、そこには踏み込まなかった。この男は、王の意を汲んで形にすることにかけては、これ以上ないほどの働きをする。だが、汲むべき意そのものを代わりに持つことはせず、持ってしまえば主君を裏から操ることになると承知している。有能だからこそ、この側近は主君に自分で考えよと突き返してくる。その突き返しが、グラクトに、再現されるべき自分の意思がまだ無いことを、はっきりと示した。
あの皇子は、答えを引き出せぬまま去った。だが、引き出せなかったこと自体が、一つのことを突きつけている。神の子という位を使って人を従わせ、その力で何を基にこの国を統べるのか。あるいは、その位を掲げること自体、本当にそれでよいのか。使えるものはすべて使うのが王なのか、それとも別の道があるのか。
そうした問いを、自分は今日まで一度も、自らに立てたことがなかった。答えはまだ影も見えないが、この問いから目を逸らしたままでは、自分はいつまでも他人の据えた考えの上に乗るだけの主君で終わる。冷えた杯を前に、グラクトは、生まれて初めてその問いの前に立っていた。
◇
あてがわれた客殿の一室に戻ると、アレクシスは上着を椅子の背へ預けた。窓の外はまだ明るく、入学の初日にしては持ち帰るものの多い午後だった。
「あの会長に、私は学園裁判で何を基にどう統べるつもりかを問うた。だが、返ってこなかった。根拠を訊けば、神の血を継ぐ権威、とは答える。その権威で何を成すのかと踏み込んだ途端、口が止まった。自分の敷いた制度でありながら、それが何のためにあるのかを言えんのだ」
統べる者の考えは、位に就いて政策の形になって初めて外へ出るもので、位に就くまでは、本人に問うても意見が聞けるだけで正体は掴めない。だがあの男には学園裁判があり、まだ王ではないのに、学園では既に頂点で制度を敷いてみせている。そこにこそ芯が出ているはずだと見込んで問うたぶん、空を掴んだ手応えが、アレクシスの中に濃く残った。
「無能ではない。問いの鋭さは、正しく分かっていた。分かった上で、答えを持っていなかった。お前はどう見た」
「私も、無能とは見ません。むしろ、そこがかえって解せぬのです。あの学園裁判は、この王国では家の格が物を言う生徒どうしの諍いを、家格を退けて、身分によらぬ一本の則で裁くという形にしております。旧来の品位に真っ向から背く形を、誰かが明らかな考えのもとに選んで組んでいる。はっきりと一つの思想が芯として通っているのに、それを担う当人に、その芯が無い。組んだ者と担う者とが、別なのでしょう」
二人の見立ては、別の筋道から出て、同じ結論に達していた。あの会長は、誰かの通した芯の上に据えられた器にすぎず、その芯を通した設計者は、ほかにいる。
「その設計者を、まず割り出したい。会長は当時の役員の合議とはぐらかしたが、あの制度が始まったのは去年だ。去年から役員の席にあった者に、描いた本人がいる。絞れるか」
「名簿を検めるまで、確とは絞れません。すでに卒業した者の手が入っていた見込みも、消せはしません。ただ、今の役員のうち去年もその席にいたであろう者となれば、第二王子、東の公爵令嬢、南の嫡男、北の次期当主、貴族院議長家の子息。この五人のうちの誰か、と置くのが順当かと」
五人、と胸のうちで数え直したとき、昼間の一件が違った意味を帯びて甦った。生徒会への加入を、あの側近は体制が整わぬと言って退けた。見学の一人を入れるだけのことに、体制のすべてが要るはずもない。あのときの据わりの悪さが、この五人と重なって腑に落ちてくる。
「イザルト、昼の保留を思い出せ。整うまで待て、とあの側近は言ったが、あれは体制の話ではあるまい。いま生徒会の内にいる誰かを、私の目に触れさせたくなかった。その誰かが、この五人の中にいるとすればどうだ」
「私が目をとどめたのも、そこにございました。役務を組み替えている、その渦中の誰かを見せたくない。なぜ隠すかといえば、引き抜かれては困るからでしょう。裏を返せば、隠されているのは、引き抜けば抜ける余地のある者ということになります。家を継ぐ者なら、そもそも他国へは動かせず、隠す甲斐もない。隠すのは、家に縛られず、こちらへ流れうる者だからこそ」
その筋を通せば、五人はおのずと二人に絞れる。家を負う南の嫡男、北の次期当主、貴族院議長家の子息の三人には、家という錘があって動かせない。残るのは、第二王子と、東の公爵令嬢だった。
「第二王子は、隠されているのかどうかすら、まだ判じられません。ルナリア様を母に持つ王子ではありますが、何かを担っているという裏づけは、いまのところ何一つございません」
ルナリアの名を出すとき、この男の声がわずかに沈む。叔母にあたるその人を王国で喪ったことは、シュタインヴァルトの家にとって、いまも塞がらぬ傷なのだろう。それでも私情を結論に混ぜず、裏づけの立たぬところで踏みとどまる。その律し方があるからこそ、アレクシスはこの従者に探索を任せられる。第二王子は追っても手がかりに乏しいと見て、狙いを残る一人へ移した。
「ならば、いま調べにかかれるのは東の公爵令嬢のほうだ。あの女には、ただ隠されていそうだというだけでない、別の目印がある。この王国は、いまも家の格で回っていて、取引一つとってもまずどの家かが問われる。ところがあの令嬢は、海運組合の中では家格ではなく、取り決めた則のとおりに人と物を動かしていた。組合という一角に限ってではあるが、家格を脇へ置いて、一律の則で商いを回している」
その手つきに覚えがあって、アレクシスは言葉を継いだ。家格を退け、生徒の取引を一律の則で裁くという、あの学園裁判の芯と、令嬢の商いの回し方は同じところを向いている。
「しかも学園裁判は、次の代の取引を、これから一律の則の上へ移していく仕組みだ。組合の内で一律の則を回してきた者が、その考えを制度に落としたのだとすれば、納得がいく。もっとも、たとえ設計者でなかったとしても、あの令嬢は惜しい。海運組合をあれだけ回す才がありながら家を継ぐ身ではなく、家に縛られぬぶん、こちらへ引き込める。しかも、家格を脇へ置いて一律の則で商いを回すという、あの考えが見える者だからこそ、引き込む甲斐がある。イザルト、あの令嬢を、お前の婚約者にどうだ」
有能な者を婚姻で陣営へ引き込むのは、皇位を競う上での常道であり、唐突なようでいて筋を踏んだ一手だった。
「必要とあらば、口説き落としましょう」
あの令嬢の美しさにも才気にも、この男は一言も触れず、利になるなら口説くと言うにとどめた。志の高い女ほど、最後は理屈でなく口説く男に傾くもので、あれほどの女を引き合いに出せば、この堅物でも多少は男の顔を覗かせるかとアレクシスは踏んでいたが、あては外れた。女に転がされも転がしもせぬこの男に、その手管があるかを試したところで、返ってきたのは相変わらずの損得ばかりだった。
「ふん、つまらん男だ。あれを前に、損得の音しかさせんとはな」
言いながら、しかしアレクシスは、それでよかったと思い直している。女に転がされぬ男だからこそ、右腕に据えているのだ。あの令嬢が陣営の役に立つなら、イザルトは好悪を挟まず淡々と引き込むだろうし、色恋で仕損じる気遣いがないぶん、かえって確かだった。
「口説くのは追い追いでいい。まずは、あの令嬢の周りを探れ。誰と組み、誰と離れているか。あとはーーーリーゼロッテとの間柄もな」
その名を口にしたとき、アレクシスの声から軽さが消えた。饗応の采配から王都の案内まで、幾度も直に対してきた王女で、品位という衣の下に、何ものにも侵させぬ規則を隠し持っていた、あの女。心を奪ってみせると宣戦を布告した相手でもある。
海運組合の視察の日、令嬢とリーゼロッテのあいだには、初めて会う者どうしとは見えぬ通じ合いがあった。あの二人が裏で結ばれているのなら、今日は掴めなかった設計者の輪郭が、その繋がりをたどった先に浮かぶかもしれない。冷えかけた茶を含み、アレクシスは、暮れるにはまだ間のある窓の外の明るみへ、目を戻した。