リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
4 首輪の献身
夜も更け始めた頃、扉を叩く音にヴィオラは机から顔を上げた。訪問の約束はなく、女子貴族寮でこの時間に突然訪ねてくる相手にも心当たりはない。机の上に出していたものを人目に触れないよう片づけてから扉を開けると、廊下には見覚えのない新入生が立っていた。金に近い明るい茶髪を肩に触れるほどのロングボブに整え、夜分の訪問を詫びる姿勢を取りながらも、用件を告げずに引き返すつもりはないらしい。
「突然申し訳ございません。メリア・ニル・ローディスと申します。少しだけ、お時間をいただけないでしょうか」
ニルという二文字のミドルネームから、伯爵家か子爵家の子女であることまでは分かる。だが、メリアは家名以外に爵位を添えなかった。廊下で話を聞く方がかえって人目を集める。ヴィオラは相手の素性を測るにも室内の方が都合がよいと判断し、メリアを通して向かいの椅子を勧めた。
「それで、私に何の御用でしょう」
「私を、ヴィオラリア様の侍女としてお側に置いていただけませんでしょうか。身の回りのお世話でしたら一通りできますし、護衛が必要な場面でも足手まといにはなりません。学園では御自身でなさらなければならないことも多いでしょうから、きっとお役に立てると思います」
高位貴族の令嬢に仕えること自体は、伯爵家や子爵家の子女にとって不自然ではない。それでも、入学したばかりの令嬢が誰の紹介も受けず、公爵令嬢の日常へ入り込める侍女の席を自分から求めるなら、能力だけでは理由が足りなかった。
「私の侍女になりたい方が、なぜ御自分で夜に訪ねていらしたのですか。家から正式に話を通す方法もあったでしょう」
家を通さなかった理由を問うと、メリアは膝の上で重ねていた手に少し力を込めた。単に侍女としての能力を売るだけでは足りないことを、本人も承知しているらしい。
「家から正式にお願いすることはできません。ローディス子爵家は、第一側妃ヒルデガード様から多額の援助を受けています。その引き換えに、私は第一側妃様と侍女となるべく魔法契約を結びました。家を残すにはそれを受けるしかないと私自身が判断したものです」
子爵家。ニルの二文字から伯爵家か子爵家だとは分かっていたがこれで家格まで定まった。子爵令嬢なら、王宮や高位貴族家で侍女を務めるうえで家格に不足はない。家が第一側妃から援助を受けていると自分から明かした以上、メリアはヴィオラが次に疑うことも承知しているはずだった。その疑いを避けるどころか、さらに警戒される事実まで自ら差し出した。
「ですから、先に申し上げておきます。私は第一側妃様の侍女です。第一側妃様から命じられたことに逆らえる立場ではありません。それでも、もし許していただけるのでしたら、ヴィオラリア様のお側で働かせていただきたいのです」
潜り込むことだけを考えるなら、誰の命令を受けているかを伏せ、信用を得てから目的を果たした方が、監視する側には都合がよい。それを初手で明かした以上、メリアも隠し通せるとは考えていないのだろう。
メリアの申告どおり、ヒルデガードから援助を受ける子爵家の娘であるなら、理由もなくヴィオラへ近づけば、身元を調べられた時点で疑われる。それなら先に、家を盾に契約を受けた被害者として事情を明かし、拒絶しにくい理由へ変えた方が受け入れられる可能性は上がる。手駒であることを告白する行為そのものが、入り込むための材料として使われていた。
ヴィオラは、離宮に助けられるまで本宮に取り込まれ、婚約と王妃教育を正しい将来として押しつけられ、自分の意思より役割を優先するよう求められていた。メリアが家の存続と引き換えに自分を差し出した事情を理解できないわけではない。
だが、似た境遇にいたことは、目の前の相手を信用する根拠にはならない。被害者であることと、現在こちらへ害を及ぼし得る立場にあることは、分けて考えなければならなかった。
「あなたが側妃様の侍女であることを、私に話しても契約には触れないのですね」
メリアは迷わず頷いた。侍女であると明かすこと自体は、少なくとも契約によって禁じられてはいない。ならば次に確かめるべきは、その開示の先でどこから制約がかかるのかだった。
「では、ここで見聞きしたことを、側妃殿下へ伝えないと約束できますか」
今度は返答までにわずかな間があり、メリアはヴィオラから目を逸らさないまま首を横へ振った。
「そのお約束は、できません」
約束できないという答えだけでは、それが本人の意思による拒否なのか、契約によって選択できないのかまでは分からない。ヴィオラはそこだけを切り分けるため、もう一段問いを深めた。
「では、なぜ約束できないのかは話せますか」
「それは、申し上げられません」
第一側妃の侍女であること、報告しないと約束できないことも言える。しかし、その理由へ踏み込むと言葉が止まる。前者の開示はヴィオラの侍女として受け入れられる可能性を高めるため、ヒルデガードの目的を損なわない。対して、その先を説明すれば、送り込んだ目的そのものに触れるため契約が許さない。そう考えれば、メリアが話せる範囲には一貫した境界があった。
「口で申し上げられないことを、ここへ書くことはできますか」
メリアは紙へ視線を落としたものの、筆記具には手を伸ばさなかった。口頭だけを禁じられているなら試す余地があるはずだが、書こうとする素振りそのものがない。
「いいえ。書いても同じです」
これで、少なくとも言葉の形式を変えるだけでは回避できない契約だと分かる。伝えようとする意思そのものに制約がかかっていると考える方が、ここまでの反応には合っていた。もっとも、今夜必要なのは術式の全容を暴くことではなく、この令嬢を生活圏へ入れてよいかを判断することである。
ただ、メリアが「自分で判断して契約した」と説明したことは残った。自分で同意したという事実と、家を失わないために同意するしかなかったという事情は、同じ意味ではない。その差が魔法契約の効力に何をもたらすかは今ここで結論を出せないが、意思そのものを縛る契約であるなら、同意したときの意思を無関係として扱ってよいとも思えなかった。
そして、より差し迫っているのは、メリアを侍女として受け入れた場合の損失だった。侍女を置けば、相手は日常的に主人の生活圏へ出入りする。情報が漏れるより前に、監視され得るという事実だけで開発を止めざるを得なくなり、離宮側には実際の損失が生じる。
レティシアへの教育も同じだった。本人が生きていくための知識を渡し、選択を迫り、実務へ組み込んできた。その関係を監視者の目がある場所で続ければ、教えている内容以前に、なぜヴィオラがレティシアとそこまで頻繁に関わるのかを疑われる。秘匿したいのは教育内容だけではなく、二人が通常以上に深く関わっている事実そのものだった。
しかし、拒否すれば安全になるとも限らない。ヒルデガードがヴィオラを探る必要があると判断しているなら、メリア一人を拒んだことで目的まで捨てるとは考えにくい。別の人間を送り込む可能性もあれば、接触に失敗したメリアへ別の命令が下る可能性もある。
反対に、メリアをこちらの管理下へ置けば、見せる情報を選びながら、何を探ろうとしているのかを観察できる利点もある。どちらか一方を安全な選択として切り取れる状況ではなかった。
「今夜ここで、お返事はできません。あなたを追い返すとも、侍女として迎えるとも申し上げません。お話は理解しました。そのうえで、私にも考える時間が必要です。返事はこちらからいたしますので、今夜はお戻りください」
メリアは一瞬黙っただけで、結論を迫ろうとはしなかった。押しかけてきた立場でなお受け入れを求め続ければ、助けを求めて事情を明かしたという自分の説明まで損なう。ここで引くべきところを理解していると見る方が、ここまでの振る舞いには合っていた。
「承知いたしました。突然押しかけたにもかかわらず、お話を聞いてくださったことに感謝いたします」
メリアが一礼して部屋を辞したあとも、ヴィオラは足音が廊下の先へ消えるまで扉から動かなかった。危険を承知したまま手元へ置く利益があるかまで考えるために、結論を留保したのである。
しかも判断の影響は自分一人に収まらない。技術開発が止まれば離宮全体の優位に関わり、レティシアとの接触を止めれば彼女に与えてきた実質的な教育まで途切れる。ヒルデガードの手駒を手元へ置いて利用するなら、どこまで見せ、何を止め、どの情報を意図的に渡すかまで決めなければならなかった。
それをヴィオラだけで決めることはできない。必要なのはリュートとの相談だが、第二王子と、制度上は第一王子の婚約者である公爵令嬢が人目を避けて会えば、それだけで不要な醜聞になり得る。
さらに、二人が秘密裏に意思を通じていると知られれば、本宮から見たヴィオラの位置も変わる。第一王子側の人間として探られている者が、実際には第二王子と密かに連携していると露見すれば、離宮が一個の勢力だと疑わせることに繋がりうる。
ヴィオラは小型の魔導電報器を取り出した。離宮で用いる短文用の通信手段であり、事情の詳細まで送れば、通信を知られた際の損失が大きくなる。必要なのは、直接話す必要が生じたことと、そのための場所だけだった。
「要相談。明日、短時間。場所指定願う」
短い符号を送り終え、電報器を片づけようとしたところで、ヴィオラは別の問題にも気づいた。メリアを侍女として置くなら、秘匿技術だけでなく、この通信手段そのものも部屋に残し続けられるとは限らない。
内容を知られなくても、離宮が本宮の把握していない技術と連絡経路を持つと分かるだけで損失になる。侍女一人を受け入れるかという問題は、すでに自分の生活上の都合だけではなく、離宮の通信方法まで変え得るものになっていた。
明日リュートへ伝えるべき問題には、メリアの扱いだけでなく、この通信手段を今後どうするかも含まれる。ヴィオラはそこまで決めてから、電報器を再び人目に触れない場所へ収めた。
◇
ヴィオラリアの部屋を辞したメリアは、自室へ向かう廊下を歩きながら、先ほどまで相手へ向けていた健気な表情を少しずつ薄めた。他の寮生とすれ違えば礼を返せる程度の柔らかさは残すが、ヴィオラリアの同情を引くために作っていた顔を一人になってまで維持する必要はない。
即座に拒絶されなかったが、受け入れられる見込みが立ったわけではない。ヴィオラは境遇を聞いただけでは終わらず、メリアがどこまで話せるのかを確かめ、筆記による回避まで試した。契約そのものを理解したうえで扱おうとしている。
最も厄介なのは、信用していないことを理由に即座に切り捨てなかった点だった。危険だと分かれば追い返す相手なら、その判断に合わせて別の方法を考えればよい。だが、危険を認識したまま受け入れた場合と拒んだ場合の双方を考え、結論を保留した。
自分が利用される可能性まで含めて検討しているなら、被害者の顔だけで懐へ入ることはできない。次に必要なのは同情を深めることではなく、警戒されたままでも側へ置く利益があると示すことだった。
メリア自身、爵位に頼るつもりはない。ローディス家には子爵位があっても、それだけで貧窮を止めることも、自分が家のために差し出されることを防ぐこともできなかった。
だから最初にヴィオラリアへ示したのも家格ではなく、自分が何をできるかだった。身の回りの世話を正確にこなし、必要なら護衛も務める。警戒されていても、置く方が便利だと判断させられれば、それだけで次の機会を得られる。ヴィオラリアが求めているのが無条件の忠誠ではなく、危険を承知したうえでも側に置く価値だというなら、その基準に合わせて自分の働きを示せばよい。
しかも、ヴィオラリアがグラクト殿下の婚約者であり、将来そのまま王妃となるなら、話は変わる。魔法契約を結んだのはヒルデガードであり、それを動かせるのもヒルデガード自身だが、品位を重んじるこの国で、正妃からの頼みを側妃が無下にはできない。替えの効かない侍女だと思わせられれば、王妃となったヴィオラリアがヒルデガードへ自分を手放すよう頼んでもらえる余地があり、さらに王妃の筆頭侍女へ進む足がかりにもなる。
ヒルデガードの命令に従ってヴィオラリアへ近づくことと、自分自身の将来のためにその側へ入ることは、今のところ同じ行動で両立している。その関係が崩れない限り、命令に従うことはメリア自身の利益とも矛盾しなかった。
問題は、次にヴィオラリアが何を求めてくるかだった。契約についてさらに探るのか、侍女としての能力を試すのか、それとも警戒したまま距離を置くのかによって、こちらも見せるものを変えなければならない。
少なくとも、次に会うときまで被害者の顔だけを磨く必要はない。ヴィオラが見ているのは、自分が可哀想かどうかではなく、危険を承知で置く価値があるかどうかである。
ならば、世話を任せれば正確で、護衛を任せれば役に立ち、余計なところへ勝手に踏み込まない。その評価を取る方が、受け入れられる可能性は高い。健気で世話焼きの顔は捨てる必要がないが、それだけに頼る理由もなくなった。
魔法契約がある以上、必要な報告を避けることはできないが、何をどのように求められるかは今後の命令によって変わる。今の段階で先の行動まで自分から決める必要はない。むしろメリアにとって重要なのは、命令を受けるたびに、その範囲で自分にも利益が残る選択を探すことである。契約に縛られているからといって、自分の判断まで捨てる必要はなかった。
自室の前まで戻ったメリアは、廊下に人の気配がないことを確かめて扉へ手を掛けた。ヴィオラリアは簡単に騙せる相手ではない。それでも、危険だと理解したうえで使う価値まで考える人間なら、こちらにも入り込む余地はある。
次に必要なのは、助けを求めることではなく、必要とされることだった。メリアはその違いを確かめたうえで自室へ入り、背後の扉を閉めた。