リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
第2話後編『今期生徒会』【6】 己を量る尺
ヴィオラから短い言伝で呼び出されたのは、その日の課業がすべて終わった後だった。女子貴族寮のヴィオラの部屋を訪ねると、ヴィオラが自ら扉を開け、廊下の左右へ目をやり、中へ促してすぐに扉を閉める。この部屋には何度も通っているが、いつもとは何もかもが違った。
ヴィオラは机へ戻ると、今日は何も用意しないまま、自分の椅子に腰を下ろし、私に向かいの席を勧めたが話が始まらない。指を組み、一度ほどいて、また組み直す。
この方が話す前に迷うところを、レティシアはこれまで見た覚えがない。いつもとの違いを感じながら、呼び出しの意図を尋ねようとしたところで、ようやくヴィオラが口を開いた。
「先の劇場の一件は、あなたも噂くらいは知っているでしょう」
劇場、と繰り返してみて、レティシアは咄嗟に思い当たらなかった。呼び出された用件が劇場の話とは結びつかない。王都の劇場で何かあっただろうか。そこまで辿って、春の休みに協会でレオンハルト様が話していた劇のことかと行き着いた。
「……あの、白百合の劇のことでしょうか。レオンハルト様が協会へいらしたときに伺いました。セシリア様が第一側妃宮に置かれていることと、殿下との悲恋が、本人の意思とは関係なく劇にされていることまでならばですが」
「あの噂の裏で、第一側妃は一年をかけて、セシリア様を側妃にする形を整えていたの。最後の仕上げがあの最終公演だったのだけれど、そこでセシリア様が婚約者のもとへ戻ると宣言して、殿下が二人を祝福したわ。結果として、セシリア様が側妃になることはなかった」
声の調子は、それまでと変わらなかった。噂の結末は分かった。とはいえ、侯爵令嬢が誰の側妃になるかも、それを企てた側妃様の思惑も、子爵家の娘に関わりのある話ではない。
「あの場では第一側妃の筋書きを確実に崩す必要があったから、私も一つ手を加えたの。そのとき、以前あなたが協会で口にした考えを借りたわ」
覚えがないレティシアは首を傾げる。この方には教えていただいてばかりで、自分の側から何かを渡した記憶はない。しかも、劇についてなにか言った記憶などまったくないのだから。
「前に言ったでしょう。悲恋の劇を正論で潰そうとしても、大衆には勝てない。それなら、もっと強い恋の筋書きで劇そのものを乗っ取ればいい、と。最終公演では、一連の騒ぎそのものを演出として観客に受け取らせて、元の悲恋とは別の結末へ持っていった。その入り口が、あなたの言葉だったの」
冷めた紅茶を前に、鬱屈まぎれに口にした話だ。自分には、見慣れた物語の型を当てはめただけのことにすぎないのだ。
「でも、あれは私が考えたものではありません。似たような筋書きを色々見てきたので知っていたから言えただけです」
「あなたが一件を解決したと言っているわけではないのよ。私は、事実をどう示すか、相手の筋書きのどこを崩すかという見方しかしていなかった。観客が事実ではなく物語に引かれているなら、その関心ごと別の物語で奪えばいい。借りたのはそこよ。そして、使ったのが私なら、その結果も私の側で引き受けるべきでしょう」
「結果というのは、何か起きたんですか」
「今度は私が警戒される側になったの。第一側妃の手の者が一人、侍女として私のそばへ入ることになったの、突き返したところで、次にどんな手を回されるか分からないでしょう。一年かけてあれだけのことをする方だもの。……侍女を置けば、これまでのように腰を据えてあなたに教える時間は取れないわ」
最後の一言だけ、ヴィオラは間を置いてから口にした。話し出す前に指を組み直していたのは、これを言うためだったのだと分かった。見張られると聞かされて、レティシアは膝の上で手を握る。
「……それなら、私も今まで通りここへ通わない方がいいですね。ヴィオラ様が警戒されているところへ、家の力もない子爵令嬢が何度も出入りしていたら、理由を探られるでしょうし。調べられて困ることが、私にないとは言えません」
言いながら、迷うたびにこの部屋を訪ねてきたことを思う。危ないと分かっては今まで通りを続けられない、そう自分に言い聞かせたつもりだったが、膝の上で重ねた指はほどけないままだった。
「通うのをやめろとは言っていないわ。長く時間を取るのが難しくなるだけよ。侍女は契約の形を取ろうと思っているの。契約内容によって、侍女としての役務を限定できれば、短い間なら顔を合わせられる。学びの進み具合でも、そのほかのことでも、話す相手が要るでしょう」
話す相手が要るでしょう、と言われた途端、指の力が抜けた。声に出したわけでもないのに、口元が緩んでいるのが自分でも分かって、レティシアは慌てて表情を戻した。ヴィオラがこちらを見て、わずかに目を細める。だが何も言わず、視線を手元へ落とした。
「ただ、その時間が作れるまでは控えましょう。いつになるかは、まだ決められないの」
「でも、それならヴィオラ様が謝ることでもない気がします。危ないなら、控えた方がいいのは私も同じですから」
「結論は同じでも、そこへ至った理由は同じではないでしょう。あなたの考えを使うと決めたのは私。その結果として、今まで私が引き受けていた教育を途中で止めることになる。あなたに落ち度がない以上、その不利益まで仕方がないで済ませるつもりはないわ」
先ほどとは違い、ヴィオラは言い淀まなかった。ヴィオラは机の脇に置いていた一枚の紙を取り、向きをレティシアへ合わせて置いた。
「アイリス様が開く実務の講義へ入れてもらえるよう頼んであるの。あなた一人のためのものではなく、何人かをまとめて教える場よ。商いの帳簿の付け方から始めて、複式簿記まで扱う。身につけば、組合でも商会でも会計の仕事に使えるわ」
「帳簿まで覚えなくても、協会の仕事なら少しずつ覚えています。人口調査も言われた通りにできるようになりました。このまま続けていけば、卒業したあともここに置いていただけると思っていました」
「協会が、卒業のあともそのままあるとは限らないわ。オセロは私が興して、王家に献じたもの。そもそも私がオセロの作成者であることと、第一王子の婚約者だからこそ総裁という地位にいるの。総裁自体の変更もありうるし、協会自体の解散もありえない話ではないわ」
考えたこともなかった。協会は、そこにあるものだった。無くなるかもしれないと言われて、レティシアは返す言葉が出てこない。この方は第一王子の婚約者で、このままならいずれ王妃になる。王妃となったら、これまで通り遊戯の協会を預かり続けるとは思えない。
そこまで辿って、もう一つに行き当たった。協会が残り、この方の下で働き続けられたとしても、それは殿下の妃の下で働くということだ。
「……協会が無くなれば、私は行くところがありません。残ったとしても、ヴィオラ様のお側にいる限り、殿下と関わらずにいられるわけではないんですね。ほかへ行くといっても……貴族の家へ侍女に入るくらいしか、すぐには思いつきません。組合や商会なら家柄はもう少し関係ないのかもしれませんけれど、商いの知識があるわけでもありませんし」
口にしていくほど、協会の外へ出るというだけで、途端に足場がなくなるのが分かった。
「考えてごらんなさい。私が離れても協会が続くなら、そこの職員として働く道がある。総裁が誰に替わろうと、帳簿を扱える者は要るもの。組合や商会へ移る道もあるわ。そちらなら、王家とは切れて暮らせる。それから、侍女でも、妃の補佐に入るのでもいい。王家に近い場所で働く道も、選ぼうと思えば選べるのよ」
考えることを求められ、レティシアは言葉を探した。自分では一つしか見えていなかった。それも、行けるかどうか分からない道だった。
「……補佐、というのは」
「妃には、書類も人の差配も付いて回るわ。そこを支える者は要るでしょう。もっとも、そちらを目指すなら帳簿だけでは足りない。家の仕組みも、王宮の規則も要る。だから講義は帳簿で終わりにしないの。何を選ぶかによって、要るものが変わるもの。何を学びたいかはあなたが決めなさい。アイリス様には話を通してあるから」
これまでは、来年の居場所のことしか考えてこなかった。生きていかなければならない。そう思って手を伸ばしてきた。道が三つ並べられても、そのどれを選びたいのかがわからない。
「……私は、そこまで考えたことがありませんでした。この世界の現実を教えられて、どうすれば生きていけるかをずっと考えてきました。でも、その先で何をしたいのかと言われると、何も出てきません」
「今すぐ出てこなくてもいいわ。ただ、その問いから逃げていると、選んだつもりで流されることになる」
紙の端に置いた指へ、知らず力が入った。今までは、自分だけで生きる道を見つけなければならない、そう思って手を伸ばしてきた。三つ並べられた中で、一つだけ、他とは違う道があった。妃の補佐に入る道だ。
王家の血統の考え方も、側妃も、奉仕役も、嫌だと思ってきた。その中にいる殿下のことも同じだった。それなら真っ先に消してよかったはずの道が、消せない。そして、その道を取るなら、殿下の妃の下で働くことになる。あの方が何を考える人で、こちらへどう出るのかが分からないままでは、耐えられるかどうかも量れない。
「……昨年の春に代官村で入力した子のことを、思い出したんです。私には備考に一文書くことしかできませんでした。あの欄を読む側に立てるなら、と」
言ってしまってから、自分が何を選びかけているのかに気づいた。
「でも、その道を取れば、殿下の妃にお仕えすることになります。私はあの方を、血筋のおかげで何もかも与えられて、女の人まで当たり前に宛がわれて、それを疑いもしない方だと思っていました。奉仕役のことも、側妃のことも、そういう仕組みの中で平気でいられる人なのだと。……そう決めておいて、その方に近い場所で働きたいと言うのは、都合が良すぎます」
「一つ、覚えておきなさい。厭わしいと思うものが出てきたら、まず分けるの。仕組みそのもの。その仕組みの中にいる人。そして、あなたがそれをどう見るかという、あなた自身の物差し。この三つは別々よ。混ぜたまま厭っていると、何を変えれば済む話なのかも分からなくなる」
言われた通りに並べてみて、レティシアは最後の一つで詰まった。仕組みと、その中にいる人は分けられる。だが、自分の物差しまで疑うという考え方が、これまで一度もなかった。
「……分けてみると、セシリア様のことが引っ掛かるんです。あの方なら側妃を迎えることに迷いなんてないと思っていました。それなのに、セシリア様は側妃にならなかった。私が勝手に決めていた人柄と、合わないんです」
「なら、その合わなさまで含めて、自分で考えればいいわ。私は殿下の答えをあなたに教える立場ではないし、あなたが殿下をどう見るべきかを決めるつもりもない。今のあなたに要るのは、答えを急ぐことより、答えを選べるだけの手立てを持つことでしょう」
目の前の紙には、誰かの名前も、婚約の話も書かれていない。帳簿と講義の予定だけが並んでいる。
「講義は受けます。協会に残るか、ほかへ行くかは、まだ決められません。……殿下のことも、知ろうと思います。妃にお仕えする道を考えるなら、あの方を避けて通ることはできませんから。知ったうえで、やはり無理だと思うなら、その時は自分の言葉で断ります」
「それでいいわ。今ここで綺麗な答えを出される方が、私は困るもの。考えるための材料も、選ぶための手立ても、まだ足りていないでしょう」
紙を手に取って立ち上がると、ヴィオラも席を離れ、扉まで送りに来た。いつもは机に着いたまま送り出される。一礼して部屋を出たレティシアは、講義の予定を手にしたまま寮の廊下を歩いていく。
殿下を厭う気持ちが消えたわけではない。関わりたいと思ったわけでも、見方を改めると決めたわけでもなかった。
これまであの方について思ってきたことは、遠くから眺めて決めつけたものだった。知らないまま嫌っていたのでは、断ることすら中途半端になる。断るのなら、あの方が何を考える人なのかを知ったうえで、そう決めたい。
量らなければならないものの中に、セシリアが側妃にはならなかったという一つの事実が、まだ置き場所の決まらないまま残っていた。