リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
4 片側の事実
会議を終えたあと、お兄様はティナのそばへ寄って小声で何かを伝え、そのやり取りを客員席のアレクシス殿下が見ていた。ティナが私のもとへ運んできたのは、生徒会の事務の件で夜に図書室の奥へ来てほしいという伝言である。兄が妹を呼び出す形ではなく、役員のあいだで事務の連絡を回す形にしておけば、殿下の目に留まったやり取りも、ありふれた用件に見える。その意図が分かっていたから、私はティナを伴い、伝言のとおりの刻限に、灯りの落ちた図書室へ入った。
図書室の奥にある小部屋の扉の前でティナは足を止め、私だけを中へ通すと、自分は扉を閉めて外に残った。夜の図書室へ人が来ることはまずないが、万一誰かが近づいても先に気づけるよう、ティナは扉の外で見張りに立つ。
小卓に一つだけ置かれた灯りには、扉の隙間から光が漏れないよう覆いがかけられ、その光は卓の上と、傍らに座るお兄様の手もとだけを照らしていた。壁際に積まれた、入れ替えで外された本の一冊を膝で開いていたお兄様は、私が入ると本を閉じて山の上へ戻し、向かいの椅子を手で示した。
「お兄様、お呼びと伺って参りました。事務のご用件とだけ聞いておりますけれど、調停のことで何かございましたか……」
答えを待つあいだ、灯りの下のお兄様の手は、本を戻したまま膝の上にゆったりと置かれていて、何かを咎めるために人を呼んだ者の手には見えなかった。
「来てくれてありがとう。初めての調停の前に、相手との話し合いの進め方を少し話しておきたかったんだ。今回の件を難しいとは見ていないから、身構えなくていいよ」
身構えなくていいと言われて、私は自分の肩に力が入っていたことに気づいた。事務の用件を装ってまで呼び出されたのだから、調停の支度のどこかに見落としがあったのだろうと考えながら、ここまで歩いてきたのである。肩の力を抜いて、私は向かいの椅子に腰を下ろした。
「話し合いの進め方を一つ話すね。まず、相手が断ると分かっている大きな求めを出す。断られたら、そこから退いて、本当に通したい求めを出す。人は相手に譲ってもらうと、自分も何か譲らなければ釣り合わないと感じるから、初めから本命だけを出すより受け入れてもらいやすくなるんだ。今回の件に当てはめたら、どうなると思う?」
当てはめる相手はドルリス様で、私の頭に浮かんだのは、遠くから大きな声でジェーン様の名を呼び、図書室の出口で待っていたという方の姿だった。そういう押しの強い相手には、はっきり拒んでみせてから退くほうが、こちらの求めを通しやすいと思えた。
「まず、世話の中身を、何の義務も負わないものと定めるよう求めます。それをお断りされたところで退いて、時間と場所と内容を限った世話をお出しします。初めから限った世話だけを出すより、そのほうが通りやすくなるということですね」
当てはめの筋に誤りはなかったらしく、お兄様は一度頷いたが、それで話を終えるつもりはないようだった。
「当てはめとしてはそうなる。それとは逆の順もあるよ。相手がまず断らないような小さな求めに頷いてもらって、その承知を前提に、次の求めへ進むんだ。人は一度承知したことと食い違う振る舞いを避けたがるから、小さな承知を重ねた先の求めは、断りにくくなる。どちらが効くかは、相手によって変わるけどね」
二つの手順は、求めを大きいほうから出すか小さいほうから出すかが逆になっているだけで、どちらも、譲られたときや承知したときに相手がどう振る舞うかを当てにしている。当てにする振る舞いが相手ごとに違う以上、どちらが効くかは相手次第だというお兄様の言葉に、私はそのまま頷いた。
「じゃあ、ドルリス殿にはどちらが効くと思う?」
問われて、私はもう一度、相談の席で聞いたドルリス様の姿を思い浮かべた。
「大きく求めるほうだと思います。はっきりお断りしてから退かなければ、そのまま押し切られてしまいそうな方ですから」
正しい答えを出したときに幼い頃から返ってきた頷きは、このときは返ってこず、お兄様は代わりに、押し切られそうだと見たわけを私に尋ねてきた。
「遠くから大きなお声でジェーン様の名を呼ばれて、図書室の出口でも待っておられました。言葉はいくらでも取り繕えますけれど、振る舞いには本心が出ます。相手のご都合より、ご自分の望みを先に立てる方の振る舞いだと思います」
本宮で暮らしてきた私にとって、人の本心は言葉ではなく振る舞いで量るもので、その量り方で見誤った覚えはなく、この答えにも疑いを持っていなかった。そういう私に向けられたお兄様の次の問いは、責める調子ではなく、答えを急かさない穏やかな声だった。
「その振る舞いは、誰の目から見たドルリス殿?」
答えようとして、私は、大きな声も出口で待つ姿も、自分の目では一度も見ていないことに行き当たった。どちらもジェーン様が相談の席で語ったことで、私はそれを、自分で見たことのように並べていたのである。
「……ジェーン様の目です」
お兄様は頷いただけで、私の答えに言葉を足さなかったので、ジェーン様の目で見ていたという答えは、お兄様に教えられたものではなく、私が自分で行き着いたものとして残った。
「相談記録を読ませてもらったよ。交流の機会を持ちたいと実家に相談したのは、ドルリス殿自身だとあった。君が相談の席で、書面から確かめたことだよね。自分から交流を求めた相手に、最初に世話の中身を何の義務も負わないものと定めるよう求めたら、相手はそれをどう受け取ると思う?」
私が言葉に詰まったのは、交流を求めたのがドルリス様自身だという事実を、相談の日から知っていたからである。私はその事実を、ジェーン様に話を通さずにご実家へ相談した、礼を欠く振る舞いとして受け取っただけで、ドルリス様が何を望んでいるかを知る手がかりとしては読んでいなかった。
「……交流そのものを拒まれた、と受け取られるかもしれません」
口にしてみると、私が組んだ順は、ドルリス様が自分から望んだものにいちばん強くぶつかる形になっていた。
「そう受け取った相手は、こちらが退いて本命を出すより先に、もう拒まれたと思ってしまう。そうなると、退いてから出した本命まで拒んで、かたくなになりかねない。自分から交流を求めているような今回の場合には、小さな承知を重ねていくほうが合うんだよ」
大きく求める手順を先に説けば、ジェーン様の話だけでドルリス様を見ている私がそちらを選ぶと、お兄様は見越していたのだろう。手順を選ばせてから理由を問うという順番は、ジェーン様の目で見ていたことを私自身の口で言わせるためのものだったのだと、ここで分かった。
「ドルリス殿のことは、調べた?僕は調べよ。中身は話さないけれど、相手方にも事情がある。それだけは伝えておくね。答えを渡したら、君は自分の目で確かめる前に、僕の目でドルリス殿を見ることになるから」
その問いに答えを探る響きがないのも道理で、お兄様が調べたのなら士爵ネットの手を借りたはずであり、私が同じ依頼を出していないことは、問う前から分かっていたはずだった。
「……いいえ。調べていません」
これまでジェーン様の目でドルリス様を見てきた私が、いまお兄様の話を聞いても自分で確かめたことにはならないと気づいて、中身を尋ねかけた言葉を、私はそのまま呑み込んだ。膝の上で指を組んだお兄様は、小卓の灯りへ目を落とし、少しのあいだ言葉を選んでいた。
「リーゼ。今夜の話で、君の見方には二つの癖があると分かった。一つは、本宮の外の人の言葉を、そのまま事実として受け取ること。もう一つは、話でしか知らない相手の本心を振る舞いから推し量って、それに頼ること。本宮では君を動かすために誰も本当のことを言わないし、本宮の外で王女として関わってきた人は本当のことしかいわない。君の見方は、そこからきているんだと思う」
癖と呼ばれて膝の上で手を重ねたのは、本宮では言葉を信じず、本宮の外では言葉をそのまま信じるという二つを、私は使い分けているつもりもなく、人を見るときの当たり前のやり方として持っていたからで、それに癖という名が付くとは考えたこともなかった。
灯りから私へ目を戻したお兄様の声は、それまでより低かった。
「そして、その二つを使い分ける君の見方には、僕が教えたことも関わっている。幼い君に、言葉の裏の前提を読んで、相手が何を望み、何を恐れているかを知る方法を教えた。相手の望むとおりに振る舞って、身を守るためにね。あのやり方には、相手がどういう事情に置かれているかを知ろうとする目が入っていなかった。代理人に要るのは、その事情を知る目のほうだよ。足りないものを渡さないまま、君をこの席に立たせたのは僕だ」
言葉の裏の前提、と聞いて、六つの頃、離宮の陽だまりで帳面を広げてもらった日々が浮かんだ。教師が私の髪を弱点だと言うのはなぜかを考え、その言葉の裏に、金の髪こそ正しいという王宮の常識があると言い当てたとき、お兄様は筋が良いと褒めてくれた。私はその方法を持って本宮へ戻り、第一側妃の前では何も考えていない娘を演じて、余計な手出しを避けてきた。
「お兄様に教わったことを、責められるものだとは思えません。あの方法がなければ、私は本宮で心を折られていました。第一側妃様の前で何も考えていない娘を演じられたのも、教わった方法があったからです」
心を折られていました、と口にしたところで声が揺れ、私は膝の上で制服の裾を握って、最後まで言い終えた。お兄様は私を見たまま何か言いかけ、そのまま唇を閉じた。教えたことの責めを自分で負おうとしていたお兄様には、それを手放す言葉がすぐには見つからないのだろうと思えた。
「教わった方法を、話でしか知らないドルリス様にまで当てたのは、私です。足りないところがあるなら、今から覚えればいいだけです。ですから、その足りないほうを教えてください」
長く息を吐いたお兄様は、組んでいた指をほどいた。言葉を選び始めたときから、ずっと組まれたままだった指である。
「……ありがとう。じゃあ、足りないほうの話をしよう」
帳面を覗き込んで次の問いを待っていた頃と同じように、私は背を伸ばした。本宮で私を生かした方法を授けてくれた人が、いま私に足りないものを渡そうとしているのだから、私は一言も聞き流すまいと決めた。
「まず、言葉をそのまま受け取るほうから。人は嘘をつくつもりがなくても、起きたことを自分に都合のいい形で覚えて、そのとおりに話す。それに、話す相手によって、どの事情を話すかを選ぶ。親に見せたい自分と、友人に見せたい自分は同じじゃないからね。ジェーン嬢の『怖い』は、ジェーン嬢がどう感じたかという事実だ。ドルリス殿がどういう人かという事実とは、別のものだよ」
相談の日、私は「怖い」という語を綴りには載せなかった。それでも、その言葉をジェーン様がどう感じたかという事実に留めず、ドルリス様が怖い方であることを示す言葉として受け取っていたことを自覚した。
「次に、振る舞いから本心を推し量るほう。本宮では言葉より振る舞いのほうが本心に近いから、君のやり方は間違っていなかった。でも、振る舞った人がどういう事情に置かれているかを知らないと、その振る舞いを人柄のせいにしてしまう。遠くから大きな声で呼ぶことも、出口で待つことも、事情が違えば意味が変わるんだ」
言われて、私はあの二つの振る舞いに、ジェーン様から聞いたのとは別の事情を当てはめてみようとした。
「……事情が違えば、と言われても、私には別の意味が思い浮かびません」
思い浮かばないのは私の考えが足りないからだとしか、そのときの私には思えなかった。
「それが、もう一つの働きなんだ。最初に聞いた話は、あとから入ってくる話を量る物差しになる。後から事実が入ってきても、その物差しに合わせて読んでしまう。君は交流の申し出を知っていたのに、それをジェーン嬢の側の話に合わせて読んだ。別の意味が浮かばないのは、君の物差しがまだジェーン嬢の話でできているからだよ」
あの日、ドルリス様がご実家へ相談したことを礼を欠く振る舞いと受け取ったのも、困っている側が持ち込んだ書面として読み始めていたからで、そこへ、ドルリス様の人柄を一言で括ったジェーン様の言葉が重なった。私の物差しは初めからジェーン様の側で作られていて、同じ事実を、ジェーン様との交流を自分から望んだ方の振る舞いとして読むことを、私は一度も試していなかった。
そこまで考えて私が思い当たったのは、ジェーン様が、物語を書いていることをお父上には伏せ、私には話してくれたことだった。話す相手によって話す事情を選ぶというお兄様の言葉は、ジェーン様自身の振る舞いにそのまま当てはまり、お父上に伏せたことを私には話した方が、私に伏せていることを一つも持っていないとは言い切れなかった。
私が何かに思い当たったことに、お兄様は気づいた様子だったが、それが何かを尋ねようとはせず、私が顔を上げるのを待っていた。ジェーン様が私に話したことを私がここで明かさないことも、お兄様は分かっているようだった。
「実務をする者にとっていちばん怖いのは、確かめたはずの事実が違っていることなんだ。当事者は、自分に不利になることを言いたがらない。だから代理人がそれを知るのは、たいてい相手方の主張からになる。調停は同じ卓で言い分を出し合う場だから、想定していない事実がその場で出てきたら、それを前提に組んだ主張はそこで崩れてしまう」
調停の席で私の向かいに座るのは、一日のうちに受任を済ませ、私の分の書類まで揃えていたエドワルド様である。
「エドワルド様は、ドルリス様ご本人からお話を聞いたうえで、席に着かれるのですね」
お兄様がすぐに頷いたのは、それが確かめるまでもない前提だったからだろう。
「向こうは、君がまだ聞いていない事実を持って席に着くかもしれない。それに、君はジェーン嬢の話を聞いたその日のうちに事実をまとめて署名をもらい、翌日には申出が受理された。一日で運んだのはジェーン嬢の負担を思ってのことだろうし、そこは分かる。でも、ドルリス殿の人となりを確かめるために、せめて日を分けたほうがよかった」
『あの方は、そういう方でございますので』とジェーン様が言ったとき、私は、そういう方とはどういう方なのかを尋ねないまま話を進めた。あそこで尋ねていれば、ジェーン様が何を見てそう言ったのかを確かめられたし、確かめた先で、ドルリス様の側を知ろうとする理由にも行き着けたはずだった。
「……おっしゃるとおりです。急いだのは、私です」
視線を小卓へ落としたお兄様は、指先で卓の縁をなぞった。私の落ち度を指摘していたあいだには、一度も見せなかった仕草である。
「僕も、人のことは言えないんだ。エドワルドのことを、貴族院議長家の子息だから、家と家の釣り合いを取る調整役だろうと読んでいた。ところがあの男は、自分で損を切って、兄上の手柄の置き場所まで自分で決められる人だった。離宮に損は出なかったけれど、読みは完全に外れていたよ。家柄という手がかり一つで、相手を決めていたんだ」
お兄様が人を読み違えたという話を、私は初めて聞いた。相手の前提を読む方法を教えてくれた人でさえ、家柄という一つの手がかりで相手を決め、読みを外したことがあるのなら、依頼人の話という一つの手がかりだけで相手方を決め、そのまま事実を固めた私の判断を、今回は大事に至らないからと軽く片づけることはできなかった。
「だから、調停の前に一つ決めておいてほしい。こちらが受け入れられる、いちばん低い条件だよ。想定していない事実が出て主張が崩れても、どこまでなら退けるかが決まっていれば、代理人はその場で話を続けられる。委員が妥協案を出したときに、受けるかどうかを量る目安にもなる」
これ以上は譲れないという条件と聞いて、私はだけでは決められない。そのため、まずそれを決めるのが誰なのかを考えた。
「その条件は、ジェーン様と決めます。示された条件を受けるかどうかは、最後にジェーン様が決めることですから。それと、ドルリス様のことは、期日までに私が調べます。ジェーン様にも、私にまだ話していないことがないか、もう一度伺ってみます。相手方を調べもせずに、一日で事実を固めてしまったのは、私の落ち度ですから」
お兄様が頷くだけで話をそこで終えたのは、ここから先が、私が自分の目で確かめることだからだと、今夜の話を聞いたあとでは分かった。
扉を開けると、図書室の暗がりに立っていたティナがこちらを振り返った。期日までの三日で、ドルリス様をジェーン様の目ではなく自分の目で確かめると決めて、私はティナと並んで図書室を出たのだった。