リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
5 条文の拠りどころ
調停の申出が受理された翌日、その放課後にアレクシスはイザルトを伴って生徒会書庫へ入った。閲覧のあいだだけ卓が一つ出され、常設の閲覧席が置かれていないのは、記録を持ち出させないためなのだろう。
まず刑事事件学則の各則を頭から読み通したが、暴行、強要、窃盗をはじめ、帝国でも当然に罰の対象となる行いが、学園で起こり得る形に合わせて並んでいるだけで、帝国の法と読み比べて目を留めるところはどこにもなかった。
最後の頁まで目を通したイザルトは、冊子を閉じずに指先で端を押さえ、ここから先へ各則を追っても得るものがないという見切りを、そのまま言葉にした。
「殿下、何を罰するかという点では、帝国との違いはほとんどありません。各則をこれ以上比べても、目新しいものは出ないでしょう。違いがあるとすれば、罰する行いではなく、それを誰がどのように扱うかのほうではないでしょうか」
アレクシスも同じところで見切りをつけ、刑事事件学則を脇へ寄せると、民事の調停に関する規程を開いた。昨日の会議では、申出を受理し、三日後を期日とし、アイリスを調停委員に選んでいる。その運びが何に従っていたのかは、会議で見たものと規程を突き合わせれば分かる。
「王国の制度として見ると、ここは帝国よりむしろ異質だな。王国法なら、上位者の判断や家格を理由に扱いを変える余地がどこかに残る。それがない。申出を受けてから合意を記録するまで、担当する者が勝手に順序や基準を変えられないように作られているように見えるが、どうだ」
その評に頷く代わりに、イザルトは規程の頁を戻し、調停委員の選任に関する箇所へ指を置いた。恣意を防ぐために作られているというアレクシスの読みを、条文の側から裏づけられる定めがそこにあったからである。
「当事者と近い間柄にある者を委員から外す定めまであります。期日も申出からの日数で縛っている。担当者の好みや人間関係で扱いを変える余地を減らすために、どこで恣意が入り得るかを先に考えて書いたのでしょう」
出来のよい規程ほど、アレクシスは額面どおりには受け取らなかった。客員に閲覧を許した記録が、客員に見せるために選ばれたものである可能性は、まだ潰れていない。
「そこまで考えて書かれているとなると、かえって気になる。この形そのものを、私たちへ見せるために整えた可能性だ。帝国の皇子が客員として入った以上、王国側が恣意の入らない制度だけを選んで見せているなら、ここで読んでいるものをそのまま実態とは見られないが、どうだ」
「その可能性はないでしょう。刑事の側は昨年度から動いており、二件の判決も我々が王都へ入る前に下されています。民事の側も、入学式の日に概要の冊子が全生徒へ配られました。そこに記された枠と食い違う原本をいま用意すれば、同じ冊子を手にした生徒に分かります。少なくとも、我々に見せるためだけにこの形を作ったわけではありません」
自分たちのための演出ではないとすれば、制度の運びに恣意を見つけるという点では、ここまでの検分で得られたものは何一つなかった。
二日後の調停そのものを見ることもできない。昨日の会議で、役員と客員とで守秘義務違反の扱いが違うことを突いたときも、リーゼロッテは、義務の負い方が違う以上、違反の扱いだけを揃える理由はないと返してきた。
アレクシス自身、あの問いが通るとは考えていなかった。制度を緩められる場所があるなら、理由の弱いところから現れると見て試したにすぎない。規程を先へ先へと送るうち、当事者が自ら選んだ者を立て、その者に主張を述べさせることができるという定めで、アレクシスの指が止まった。
「この制度は帝国にはない。帝国では、争う者は自分の言い分を自分の口で述べる。自分の利害を最もよく知るのは本人なのだから、補佐は付けられても、述べるのは本人だ。この定めは、身分で上下が決まる王国だから要る救いではないか。そうだとすれば、家格で人を量らない帝国へ持ち帰っても、使い道は乏しいように思うが、どう見る」
「そうとも限らないと思います。寄り子の令嬢や平民の特待生が、上位貴族を前にして言い分を言い切れないのは確かです。ですが同じことは、雇う者と雇われる者、金を貸した者と借りた者のあいだにも起こります。この先も相手の世話になる立場なら、身分が同じでも不利な事実は口にしにくい。口を開けなくさせているのは身分ではなく、相手に従う立場のほうではないでしょうか」
実力で序列が決まる帝国にも、上に立つ者を相手取って争う者はいる。上官を訴える兵も、商会の主を訴える雇われ人も、相手を前にして言い分を言い切れるとは限らない。
「それなら、帝国に合わせて検討する余地はある。ただ、言葉を出せない者を助けたつもりで、その者の意思から離れた合意が残るのでは、救ったことにならない。述べる役を他人へ移せば、本人が望まぬ条件まで代わりに呑まれるおそれは出ないか」
その懸念にあたる箇所を、イザルトは次条に見つけて示した。立てられた者は主張を述べる役に限られ、示された条件を受け入れるかどうかは本人が決めると、二つが分けて書かれている。
「ならば、この規程は初めから終わりまで一つの思想で書かれているな。委員と当事者の間柄、申出から期日までの日数、述べる役と決める役の切り分け。どれも、人が扱いを変えられる場所を、それが起きる前に塞いでいる。条文ごとに数え上げるより、そう括ったほうが早い」
そこまで読み取ったうえで、アレクシスは代理人に関する二条を、帝国へ持ち帰って検討するものとして覚えておくことにした。規程を閉じると、卓の中央には刑事事件基本学則と二件の判決が残った。
ここから先は、制度がどう動くかではなく、その制度が何を考えて作られているかを読む作業になる。刑事事件基本学則を開いたイザルトは、第1条、第2条、そして第10条を順に確かめていく。
「こちらは各則より違いが大きいです。規定のない行為は違反にならないという定めを総論の最初へ置き、未遂も過失も、刑事事件学則に定めがある場合にしか罰しないと重ねています。帝国にも同じ考え方はありますが、軍なら軍、官吏なら官吏と、それぞれの規範の中へ散らばっている。最初に一つ置いて、その後のすべてをこの制限の下へ入れる形は見たことがありません」
「散らばっているのとは違うな。最初に置けば、その後の条文は全部これに従って読まれる。何かが起きた後で、罰したいから似た規定を探すことはできない。裁く者に尋ねなくても、読む者自身が、どこまで罰が及ぶかを先に確かめられる。帝国は中身で負けてはいない。負けているのは置き場所のほうだな。もっとも、学園という一つの場の定めだ。帝国の軍や官吏の規範の頭に総論として置いたのと同じことかもしれない」
判決の写しは二件とも、身分を持ち出した行いを裁いたものだった。一件は、生まれの身分を示したうえで下位の生徒の頰を打った事件であり、もう一件は、家格と将来の影響力を背景に従属を迫った事件である。
被告の側はそれぞれ、身分に伴う正当な行為である、上位者による庇護の申し出であると争っていたらしい。しかし判決は、第7条にいう正当な権限または身分を、学園秩序を維持するため制度上与えられた役務上の権限に限り、生まれの爵位も家格も、その中に数えていない。
「王国で、上の家の者が下の者へ身分を示して従わせることが正当とされてきたのは、品位が家の歴史と家格に根ざしているからだ。この二件の判決は、その家格を、行いを正当とする理由から外している。品位を保つとは書いてあるが、その品位が何に拠って立つのかは書いていない。家格を退けておきながら、代わりに何を据えたのかは空いたままだ」
入学式の日に同じところを会長へ問うたとき、返ってきたのは、学則が示すあるべき振る舞いこそ学園の品位だという答えだった。それでは学則の拠りどころを学則そのものに求めたことになり、外にある何かを指したことにはならない。
その行き止まりを思い返したところで、同じ日に聞いたリーゼロッテの挨拶が、アレクシスの中でつながった。
彼女は、行いの帰結をあらかじめ見通せることの価値を語った。定めた者自身も等しくそれに縛られなければ、その見通しを信じることはできないとも述べている。それだけ理由を積み上げておきながら、会長が拠りどころとして掲げた品位という語だけは、ただの一度も使わなかった。
あのときは、最後の一段だけを口にしないことを不自然に思いながら、理由までは掴めずにいた。
「姫が入学式で言わなかったところと、この前文が決めていないところは、同じ場所に見える。見通しを何が支えるのかにだけは触れなかった。条文も、そこだけを空けてある。もっとも、いまの形なら、会長が権威によって見通しを与えていると読めなくもない。王国は帝国から、品位を掲げる権威主義の体制として分析されているし、場の長が規範を定め、その下で人が見通しを得るという構造自体は、帝国の各場とも変わらない」
「ただ、会長は式辞で、自ら定めた学則に自分も縛られると述べています。与えた者が責任として自らも従うというだけなら、縛っているのは会長自身の意思です。必要とあれば、同じ権限で置き直せる。しかし、会長の権威とは別に、この場にいる者の間で守るべき取り決めが立っていて、会長もその一人として従うという意味なら、会長だからという理由だけでは縛りを外せません。どちらと読むかで、話が変わってきます」
二人で前文から総論までを改めて確かめても、どちらを採るかは書かれていなかった。権威の下で会長が自らを律しているとも、会長の権威とは別のところから規範が立つとも定めていない。ただ、それを書き手の意図と決めるには、まだ別の説明が残っていた。
「制度を一年でここまで立ち上げたのであれば、そこまで詰め切れなかった可能性もあります。実務で困る部分から先に整え、制度全体を何に結びつけるかまでは後へ残した。それなら、この書き方にも説明はつきます」
「それは考えにくい。調停委員と当事者が近い間柄の場合まで先に外し、期日を日数で縛り、未遂と過失も処罰できる場合を別に限定している。問題が起きてから足したというより、人がどこで都合よく扱いを変えるかを先に考えて作っている。そこまで考える者が、制度の最初に何を置くかだけ考えなかったとは思えない」
その根拠が、前半で二人して確かめた規程そのものである以上、イザルトにも重ねる反論はなかった。黙った彼の前で、アレクシスは学則の末尾に承認者として記された会長の名へ目を戻した。
「承認したのが会長である以上、前文に『会長の権威によって品位を定める』と書けば、この学則の見通しは権威が与えるものだと確定する。会長自身が縛られるという誓いも、権威を持つ者が自分へ課した責任でしかなくなる。書かなければ、そこまでは決めずに済む。だから私は、詰め切れなかったのではなく、ここだけは決めずに残したのだと見ている」
ただし、そこまで読めても、もう一方の形が分かったわけではない。
権威が拠りどころではないとして、では何によって規範が立つのか。
帝国は、かつて権威によって秩序を保つ体制から実力主義へ移った。しかし変わったのは、誰が上に立つかを決める基準であり、規範を置く者そのものが消えたわけではない。
アレクシス自身も、力のある者が勝つことを自然の出発点に置き、そのうえで知恵のある者は力で潰し合う前に争い方を定めると考えている。法とは力をなくすものではなく、力を持つ者が争い方を先に決める仕組みである。
それでも帝国では、その争い方を置くのは皇位か、各場を預かる長だった。
「いま言えるのは、条文そのものには、この空白を埋める答えがないということだ。この学則が権威の下に留まるのか、別の基準へ寄るのかは、まだ条文では決まっていないのだろう。だが、権威が置かないのなら、誰が置くのか。私はその形を見たことがない。お前はどうだ」
「私も帝国で、拘束力の根拠を権威以外に求める規範を見たことはありません。権威によらないと言うだけでは、何が人を縛り、誰が変更できるのかが説明できませんね」
同じ冊子を読み返しても、ここから先へは進まない。刑事事件基本学則と刑事事件学則、その上へ民事の規程を重ねたイザルトは、次に調べられるものをそこから絞った。
「制定に中心として関わった者を探すべきでしょう。総論から民事の規程まで、同じ作り方が途切れずに続いています。多人数が各自の考えで条文を持ち寄ったなら、どこかで狙いが違ってくるはずです。少なくとも、全体を組んだ者は限られているはずです」
「そうしよう。その者が、なぜこの形にしたのかを確かめる。条文を読んで分かるのは、ここまでだ」
調べる先を決めたところで、アレクシスは以前リーゼロッテと交わした茶会での会話を思い返した。場を選べば、その場においては、権威ではない別の基準によって規範を立てることができる。
彼女はそう語っていた。
あのときアレクシスは、その別の基準が何なのかを聞き出せなかった。王国の品位とも帝国の実力とも違うところから物事を組み立てていることまでは分かったが、その先にあるものは掴めていない。
「王女殿下は、少なくとも私がいま分からずにいる形を知っているのかもしれない。この条文の空白と同じ場所を見ていたことは、確かだと思う」
しかし、リーゼロッテを学則の制定者とみなすことはできない。思想が重なることと、実際に条文を書いたことは別の事実であり、何より学則が定められたとき、彼女はまだ学園に入ってもいない。
起草した者ではありえない王女が、それでも条文と同じ場所を見ているのであれば、条文を書いた者と彼女とは、同じ考え方をどこかで共有していることになる。ならば、次に調べるべきなのは制度そのものではなく、その制度へ考え方を与えた者だ。