リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜   作:ムササビ・モマ

42 / 316
第2話『離宮の契約1』

1 カイルの引き込み:東屋での契約

 

 離宮の庭園、その奥まった場所にある古びた東屋。

 昼下がりの日差しが蔦の隙間から差し込み、石造りの円卓にまだら模様を描いている。

 リュートは卓上に一枚の羊皮紙を滑らせ、向かいの席に座る男を静かに見据えた。

 

 離宮警備隊長、カイル。

 彼は羊皮紙に目を落とすことすらなく、死んだ魚のような目でリュートを見下ろしていた。その視線には、明らかな「諦念」と、隠しきれない「侮蔑」が混じっている。不吉とされる黒髪赤眼の、わずか十歳の子供。彼にとって、リュートはその程度の存在に過ぎない。

 

「……殿下。私のような『汚れ物(左遷組)』に何の用ですか。私と懇ろにされては、殿下の数少ない『品位』に傷がつきますぞ」

 自嘲気味なカイルの言葉に、リュートは無言で羊皮紙をもう一度、指先で叩いた。

 

「『雇用契約書』の草案だ。目を通せ」

「契約書? ……はっ、おままごとですか」

 カイルは鼻で笑いながらも、暇つぶしと言わんばかりにその紙を手に取った。

 だが、数行読んだところで、彼の眉が怪訝そうに寄せられた。そこには、この王国の常識には存在しない、異質な条項が並んでいたからだ。

 

『【特定業務委託に関する基本契約(草案)】

 第1条(目的):甲(リュート)は、乙(カイル)に対し、身辺警護および隠密情報の収集を委託する。

 

 第2条(報酬および対価):甲は乙に対し、金銭ではなく、以下の「評価基準」を保障する。

 

 第3条(手段):乙の任務遂行中の行動は甲の名において合法となると保障する。

 

 ・事実に基づく評価(エビデンス・ベース):乙の処遇は、甲の「気分」や「品位」によって変動せず、乙が上げた「成果(事実)」のみに基づいて決定される。

 

 ・遡及処罰の禁止:乙が契約に基づき行った行為は、事後的な事情(品位など)によって処罰の対象とされない』

 

 カイルの指が、わずかに震えた。

 だが、彼はすぐにその紙をクシャリと握り潰し、卓に叩きつけた。

 

「……冗談はやめていただきたい」

 カイルの声が低く唸った。そこには明確な怒りがあった。

 

「事実に基づく評価? 遡及処罰の禁止? 戯言だ。この国を統べているのは王家の『気分』と、それを取り繕う『品位』という名の嘘ですよ。紙切れ一枚で、何が変わるというのです」

 カイルは立ち上がり、巨体でリュートを見下ろした。その威圧感は、十歳の子供を押し潰すには十分すぎる殺気を孕んでいた。

 

「努力すれば報われる? 公正なルール? ……そんなものは、温室育ちの子供が見る夢だ。私が騎士団で上官の不正を指摘した時、何と言われたか教えてやりましょうか? 『貴様の端たなき正義感は、王国の品位を傷つけた』……それでおしまいです。私の十数年の努力は、その一言でゴミ箱に捨てられた」

 彼はテーブルに両手をつき、リュートの顔に近づいて嘲笑った。

 

「さあ、十歳の王子様。お遊びは終わりだ。あなたには私に支払える報酬など何一つない。……それとも何か? この離宮に隠されている『帝国の至宝』――ルナリア様の体を私に提供するとでも言うのですか?」

 その不遜極まりない要求が出た瞬間、周囲の空気が凍りついた。

 背後に控えていたルリカの殺気が爆発し、手が反射的に懐の暗器へと伸びる。

 

「……下衆がッ!」

「待て、ルリカ」

 リュートは片手でルリカを制した。

 

 その表情に、怒りはなかった。あるのは、感情を一切排した冷徹な「法家」の思考だけだった。

 

「なるほど。他人の身体の利用権を目的とした契約か。債権契約の形式としては成立しうるな」

 リュートは事務的なトーンを崩さず、淡々と指を二本立てた。子供の反応ではない。まるで商談で不備のある商品を指摘するかのような態度に、カイルの顔から嘲笑が消える。

 

「だが、その契約には二つの致命的な瑕疵(かし)がある。第一に、私にその債務を履行する意思が皆無であることだ。最初から履行するつもりのない約束を交わすのは、信義則に反する詐欺的行為だ」

 リュートは一歩踏み出し、カイルを見上げた。

 

「そして第二に。私の定義する『契約』において、人間は『権利の主体』であり、取引される『客体(モノ)』にはなり得ない。人格をモノとして扱う契約は、公序良俗に反する絶対的な無効(ナリティ)だ」

 カイルは言葉を失った。怒られるでも、泣き出すでもなく、理路整然と「契約の無効性」を説かれたのだ。その異様な迫力に、彼は思わずたじろいだ。

 

「な、なんだ、あんたは……」

「カイル。君は『品位』がこの国の秩序だと言った。だが、それは違う」

 リュートの赤い瞳が、カイルの濁った瞳を射抜いた。

 

「『品位』とは、この国が既に支払えなくなった『負債』の別名だ」

「……負債、だと?」

 

「そうだ。不祥事を隠蔽し、事実を歪め、無能な貴族を養い続ける。そのために必要な膨大な金と嘘のコストだ。……カイル、君の努力が捨てられたのは、君が間違っていたからではない。君が突きつけた『事実』を受け入れるだけの体力が、今の王国(債務者)にはもう残っていないからだ」

 その言葉は、鋭利な刃物のようにカイルの胸に突き刺さった。

 

 誰もが彼を「空気が読めない」「不品位だ」と責めた。だが、目の前の少年だけが、その原因を国の方にあると断言した。

 

「君の騎士としての実績は、君の血と汗で鋳造された『本物』だ。だが、この国が押し付ける『品位』は、中身のないメッキに過ぎない。君が絶望しているのは、本物が偽物に負けたからではない。偽物の維持に、君という『本物』が燃料としてくべられたからだ」

 カイルの眉間が苦痛に歪む。リュートは逃さず、彼の魂の最深部を抉る言葉を叩きつけた。

 

「この契約書は、国を変えるような大層なものではない。だが、少なくとも『私と君の間』だけには通用するルールだ。ここでは『品位』などという曖昧な基準で君を裁かない。君が剣を振り、敵を倒し、情報を持ち帰る。その『事実』だけを私は買い取り、対価を払う」

 リュートは右手を差し出した。

 

「君が私に従うのではない。君の持つ『正当な暴力』と、私の持つ『正当な評価』が対等に結託するんだ。……カイル。君の努力を『なかったこと』にさせた連中を、君自身の手で、実力で見返してやりたくはないか?」

 風が止んだ。

   ・

   ・

   ・

 カイルは長い沈黙の後、絞り出すような吐息を漏らした。

 彼は震える手で卓上のペンを握り、自らが否定し続けてきた「ルール」の萌芽たる羊皮紙に、その名を刻んだ。

 

「……参りましたよ。殿下」

 書き終えたカイルが顔を上げる。その目に、もはや死んだ魚のような濁りはなかった。あるのは、理解不能な「怪物」を前にした畏怖と、武人としての興奮だった。

 

「その冷徹な話しぶり……まるで何千人もの人間を値踏みしてきた商人のようだ。……いいでしょう。この『賭け』、乗らせていただきます。あなたの作る『評価』とやらが、私の努力に見合うだけの重みがあることを、死ぬ気で証明して見せてくださいよ」

 

「ああ、約束する。……契約成立だ」

 リュートはカイルの手を握り返した。

 その小さな手から伝わる熱は、十歳の子供のものではなかった。

 腐った騎士は死に、今ここに、リュートの最初の「執行官」が誕生した。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。