リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
1 カイルの引き込み:東屋での契約
離宮の庭園、その奥まった場所にある古びた東屋。
昼下がりの日差しが蔦の隙間から差し込み、石造りの円卓にまだら模様を描いている。
リュートは卓上に一枚の羊皮紙を滑らせ、向かいの席に座る男を静かに見据えた。
離宮警備隊長、カイル。
彼は羊皮紙に目を落とすことすらなく、死んだ魚のような目でリュートを見下ろしていた。その視線には、明らかな「諦念」と、隠しきれない「侮蔑」が混じっている。不吉とされる黒髪赤眼の、わずか十歳の子供。彼にとって、リュートはその程度の存在に過ぎない。
「……殿下。私のような『汚れ物(左遷組)』に何の用ですか。私と懇ろにされては、殿下の数少ない『品位』に傷がつきますぞ」
自嘲気味なカイルの言葉に、リュートは無言で羊皮紙をもう一度、指先で叩いた。
「『雇用契約書』の草案だ。目を通せ」
「契約書? ……はっ、おままごとですか」
カイルは鼻で笑いながらも、暇つぶしと言わんばかりにその紙を手に取った。
だが、数行読んだところで、彼の眉が怪訝そうに寄せられた。そこには、この王国の常識には存在しない、異質な条項が並んでいたからだ。
『【特定業務委託に関する基本契約(草案)】
第1条(目的):甲(リュート)は、乙(カイル)に対し、身辺警護および隠密情報の収集を委託する。
第2条(報酬および対価):甲は乙に対し、金銭ではなく、以下の「評価基準」を保障する。
第3条(手段):乙の任務遂行中の行動は甲の名において合法となると保障する。
・事実に基づく評価(エビデンス・ベース):乙の処遇は、甲の「気分」や「品位」によって変動せず、乙が上げた「成果(事実)」のみに基づいて決定される。
・遡及処罰の禁止:乙が契約に基づき行った行為は、事後的な事情(品位など)によって処罰の対象とされない』
カイルの指が、わずかに震えた。
だが、彼はすぐにその紙をクシャリと握り潰し、卓に叩きつけた。
「……冗談はやめていただきたい」
カイルの声が低く唸った。そこには明確な怒りがあった。
「事実に基づく評価? 遡及処罰の禁止? 戯言だ。この国を統べているのは王家の『気分』と、それを取り繕う『品位』という名の嘘ですよ。紙切れ一枚で、何が変わるというのです」
カイルは立ち上がり、巨体でリュートを見下ろした。その威圧感は、十歳の子供を押し潰すには十分すぎる殺気を孕んでいた。
「努力すれば報われる? 公正なルール? ……そんなものは、温室育ちの子供が見る夢だ。私が騎士団で上官の不正を指摘した時、何と言われたか教えてやりましょうか? 『貴様の端たなき正義感は、王国の品位を傷つけた』……それでおしまいです。私の十数年の努力は、その一言でゴミ箱に捨てられた」
彼はテーブルに両手をつき、リュートの顔に近づいて嘲笑った。
「さあ、十歳の王子様。お遊びは終わりだ。あなたには私に支払える報酬など何一つない。……それとも何か? この離宮に隠されている『帝国の至宝』――ルナリア様の体を私に提供するとでも言うのですか?」
その不遜極まりない要求が出た瞬間、周囲の空気が凍りついた。
背後に控えていたルリカの殺気が爆発し、手が反射的に懐の暗器へと伸びる。
「……下衆がッ!」
「待て、ルリカ」
リュートは片手でルリカを制した。
その表情に、怒りはなかった。あるのは、感情を一切排した冷徹な「法家」の思考だけだった。
「なるほど。他人の身体の利用権を目的とした契約か。債権契約の形式としては成立しうるな」
リュートは事務的なトーンを崩さず、淡々と指を二本立てた。子供の反応ではない。まるで商談で不備のある商品を指摘するかのような態度に、カイルの顔から嘲笑が消える。
「だが、その契約には二つの致命的な瑕疵(かし)がある。第一に、私にその債務を履行する意思が皆無であることだ。最初から履行するつもりのない約束を交わすのは、信義則に反する詐欺的行為だ」
リュートは一歩踏み出し、カイルを見上げた。
「そして第二に。私の定義する『契約』において、人間は『権利の主体』であり、取引される『客体(モノ)』にはなり得ない。人格をモノとして扱う契約は、公序良俗に反する絶対的な無効(ナリティ)だ」
カイルは言葉を失った。怒られるでも、泣き出すでもなく、理路整然と「契約の無効性」を説かれたのだ。その異様な迫力に、彼は思わずたじろいだ。
「な、なんだ、あんたは……」
「カイル。君は『品位』がこの国の秩序だと言った。だが、それは違う」
リュートの赤い瞳が、カイルの濁った瞳を射抜いた。
「『品位』とは、この国が既に支払えなくなった『負債』の別名だ」
「……負債、だと?」
「そうだ。不祥事を隠蔽し、事実を歪め、無能な貴族を養い続ける。そのために必要な膨大な金と嘘のコストだ。……カイル、君の努力が捨てられたのは、君が間違っていたからではない。君が突きつけた『事実』を受け入れるだけの体力が、今の王国(債務者)にはもう残っていないからだ」
その言葉は、鋭利な刃物のようにカイルの胸に突き刺さった。
誰もが彼を「空気が読めない」「不品位だ」と責めた。だが、目の前の少年だけが、その原因を国の方にあると断言した。
「君の騎士としての実績は、君の血と汗で鋳造された『本物』だ。だが、この国が押し付ける『品位』は、中身のないメッキに過ぎない。君が絶望しているのは、本物が偽物に負けたからではない。偽物の維持に、君という『本物』が燃料としてくべられたからだ」
カイルの眉間が苦痛に歪む。リュートは逃さず、彼の魂の最深部を抉る言葉を叩きつけた。
「この契約書は、国を変えるような大層なものではない。だが、少なくとも『私と君の間』だけには通用するルールだ。ここでは『品位』などという曖昧な基準で君を裁かない。君が剣を振り、敵を倒し、情報を持ち帰る。その『事実』だけを私は買い取り、対価を払う」
リュートは右手を差し出した。
「君が私に従うのではない。君の持つ『正当な暴力』と、私の持つ『正当な評価』が対等に結託するんだ。……カイル。君の努力を『なかったこと』にさせた連中を、君自身の手で、実力で見返してやりたくはないか?」
風が止んだ。
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カイルは長い沈黙の後、絞り出すような吐息を漏らした。
彼は震える手で卓上のペンを握り、自らが否定し続けてきた「ルール」の萌芽たる羊皮紙に、その名を刻んだ。
「……参りましたよ。殿下」
書き終えたカイルが顔を上げる。その目に、もはや死んだ魚のような濁りはなかった。あるのは、理解不能な「怪物」を前にした畏怖と、武人としての興奮だった。
「その冷徹な話しぶり……まるで何千人もの人間を値踏みしてきた商人のようだ。……いいでしょう。この『賭け』、乗らせていただきます。あなたの作る『評価』とやらが、私の努力に見合うだけの重みがあることを、死ぬ気で証明して見せてくださいよ」
「ああ、約束する。……契約成立だ」
リュートはカイルの手を握り返した。
その小さな手から伝わる熱は、十歳の子供のものではなかった。
腐った騎士は死に、今ここに、リュートの最初の「執行官」が誕生した。