リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
1 名を載せない記録
授業を終えた生徒が寮や社交の場へ散り始める刻限に、私はティナを伴い、調停室とは別の入口から別室へ入った。室内には小さな卓と椅子が置かれ、調停室と接する壁には横に細長い小さな窓が開いている。そこからは調停室の卓を見渡せる一方、向こう側には背の高い鉢植えが置かれているため、調停室から窓そのものを見つけることは難しい。
先に来ていたジェーン様は、私たちが入ると椅子から立ち、まだ誰も着いていない調停室へ窓越しに目を向けた。始まればここから姿も見え、話す声も聞こえるが、こちらの声が漏れれば、申立人が別室にいることを伏せている意味がなくなる。そのため、私は窓から少し離れたところで、まず窓の使い方と、今日の席で案がまとまったときにどうするのかを続けて説明した。
「調停が始まりましたら、窓の近くでは声を出さないでください。向こうの様子はここから見えますし、話す声も聞こえますが、同時にこちらの声も聞こえてしまいます。それから、今日の席で案がまとまっても、その場で合意する必要はなく、三日のうちに合意するかどうかを決めることになります」
ジェーン様は窓から目を離して一度頷き、私のほうへ向き直った。窓の向こうを見ながら聞いていたことに、自分なりの答えが出たのだろう。向き直ったのは、それを私に伝えるためだろう。しかし、私に聞かせるというより、自分に向けて洩れた声のように呟く。
「決めなければいけないのは、わたしなのですね。……父が決めたことに従うだけなら、楽だったのですけれど」
「そうですね、従っていられたら楽でした。でも今日話すのは、お父上の約束を取り消すことではありません。学園の中での役務を決めるだけです。だからこそ、そこで合意したことは、あなたが引き受けることになります。わたくしが代わりに決めるわけにはいかないのですよ」
ジェーン様は私から目をそらし、しばらく床の一点を見ていた。代わりに決めてもらえないと知って、言えずにいたことを口にするか迷っているように見えた。
「……本当は、何も決めたくないのです。ドルリス様と関わらずに済んで、放課後に自分の時間があれば、それだけでいいのに」
放課後、と口にしたときだけ、声がはっきりした。何も決めたくないと言いながら、それだけは手放したくないという意思が見て取れる。
「やり過ごせたら、いいのですけれどね。でも合意しなければ、今の状態が続くだけです。放課後の時間をどこまで得られるかも含めて、どちらを選ぶかは、あなた次第です」
「どちらにしても、わたしは選ばなければならないのですね。……逃げることはできないのですね」
ジェーン様の組んだ指先が強張った。決めることより、今の日々が続くことの方が、ジェーン様にはなお重いのだろう。ジェーン様はそれきり口を閉じ、窓のほうへ顔を戻した。まだ誰も座っていない席を見るその目は、私たちが入ってきたときと同じだった。
あの席が空いたままで今日が過ぎてくれれば、それでいい。逃げられないと分かっていても、そう願っているのだろう。しかし、自由には責任が伴う。私は、窓を見たままのジェーン様に声をかけた。
「席に着いたら、途中であなたに意向を確かめることはできません。向こうへ伝える内容は、先日決めたとおりでいいですね。役務の範囲をはっきりさせて、ドルリス様との関わりは、できるだけあなたの負担にならないところまでにしてもらいます」
「その形で、お願いいたします」
相談の日に聞いたのと同じ言葉が返ってくる。一度選んだ答えのままでいる方がジェーン様には楽なのだろう。そういう答えを、私はそのまま信じきることができなかった。
しかも、私自身はもう、相談の日と同じものだけを見てはいなかった。あの日はジェーン様から聞いた事実を確かめながら、それでもいつの間にか、片側から聞いた話だけでドルリス様という人を決めかけていた。それをお兄様に指摘されてから、自分で確かめたので、いまの私はジェーン様の知らないことも知っている。
窓の向こうでは、調停室の席を整える者が入り始めていた。そろそろ移る刻限なので、私はティナを伴って別室を出る前に、ジェーン様の目を見て、一つだけ言葉を残した。
「ドルリス様を、よく見てくださいね」
ジェーン様は、その意味を探るように私の顔を見たが、私は説明を足さなかった。彼女も問い返さず、その意味を理解しているようには見えない。私が見てきたことを先に話せば、私の見立てを通してドルリス様を見ることになってしまう。何を考えているのか分からないのが怖いのなら、相手を見られるあの窓から、そこに座る本人を見て、言葉を聞いてほしかった。
私はそれ以上何も告げず、ジェーン様を別室に残して調停室へ向かった。
◇
調停室へ入ると、入口に向かって開くように組まれたコの字の卓には、すでに必要な席が整えられていた。奥の委員席にわたくし、その左隣に書記を務めるテオドールが着き、右手には申立代理人であるリーゼ様、その入口寄りにティナが立つ。左手にはわたくしに近い側からエドワルド様、ドルリス様の順に着き、入口近くの壁際では、風紀官のテトラが騒ぎに備えて控えている。この調停を成立させる人物が揃ったのを見渡し、わたくしは調停の開始を宣言する。
「これより調停を始めます」
申立人側ではリーゼロッテ殿下が代理人として席に着き、相手方側ではドルリス様が大きな身体で席に着き、こちらを見ているだけである。その隣では、エドワルド様が本人の前へ出すぎない位置にいながら、必要な書面を自分の手元へ揃えていた。
書面から読み取れるのは双方の言い分までであったが、実際に向かい合うと、その沈黙による威圧感が強く感じられる。体が大きく肩幅もある方が、一言も発さずに座っているだけで、他の者を牽制するような圧力を感じる。
けれど、この印象で人を判じてしまえば、当事者の事情を先に入れずに席へ着いた意味がない。ドルリス様の印象にとらわれることがないように気を引き締め、予定していた手続の確認から始めることにした。
「初めに、学則上の扱いと本日の手続を確認いたします。この調停では、当事者と代理人の身分および家格を考慮することはありません。申立代理人が王女殿下であっても、その発言を王家の意向としては扱いません。また、当事者の家格に差があることも、どちらかの言い分を重く扱う理由にはいたしません」
右手では、リーゼロッテ殿下が間を置かずに頷いた。王女として扱われないことを改めて告げられても、戸惑う様子はない。初めから、ジェーン様から言葉を託された代理人として座るつもりだったのだろう。
左手では、ドルリス様がわたくしを見るより先にエドワルド様へ一度視線を寄せた。エドワルド様は小さく頷き返しただけで、本人に代わって承知の言葉を重ねることはしない。ドルリス様がその後でゆっくりと頷いたのを確かめてから、手元の書面へ視線を戻した。
相手方本人が寡黙だから、代理人が多くを引き取る。それだけなら不自然ではない。ただ、エドワルド様の動きには、単に言葉数の少ない者を補うだけではない注意深さがあった。本人の意思に関わるところでは必ず反応を確かめ、それ以外の手続は自分が前へ出て受けるつもりらしい。
第一王子の近衛を務める者が、制度施行後に初めて開かれる民事調停で相手方本人として座っている。ここで手続を軽んじれば、ドルリス様一人の評判だけでは済まない。しかも申立代理人は、リーゼロッテ殿下である。エドワルド様が、この席を形だけ整えて終える気ではないことだけは、ドルリス様の頷きを確かめるたびに、すぐ手元の書面へ目を戻す様子で分かった。
「同じ扱いは、委員であるわたくしにも及びます。調停は当事者双方の合意によって成立するものであり、話し合いで条件がまとまらない場合には、わたくしから調停案を示すことがございますが、両当事者及び代理人にそれを受ける義務はありません」
自分で口にしながら、先ほどドルリス様から受けた重さを思い返した。拒めると規則に書いてあるだけでは足りない。相手を前にしてなお拒める状態でなければ、そこで出た承知を合意とは呼べない。
エドワルド様はここでもドルリス様へ視線を向けた。ドルリス様は何も言わずに頷き、エドワルド様もそれ以上の返答を加えなかった。本人の発言を必要以上に増やさず、それでも本人自身が了承したことだけは曖昧にしない。その運びが、ここまで一度も崩れていない。
「このあと、まず申立代理人から申立人の主張を読み上げ、次に相手方代理人から相手方の主張を伺います。そのうえで、契約にいう役務の範囲を話し合いで詰めます。双方だけで案がまとまらない場合には、先ほど申し上げた調停案をわたくしから示すことがあります。ただし、ここで案がまとまっても、その場で合意する必要はございません。双方とも一度持ち帰り、三日のうちに合意するかどうかをご本人と共にお決めください」
ドルリス様はこれまでと同じように黙って聞いていたが、『一度持ち帰り』と告げたところで、わずかに視線を上げた。その反応だけで何を考えたかまでは分からない。
「双方が合意した場合には、その内容で契約書を交わします。生徒会長は、内容の是非を裁可するためではなく、双方の合意によって契約が成立したことを学園として確認するために署名します。成立後の基準となるのは、その契約書に記された内容です。この席で出た案や発言だけで、新たな義務が生じることはございません」
その説明に入ると、リーゼ様が初めて手元の書面へ目を落とした。すぐに顔を上げたものの、確認の言葉は挟まない。必要な内容が委員の口から明示された以上、今ここで同じことを問い直す必要はないと判断したようだった。
向かい側では、その動きを見ていたエドワルド様も一度だけ自分の書面へ目を落とした。王女だから動きを窺っているというより、相手方代理人として、申立代理人がどの説明に反応したかを見落とさないためであろう。
「どちらかが合意しない場合、または三日のうちに合意するとの回答がなかった場合には、調停は成立せずそこで終了します。その後も争いについて判断を求める方は、改めて訴訟を申し立てることができますが、調停が不成立になったことだけを理由として、自動的に訴訟へ移ることはございません」
リーゼ様は、ここでははっきりと頷いた。その向かいで、ドルリス様も一度だけ頷く。エドワルド様は本人の反応を横目で確かめたが、何も補わなかった。調停を不成立にすることも、その後に訴訟を求めることも、最後は当事者自身の選択であるからであろう。
「本日の調停については、事件の経過と結果を記録として残します。ただし、調停記録には個人名を記載できません。ですから、この席では、後に誰の発言として記録に残るかを気にせず、必要なことをお話しください」
ドルリス様が、そこでわずかに顔を上げ、隣のエドワルド様へ視線を向けた。自分で話したことが第一王子の近衛として記録に残るわけではないと伝わったのだろう。しかし、エドワルド様は手元の書面から目を上げず、その視線には応じなかった。わたくしは二人の様子を見ながら、さらに説明を続ける。
「ですから、この席で述べたことが、後になってご本人の名や家名と結びついて残ることを理由に言葉を控える必要はございません。受けられない条件は受けられないとお答えください。反対に、ご自分から条件を出すことも、途中で考えを改めることもできます。成立した場合にお二人を拘束するのは、最後に双方が合意して交わした契約書のみです」
リーゼ様も、わずかに姿勢を改めた。匿名で残るというのは、ただ名を隠してもらえるというだけではない。それだけを後から取り出して本人の品位や家の評判に結びつけることができない。その条件があって初めて、身分のある者同士でも、公平に条件そのものを話せる。
記録について必要なことを告げ終え、わたくしは申立書と反論書をもう一度見比べた。食い違っている点はある。それらを初めから全部並べれば、何について合意できないのかが見えなくなる。
「それでは、本日の争点を確認いたします。提出された申立書及び反論書では、両家の間で契約が成立していること、また、その契約が申立人及び相手方本人に及ぶことについては、いずれからも異議は示されておりません。したがって、契約によって申立人には役務という義務が生じております。そのうえで、双方の認識が一致していないのは、その義務として申立人が負う役務の範囲であると提出書面から判断いたしました。以上の整理で、双方共にこの点に相違はございませんか」
「申立人側は、役務の範囲を定めることを本日の調停の対象とすることを求めています。契約書には『世話』としか定められておらず、申立人は、どこまで行えば契約上の義務を果たしたことになるのか分からないことに不安を抱いております」
リーゼ様が答える。ここまでの手続説明には言葉を挟まなかったが、何を話し合うかという一点には、自分の口で明確に答えた。
わたくしが左手へ視線を移すと、エドワルド様はドルリス様を見ることなく、そのままこちらへ向き直った。先ほどドルリス様から向けられた視線にも応じなかった以上、ここでも本人に答えを委ねるつもりはないらしい。
「相手方も、役務の範囲を本日の調停で定めることに異議はございません。ドルリス殿は、契約が成立しているにもかかわらず、その内容が履行されないことに戸惑っております。これでは、契約を交わしたことにどのような意味があったのか分からない。相手方としても、申立人が負う役務を明らかにする必要があると考えております」
最低限必要なところだけ本人の意思を確かめ、代理人としての言葉へ変える。エドワルド様は最後までその運びを崩さなかった。これで、身分や家格でも、目の前に座る者から受ける印象でもなく、双方が何について言葉を交わすのかが一つに定まった。わたくしは右手の申立代理人へ視線を移した。
「では、申立人側の主張から見ていくことにします」