リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 第二王子との秘密:迷宮庭園の論戦
夜会の喧騒が遠ざかる、オルディナ公爵邸の迷宮庭園。
高く刈り込まれた生垣が作り出す闇の迷路を抜け、リュートとアイリスは人目のつかない奥まった東屋へと辿り着いた。月光だけが二人を照らす、完璧な密室。
アイリスは扇を閉じ、先ほどまでの「退屈な令嬢」の仮面を脱ぎ捨てた。その瞳には、獲物を値踏みするような冷徹な知性の光が宿っている。
「……さて、殿下。誰も見ていませんわ。『数字』の話をしましょうか。あの引換証の欠陥と、王の喉元に届く方法について」
リュートは東屋の柱に背を預け、単刀直入に切り出した。
「君の悩みはシンプルだ。東の公爵領は……いや、王国の海は『海竜』という物理的な壁と、『王都の関所』という政治的な壁に挟まれて窒息しかけている。引換証というローカル通貨で領内の血行を良くしても、外から栄養が入ってこなければ、いずれ衰退死する」
「……ええ、その通りです。父は現状維持で満足していますが、私は座して死を待つ気はありません」
アイリスは認め、鋭く問い返した。
「ですが、どうしようもありませんわ。海には魔物が、陸には王家の搾取があるのですから」
「だから、海を行く」
リュートは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、テーブルに広げた。
それは、かつて泉で実験した「水中翼船(ハイドロフォイル)」の設計図だった。
「僕には『魔導船』の構想がある。既存の船とは違い、水面から浮上して滑走する船だ。これなら海竜が感知して襲ってくる前に海域を突破できる。……君の家の『海運』を復活させ、王都を通さずに帝国と直接交易を行い、莫大な利益を生むことができる」
アイリスは図面を覗き込み、瞬時にその革新性を理解した。
「……水面から浮く? 摩擦抵抗をゼロにする……理論上は可能ですわね。これがあれば、物理的な壁は壊せる」
しかし、彼女はすぐに顔を上げ、冷ややかに首を横に振った。
「……ですが、お断りします。技術的に可能でも、政治的に不可能です」
「なぜ?」
「殿下は、この国の法律をご存知ないのですか? いえ、この国に法などないことを」
アイリスは自嘲気味に笑った。
「王家が支配するこの国で、一介の貴族が物流を独占し、莫大な利益を上げればどうなるか? 『王家の権益を侵した』『身分不相応だ』と難癖をつけられ、事業ごと没収されて終わりです。父が恐れているのはそれです。成功すればするほど、王に首を狩られる。……それがこの国の『理(ことわり)』でしょう?」
彼女の言葉は、諦めに満ちていた。
いかに優れた技術があろうと、王という絶対権力者が「よこせ」と言えば逆らえない。それが人治国家の限界だった。
リュートは静かに頷いた。
「その通りだ。だから、王の許可を取る。僕が陛下から直接、この事業の独占権と免税権を認める『特権状(ロイヤル・チャーター)』をもらってくる。これがあれば大義名分は立つ」
「……特権状?」
アイリスは失笑した。扇で口元を隠し、憐れむような目でリュートを見る。
「……悪い冗談ですわ。紙切れ一枚に、何の価値があるのです? 『仮に』特権状が取れたとしましょう。ですが、王の気分が法の国ですよ? 事業が成功し、金が動き始めた時、陛下が『気が変わった』と言って特権状を破り捨てたらどうするのです? その時、私たちの手元には何の価値もない紙屑が残るだけ。……王権という暴力の前で、紙切れ一枚に何ができますの?」
絶対的な「王の品位」の前では、契約など無意味。それが、彼女が突き当たっていた絶望の壁だった。
だが、リュートは笑っていた。
「ああ、王は約束を破るだろうね。……だから、罠を仕掛けるんだ」
リュートは図面の上に指を置き、二本、三本と増やしていった。
「特権状を『ただの紙』では終わらせない。ここで考えるべきは、『なぜ事業の没収が許されるのか』だ。それは、事業が没収されて利益や利権を得る貴族が他にいるからだ。自身に関係のないことなら、彼らは王家の機嫌をとった方が後々利益になるという計算が働く。他人の不利益になるだけなら、彼らはこう言うだろうね。『陛下、それは王家の品位を損ないます。没収が妥当です』と」
リュートは図面をコンと叩いた。
「ここが肝だ。僕たちが作る海運組合の出資比率を細分化し、有象無象の貴族たちに『権利証』として広く資本を募るんだ。前世の言葉で言うなら、株式会社のシステムだ」
「……権利証?」
聞き慣れない概念に、アイリスが眉を寄せる。
「事業の所有権を僕たちだけで独占しない。細かく切り分けて、その『権利者』として、王宮の有力貴族、軍部の将軍、大商人たちを片っ端から巻き込む。さらに『海上保険』という名の利益分配構造を作り、彼ら全員を『利害関係者(ステークホルダー)』にする」
リュートの赤い瞳が、夜闇の中で妖しく光った。
「いいかい、アイリス。もし王が、成功した僕たちの特権状を破り捨て、事業を没収しようとすればどうなる? それは、僕たち二人だけでなく、権利者である貴族や将軍たち全員の資産(配当)を、王が略奪することを意味する」
アイリスの目が大きく見開かれた。
「……っ!」
「王といえど、自分の座を支える柱である貴族や軍部を、自ら敵に回すことはできない。もしそんなことをすれば、王家の『信用(品位)』は崩壊し、支持基盤を失った国は立ち行かなくなる。……王は、自分の手足を切り落とさない限り、この特権状には手を出せなくなるんだ」
リュートは一歩踏み出し、アイリスの目の前で囁いた。
「王の『強欲』と、貴族たちの『欲望』を人質に取る。彼ら全員を共犯者にすることで、王を自らの『品位』という檻に閉じ込めるんだ。……どうだ、これなら君の計算も合うだろう?」
「相互確証破壊」の論理。王が約束を破れば、王自身が破滅する。
この国に「憲法」はない。だが、「破れば自分が損をする」という構造(システム)を作り上げれば、王は不本意でもルールを守らざるを得なくなる。王の「善意」ではなく「損得」を縛ることで、実質的な「法(ルール)による支配」を強制する――それが、リュートの描く盤面だった。
アイリスは扇を下げ、呆然とリュートを見つめた。
その構想は、一介の貴族令嬢の想像を遥かに超えた、国そのものを盤面にする悪魔的な発想だった。
「……恐ろしい方。貴方は、国を裏から支配するおつもりですか」
震える声。だが、その瞳には恐怖以上の「熱」が灯っていた。彼女はずっと探していたのだ。この閉塞した世界を、暴力ではなく「知恵」でぶち壊せる共犯者を。
アイリスはゆっくりと、妖艶な笑みを浮かべた。
「一応、理屈は通っています。ですが、それも全ては『特権状』という種火があってこそ。……まずはその毒杯を、陛下から本当に取ってきてください」
彼女はリュートの胸元に指を這わせ、挑発的に囁いた。
「もし取れたら……その時は、『お付き合い』(事業提携)させていただきましょう」
「交渉成立だ」
リュートは彼女の手を取り、恭しく口づけを落とした。
「僕が特権状を持ってきたら、君の父上(公爵)との面会をセッティングしてくれ。……そこからが、本当の始まりだ」
「いいでしょう。……楽しみにしていますわ、私の共犯者様」
月光の下、二人の天才は密約を交わした。それは愛の告白よりも深く、重い、国を揺るがす共謀の契約だった。リュートは確信した。この少女とならば、世界を変えられると。
「……行くぞ、カイル。次は王宮だ。陛下から『最強の盾』を毟り取りに行く」
リュートは迷宮庭園を後にした。その足取りは軽く、しかし確かな勝算に満ちていた。