リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 廊下の決闘:人的担保の合意
公爵との会談を一時中断し、実演のために裏手の私有湖へ向かう道すがら。
オルディナ公爵邸の長い回廊は、静寂に包まれていた。
壁には歴代当主の肖像画が並び、磨き上げられた大理石の床が、リュートとアイリス、そして護衛のカイルの靴音を硬質に響かせている。窓から差し込む斜陽が、空気中の塵を黄金色に染め、邸宅の歴史と重厚さを無言で語っていた。
その静寂を、唐突な怒号が切り裂いた。
「――待て! 黒髪の王子!!」
廊下の角から飛び出してきたのは、一人の少年だった。
アイリスの弟、テオドール・オルディナ。次期公爵候補である彼は、まだ寝間着姿のまま、慌てて引っ掛けたであろう胸当てをガチャガチャと鳴らし、手には稽古用の木剣を構えて立ちはだかった。
「はぁ、はぁ……! 貴様、姉上をたぶらかしに来たな!」
テオドールは切っ先をリュートに向け、涙目で叫んだ。
「外堀から埋めて既成事実を作り、姉上との『婚約』を盤石にする気だろう! 僕は騙されないぞ! 金と権力で姉上を縛り付けるつもりか! 僕の目の黒いうちは、断じて許さんぞ!」
直情型で、姉を崇拝する典型的な「シスコン」の弟。
その剣幕に、背後の公爵や使用人たちが狼狽える。だが、リュートは足を止め、表情一つ変えずに溜息をついた。
『……やれやれ』
リュートはテオドールを見下ろすのではなく、憐れむように変装用の眼鏡の位置を中指で押し上げた。レンズが夕日を反射し、冷ややかな光を放つ。
「誤解だ、テオドール君。君は『婚約』を、そのような情緒的な結合と勘違いしている」
リュートの声は、氷のように冷たく、事務的だった。
「私が検討しているのは、オルディナ家を共同事業体として結合させるための、不履行に対する最強の『人的担保』だ」
「……は?」
テオドールの動きが止まる。聞き慣れない単語に、怒りの行き場を失った顔をする。
リュートは淡々と続けた。まるで法学の講義をするかのように。
「我々の事業は巨額の資本が動く。契約不履行が発生した場合、金銭賠償だけでは補填しきれないリスクがある。ゆえに、違約金の代わりに『配偶者』という資産を差し押さえ、相手家の重要人物をこちらの支配下に置く……最も効率的な抑止力(人質)として、君の姉上の価値を査定しているに過ぎない」
「し、資産……? さ、査定……?」
テオドールが混乱して口をパクパクさせる。
そこへ、リュートの隣にいたアイリスが一歩踏み出した。彼女は扇をパチリと閉じ、弟を氷点下の視線で見下ろした。
「ええ、その通りよテオ。婚姻は最強の『法的結合』であり、相互監視システムよ」
アイリスの声にも、甘い姉の情は一切なかった。あるのは「経営者」としての冷徹な判断だけだ。
「貴方が騒げば騒ぐほど、貴方を私の『資産管理下』から隔離して、親族としての責任能力を剥奪する法的手続きを始めなければならなくなるわ。……邪魔しないで。今、殿下と私は『愛』よりも重い、『数字』の話をしているの」
テオドールは絶句した。
愛だの恋だのという次元の話ではない。目の前の二人は、結婚すらも「ビジネスのリスクヘッジ」として語っている。あまりにドライで、あまりに即物的な「経営統合宣言」。
だが、その冷たい会話の裏で、リュートとアイリスは一瞬だけ視線を交わし、高度な意思疎通を行っていた。
『……助かるよ、アイリス。君の弟のおかげで、周囲への「アリバイ作り」ができた』
『ええ。今、本当に愛し合う婚約者などと噂されれば、王妃派や第一王子派から警戒され、事業ごと潰されますわ』
二人の真意は一つ。「冷徹な実利の結びつき」と周囲に思わせておく方が、政治的に安全なのだ。
金のために手を組んだだけのドライな関係ならば、敵は「愛」という不確定要素を警戒せず、単なる商売敵として過小評価してくれる。これは、二人が生き残るための高度な「擬態」だった。
だが、そんな深謀遠慮を知る由もないテオドールは、木剣を取り落とし、膝から崩れ落ちた。
「じ、人的担保……? 隔離……? な、何の話をしてるんだ……」
テオドールはわなわなと震え、そして叫んだ。
「愛はないのかよぉぉぉぉッ!!」
泣きながら走り去る弟の背中を、リュートとアイリスは無表情で見送った。廊下に再び静寂が戻る。
「……行こうか、パートナー」
「ええ。子供の相手をしている時間はありませんわ」
二人はカツカツと靴音を鳴らし、再び歩き出した。その背中は、あまりにもお似合いの「共犯者」だった。