リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
5 最終交渉:有限責任と法解釈
試運転を終え、小型艇が静かに桟橋へと戻ってきた。動力が停止し、周囲に再び静寂が戻る。
「……見事なものだ」
オルディナ公爵が、ゆっくりと拍手をした。
その表情から、先ほどまでの狼狽は消え失せている。そこにあるのは、東の領地を束ねる大貴族としての、冷徹で重厚な眼差しだった。
「物理の理屈は分かりました。波を無効化し、海竜を振り切る速度……確かに、これなら海を渡れるでしょう」
公爵はリュートの目の前まで歩み寄り、低い声で問いかけた。
「だが、殿下。……これは『船』なのですか?」
「……?」
リュートが眉をひそめる。公爵は懐から葉巻を取り出し、火を点けずに指で弄びながら続けた。
「我が国の『船舶法』および『海運規制法』をご存知か? 新型船の就航には、海運局による厳格な査定と、数年に及ぶ耐航性試験が義務付けられている。さらに、王家の海を使う以上、船籍登録には国王陛下の直筆の許可証が必要だ。……陛下の『特権状』があったとしても、役人が『規則ですから』と検査を盾に時間を稼げば、許可が下りる頃には我々は老いぼれているでしょう」
公爵の目が鋭く光った。
「技術が優れていても、法がそれを殺す。それがこの国の官僚機構だ。……殿下、貴方はこの『船』を、どうやって法の網から逃がすおつもりか?」
それは、臆病だからこその鋭い指摘だった。彼は知っているのだ。王宮の役人たちが、新しい技術を潰すためにどれほど陰湿な手を使うかを。物理的な壁よりも、書類の壁の方が分厚いことを。
リュートは、公爵のその目を真っ直ぐに見返した。
『……ああ、いい目だ。この人は、ただ怯えているだけじゃない。敵の「攻め手」を熟知している』
リュートはニヤリと笑い、懐からあの『特権状』を取り出し、公爵の目の前でパンッ! と叩いた。
「ご懸念は尤もです、公爵。まともに『船』として申請すれば、十年は足止めを食らうでしょう。……ですが、公爵。よくご覧ください」
リュートは背後の小型艇を親指で指し示した。
「先ほどの航行中、船体は水に触れていましたか?」
「……いや。空中にあったな」
「ならば、法的にこれは『船』ではありません」
リュートは平然と言い放った。
まるで今日の天気の話でもするかのように、国の法解釈を捻じ曲げる。
「これは、『水面ギリギリを飛行する、王家の紋章付き馬車』です」
「……は?」
公爵が葉巻を取り落としそうになる。
後ろで聞いていたテオドールや家臣たちが「な、何を言っているんだ?」とざわめく。
リュートは畳み掛けた。
「公爵。王国の法典に、『空飛ぶ馬車』を規制する法律はありますか? ないはずだ。前例がないのですから」
リュートは特権状に押された王家の紋章を指差した。
「そして何より、これは『王家の紋章』を掲げた乗り物です。王家の馬車に、海運局の車検が必要ですか? 役人が王の馬車の車輪を検査し、難癖をつけることができますか? ……いいえ。必要なのは機能の証明ではなく、『王家の品位(紋章)』だけです」
屁理屈だ。
子供の言い訳レベルの暴論だ。「船じゃない、飛んでるから馬車だ」。そんな理屈が通るはずがない。
だが――この「品位」と「前例主義」に支配された王国においては、その屁理屈こそが最強の剣になる。
「王家の馬車を検査する」という行為自体が「不敬」にあたるからだ。
公爵はしばらくの間、呆気に取られたようにリュートを見つめていた。やがて、その肩が震え始めた。
「……く、くくっ……!」
公爵は天を仰ぎ、声を上げて笑った。
「はーっはっはっは!! 傑作だ! 空飛ぶ馬車だと!? 法を破るのではなく、法の及ばない『空』へ逃げるとは!」
彼は涙を拭い、リュートの肩をバシッと叩いた。その手には、対等な男への敬意と、久しぶりに燃え上がる野心が宿っていた。
「……あきれた。貴方はとんでもない『悪童』だ。よろしい。その図太さこそ、私が求めていた『王家への対抗策』だ」
公爵はリュートに右手を差し出した。
それは臣下としての礼ではなく、共犯者としての握手だった。
「乗りましょう、殿下。その『馬車』に。……オルディナ家の全霊を賭けて、貴方のスポンサーを務めさせていただきます」
「感謝します、公爵」
ガッチリと握手が交わされる。
臆病な老政治家が、生涯で一度きりの大博打に乗った瞬間だった。
その横顔は、かつて海を恐れた敗北者ではなく、新しい時代の風を感じる「冒険商人」の顔に戻っていた。