リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
1 東屋の茶会:無知という罪と、王女の慈悲
王宮内の庭園は、午後の柔らかな陽光が蔦の絡まる白い柱を照らし、人目の少ない東屋に淡い影を落としていた。
風が軽く吹き抜け、甘い花の香りを運んでくる。だが、その甘さの下には王宮特有の冷たい緊張が常に張りつめている。
銀のティーセットが静かに湯気を立てる中、二人の少女が向かい合って座っていた。
明日から本格的に始まる、地獄の王妃教育。その前日――リーゼロッテ・ソレイユ・ローゼンタリアは、自ら招いたこのささやかな茶会を、完璧な王女の微笑みで取り仕切っていた。
「ヴィオラリア様。本日はお時間をいただき、誠にありがとうございます」
プラチナブロンドの髪を丁寧に結い上げ、金色の瞳に穏やかな光を宿した六歳の王女は、淡い水色のドレスを着て背筋を伸ばしていた。声は幼いが、すでに離宮で母や兄から学んだ「理知」が、その所作の端々に滲んでいる。
対するヴィオラリア・オルネ・クロムハルトは、わずかに肩の力を抜き、薬品の匂いが染み付いた金髪を耳にかけた。技術者としての疲労がまだ瞳の奥に残っていたが、この息苦しい王宮の重圧の中で、初めて出会った「普通に話せそうな年下の少女」に、彼女は心底ホッとしていた。
「堅苦しいのは苦手なので、ヴィオラで結構ですわ」
ヴィオラが少しだけ肩の力を抜いてそう返すと、リーゼロッテは柔らかく微笑んだ。
「ふふ、分かりました。では、ヴィオラ様。……私のことも、リーゼと呼んでいただけますか?」
「え? あ、はい。よろしくね、リーゼ様」
ヴィオラは一瞬目を丸くした後、人の良さそうな笑みを浮かべて頷いた。場がわずかに和らぐ。
『よかった……王宮にも、こんな普通に話せる可愛い子がいるんだ。これなら少し、息がつけそうだわ』と、ヴィオラは胸の奥で小さく安堵した。
紅茶を一口飲んだ後、リーゼロッテは自然に話題を移した。声は優しく、しかし探るような響きを帯びている。
「ヴィオラ様……王宮での生活に、不安はありませんか?」
その一言で、ヴィオラの「貴族令嬢の仮面」がわずかに緩んだ。
彼女は元々、裏表のない技術屋だ。気を許した相手(しかも無害そうな年下の少女)には、つい本音が漏れ出てしまう。彼女はカップを置き、肩をすくめて、悪戯っぽく小さく笑った。
「実はね……作法なんてすぐにボロが出るから、適当に落第して実家に帰るつもりなんです」
「落第、ですか?」
「ええ。その間の予算、つまり『研究費』さえ王家から引っ張れればいいので。父上も同じ考えですわ」
ヴィオラの言葉は、羽のように軽かった。
彼女にとって、王妃教育など「非効率な摩擦力」の塊に過ぎない。破談前提の資金調達(トンズラ計画)は、親子で合意した「最も合理的なルート」だった。数ヶ月我慢して赤点を取り、クビになれば、潤沢な予算を手土産に愛する工房へ帰れる――そう、無邪気に信じ切っていた。
「…………」
その瞬間。
リーゼロッテの金色の瞳から、子供らしい無邪気さが、スッと音を立てずに消え去った。
冷徹な理知。過酷な後宮を生き抜き、一度は没落の淵を覗き込んだ者だけが持つ、絶対零度の静けさ。
十歳の少女は、母ルナリアと兄リュートから授かった「実力」を、ここで初めて他者(ヴィオラ)に向けた。声は穏やかだが、一切の甘さを排した、宣告者のそれだった。
「……ヴィオラ様。貴女は、何も分かっていませんね」
「え……?」
ヴィオラは、目の前の幼い少女から発せられた唐突な圧力に、思わず瞬きをした。
リーゼロッテは紅茶のカップをソーサーに置き、背筋をピンと伸ばしたまま、事実だけを淡々と並べ始めた。感情を交えず、しかし容赦なく現実を突きつける。
「もし貴女が意図的に落第し、第一王子殿下の顔に泥を塗れば……王家は、西の公爵家を即座には潰しません。技術という『実利』が惜しいからです。ですが……『王族への不敬』そして『契約不履行』として、クロムハルト家に莫大な違約金を課します」
ヴィオラの表情が、ピシリと凍りついた。
「……違約、金?」という掠れた声が、喉から漏れる。
リーゼロッテは静かに続ける。
「ええ。そして、その返済が終わるまでの間……クロムハルト家は、王家が指定する『利益率の高い、凡庸で退屈な魔導具』を、ただ永遠に作り続けるだけの下請け工場に成り下がるのです」
「なっ……!?」
「お父様も、貴女も、新しい研究をする時間も資金も与えられず。王家の借金を返すためだけに、朝から晩まで、興味もない大量生産品のノルマをこなすだけの日々……。貴女が何よりも愛する『自由な研究』は、その瞬間に永遠に失われるのですよ」
東屋の風が、ピタリと止まった。
ヴィオラの顔から、さぁーっと血の気が引いていく。金色の瞳が虚ろに揺れ、指先がテーブルの縁を白くなるほど強く握りしめた。
彼女の脳内で、完璧だと思っていた「赤点トンズラ計画」の計算式が、ガラガラと音を立てて崩壊していく。
落第は「トンズラ」の手段ではない。王家が用意した「永遠の枷(借金)」であり、技術者を一生飼い殺しにするための「罠」だったのだ。技術の聖域である愛する工房が、血統と品位という名目の下に、ただの部品製造工場に貶められる――。
その生々しい絶望が、初めてヴィオラの胸を深く、残酷に抉った。
『……私は、なんてバカなことを……!』
王宮の庭園は、恐ろしいほど静かだった。
花の香りが漂う中、ひとりの天才技術者は、己が足を踏み入れたのが、ただの面倒な学校ではなく、失敗すれば家族もろとも奴隷にされる『出口のないデスゲーム』であることを、ようやく悟ったのだ。
リーゼロッテは静かに紅茶を傾け、目の前で絶望に染まる少女を、ただ見守っていた。
そこに、安い同情や慰めはない。ただ、残酷な現実を「情報(実力)」として提示し、彼女の目を覚まさせた王女の、冷徹な慈悲だけがそこにあった。