リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 冷徹なる盤面:王妃の家内統制
王宮の深部にある王妃マルガレーテの執務室は、豪奢でありながら、息の詰まるような冷気で満たされていた。壁一面に広がる精緻な王国地図、一切の塵も許されない磨き上げられた黒檀の机。
そこには、王宮という巨大な機構を動かすための「機能」だけが存在し、人間の温もりを感じさせるものは何一つない。
週に一度の直接指導。上座の執務椅子に腰を下ろすマルガレーテは、冷ややかな氷青の瞳で、背筋を伸ばして立つヴィオラを見据えていた。
「王妃たる者、個人の情などという不純物は一切不要です」
マルガレーテの静かな声が、冷たい石室に響く。その言葉には、一切の感情が乗っていない。ただ、冷徹な事実だけが紡がれていく。
「王家の『安定』、そして血統が保証する『品位』。それこそが絶対の価値であり、我が国の屋台骨です。それを乱す要素は、いかなる理由があろうとも、誰であろうとも容赦なく切り捨てる。……それが、王宮における『家内統制』の基本思想です。理解できましたね、ヴィオラ」
「……はい、王妃様」
ヴィオラは小さく頷きながらも、膝の震えを必死に抑えていた。目の前の女傑が放つプレッシャーは、これまでに彼女が知るいかなる権力者とも次元が違う。物理的な暴力ではなく、冷徹なシステムそのものが服を着て座っているかのような威圧感だった。
マルガレーテは机の上で両手を組み、ゆっくりと目を細めた。
「では、実践として現在の後宮という盤面を俯瞰しなさい。次期王となるグラクト殿下は絶対の核。しかし、その周囲を固める側妃たちは、私にとっては盤面の『駒』に過ぎません」
王妃は、机の上に置かれたチェスの駒を指先で軽く弾いた。
「現在、第一側妃ヒルデガードが、自らの生家である武門の甥をグラクト殿下の側近に据え、突出しました。結果として、魔導派を束ねる第三側妃ソフィアが反発し、後宮の力学に不均衡が生じている。これは、王家の安定を著しく損なう『欠陥』です」
ヴィオラは息を呑んだ。実の夫の側室たちを、完全に質量を持った重りか何かのように計算している。
「ゆえに、完全な中立である西のクロムハルト家――つまり貴女を、グラクト殿下の隣にあてがうのです。武にも魔導にも偏らない貴女の存在によって、両派閥の均衡を強制的に固定する。貴女は、この後宮という機構の『緩衝材』として機能しなさい。王家を安定させるための、極めて有用な歯車として」
その宣告を聞いた瞬間、ヴィオラの脳内で強烈な拒絶反応が警報を鳴らした。
『人間を完全にパーツ扱いしてる……! 私は、血みどろの派閥争いの摩擦熱で焼き切れないための、ただの潤滑油ってこと!? 私の意思とか、研究したいって欲求とか、そんな個人の仕様は全部無視して、ただそこにはめ込むだけ……!』
それは、技術者としてのヴィオラが最も嫌悪する「非人道的な設計」だった。だが、反論などできるはずもない。相手は、この設計図を引いた絶対的な支配者なのだ。
重圧に耐えかね、思考が飽和しかけたヴィオラは、ふと、この盤面に欠けている一つの強大な存在に思い至った。純粋な知的好奇心、あるいはシステム全体の構造を把握したいという技術者としての性が、恐怖を僅かに上回った。
「あの……恐れ入ります、王妃様。一つ、よろしいでしょうか」
「何かしら」
「その……今の後宮の力学において、第二側妃様は、どのような役割を担っておられるのでしょうか……?」
西の領地にまで轟いていた「帝国の至宝」の噂。そして、自身の窮地を救ってくれたという恩義ある女性。彼女がこの冷徹な盤面で、どこに配置されているのか。
その問いを口にした瞬間、執務室の空気が完全に凍結した。
マルガレーテの氷青の瞳から、僅かな人間味すらも完全に消失した。絶対零度の視線が、ヴィオラを射抜く。
「……第二側妃ルナリア様は、『帝国の至宝』です」
声のトーンは変わらない。だが、そこに含まれる拒絶の圧力は、先程までの比ではなかった。
「大国ファブリスとの友好の証として、我々も最大限の敬意を払い、離宮という特別な場所を用意しています。……ですが、彼女はあくまで『外国人(よそもの)』です」
マルガレーテは、机の上のチェス盤から、一つだけ色の違う駒を無造作に取り上げ、盤外へと弾き出した。
「王国の血統を持たず、我々の品位の法則に属さない異物。ゆえに、彼女が我が国の政治の中枢……この盤面に関わることは、一切許されません。あれは、ただ飾っておくための美しい美術品に過ぎない」
王妃は静かに立ち上がり、ヴィオラを見下ろした。
「貴女は、誇り高きローゼンタリアの公爵令嬢です。自身の役割と、立つべき盤面を間違えないこと。……あの離宮の者たちには、決して深く関わってはなりません。それは、貴女の『機能』を損なう致命的なエラーになりますよ」
「……っ! は、はい……肝に銘じます……!」
ヴィオラは血の気を失い、深く頭を下げた。震える声でそう絞り出すのが精一杯だった。
『うわ、特大の地雷を踏んだ……! VIP待遇なんて建前で、権限からは完全に隔離されてるんだ……。この人たち、自分の理解できない規格外の存在を、システムごと物理的に切り離してる……!』
圧倒的な政治的統制と、異物を徹底して排除する王国の閉鎖性。ヴィオラは、自分が放り込まれたこの「王宮」という名の迷宮が、どれほど狂気的で、冷酷な法則で動いているのかを、骨の髄まで理解させられていた。背筋を這う悪寒が、いつまでも止まらなかった。