リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 非効率の極み:品位の牢獄
王宮の教育室は、先ほどの執務室とは全く別の意味で、ヴィオラから呼吸の自由を奪う空間だった。
床に敷き詰められた豪奢な絨毯、壁を彩る重厚なタペストリー。しかし、ヴィオラにとってここは拷問室に等しかった。彼女は今、ただ目の前のテーブルに置かれたティーカップを手に取る、という行為を数十回にわたって繰り返させられている。
本来ならば一秒にも満たないその動作に、優に五秒の時間をかけることを強要されていた。
「やり直しです、ヴィオラリア様。指先の角度、そして腕を伸ばす速度が『実用的』に過ぎます」
分厚い教本を手にした初老の教育係が、氷のように冷たい声でピシャリと撥ね付けた。彼女は王家代々の礼儀作法を叩き込んできた、いわば「品位の番人」である。教育係は自ら手本を示すべく、テーブルの前に立った。
「よろしいですか。品位とはすなわち、他者に対して圧倒的な『余裕』を見せつける物理的証明なのです」
教育係は、カップへ向かって直角に手を伸ばさない。まず手首を優雅に反らせ、空気を撫でるようにゆっくりと腕を浮かせ、不自然なまでに緩やかな曲線を描きながら、ようやく持ち手へと指を添えた。流れるような、しかし著しく遠回りで非効率な動作だった。
「領民や下賎な者たちは、今日を生きるために『効率』を求め、無駄を省きます。しかし、王家の傍らに立つ者は違います。あえて三つの無駄な所作を挟む。効率などという貧相な概念を完全に無視できるほどに『時間的、そして物理的な消費』こそが、相対する者に圧倒的な格の違いを錯覚させ、畏怖を植え付ける最大の武器となるのです。息をするように優雅にこなす。それが権力者の作法です」
その滑らかな説明を聞きながら、ヴィオラの脳内では技術者としての理性が悲鳴を上げていた。
『相手を威圧するために、わざと稼働工程を増やして遅延を作れってこと!?』
ヴィオラは引き攣りそうになる頰の筋肉を必死に抑え込んだ。彼女の思考回路は、目の前の光景を致命的なバグとして処理している。
『つまり、「私は優雅に見せられるだけ暇だから無駄な動きができるのよ」とマウントを取るためだけに、最短距離の運動エネルギーを意図的に放棄してる。設計思想としてあり得ない! 目的達成のための最適解をわざと外すなんて、最低最悪な欠陥設計じゃない!』
「さあ、もう一度。今度は呼吸を止めず、しかし関節の動きを見せないように」
「……はい、先生」
ヴィオラは再び右手を浮かせた。頭の中の計算式が「無駄だ」と叫んでいるのに、肉体には不合理な軌道を描くことを強制しなければならない。
『伝導効率が……合理性が死んでいくぅぅ……!』
無駄な動きを美しく見せるためには、本来使わなくてもいい筋肉を極度に緊張させ続ける必要がある。物理的な疲労以上に、自身の根幹を成す「機能美」と「効率」への信仰を、自らの手で全否定させられる反復練習。それはヴィオラの精神をゴリゴリと削り取っていく、終わりの見えない苦行だった。
「違います。まだ『目的』に向かって急いでいるように見えます。貴女の時間は優雅さの前に無限であると、その身で体現しなさい」
無慈悲な指摘が再び飛ぶ。
血統と品位による人治国家――そのシステムは、法律や制度だけでなく、個人の肉体の動かし方に至るまで、非論理的な呪縛として張り巡らされている。ヴィオラは、この狂った箱庭の中で、自らの知性が徐々に窒息していくのを感じていた。