リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
5 限界突破と、聖域への誘い
王宮の豪奢な控え室。その部屋の中心に置かれたベルベットの長椅子に、ヴィオラは糸の切れた人形のようにぐったりと倒れ込んでいた。
一日の教育課程と、精神を削り取る「地獄の茶会」を終えた彼女の顔には、はっきりと濃い隈が落ちている。かつて知性の光を煌めかせていた瞳は虚ろに濁り、焦点の合わない視線が天井の精緻なフレスコ画をただ彷徨っていた。
「……もう、駄目……」
ひび割れた声が、静寂の部屋に落ちる。
「公式が……頭に浮かばない。王妃様の重圧、非効率の極みみたいな作法の反復、意味不明な空間でのデート……。脳のメモリが、完全にパンクしてる……」
前世の知識を持ち、技術と論理の美しさを何より愛する彼女の精神基盤が、王宮という巨大な「非合理の暴力」によって根本からへし折られようとしていた。ここでは、効率を求めること自体が罪であり、無駄を演じることが権力なのだ。
「工具の冷たい感触も、忘れそう……。私が、私じゃなくなっていく……」
物理的な疲労ではない。自己のアイデンティティが、システムの歯車として強制的に書き換えられていく恐怖と絶望。ヴィオラは自身の知性が音を立てて摩耗し、崩壊していくのを感じていた。
その時、控え室の重厚な扉が音もなく開いた。
足音すら立てずに室内に入ってきたのは、第一王女リーゼロッテだった。
彼女は、生気を失い自己崩壊の縁に沈む公爵令嬢の姿を、静かな金眼で真っ直ぐに見つめた。
『……このままでは、王宮の狂った重圧が、彼女の持つ美しい知性を完全に押し潰してしまう』
リーゼの胸の奥が、鋭く痛んだ。
それはかつて、彼女自身が実母ヒルデガードから「不完全な駒」として扱われ、心を殺されかけた記憶と重なっていた。知性や個性が蹂躙され、ただの「機能」として消費されることの絶望。それを救ってくれたのは、あの書庫でのリュートの言葉であり、ルナリアの無償の肯定だった。
『彼女の心が、完全に壊死してしまう前に――』
リーゼは、王女としての完璧な気品と、母ルナリアから受け継いだ深い慈愛をその身に纏い、ヴィオラの傍らへ歩み寄った。
そして、氷のように冷え切って微かに震えているヴィオラの両手を、自らの小さな、しかし温かな両手でそっと包み込んだ。
「……っ、リーゼ様……?」
虚ろだったヴィオラの瞳が、ゆっくりとリーゼを捉える。
リーゼは、春の陽だまりのような、それでいて確固たる意志を持った微笑みを浮かべた。
「ヴィオラ様。……今日はお家へお帰りになる前に、少しだけ私の『秘密の場所』に寄りませんか?」
その声は穏やかで、しかし王宮の息の詰まる冷気を確実に押し返す力を持っていた。
「そこなら、ゆっくりと深呼吸ができますわ。誰にも、貴女の思考を邪魔させない場所です」
ヴィオラにはもう、現状を分析する余裕も、反発する気力すら残っていなかった。ただ、その手から伝わる確かな『人間の温もり』にすがりつくように、ふらふらと小さく頷いた。
立ち上がった彼女を、リーゼは優しく、しかし絶対に離さないという強さで引いていく。
向かう先は、王宮の狂った常識も、非効率なシステムも一切通用しない、この王国における唯一の絶対的不可侵領域。
冷徹な観察者たる兄リュートと、慈愛にして盤面の支配者たる母ルナリアが待つ『離宮』への、初めての招待であった。