リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 聖母のセラピー:開発ロードマップの作成
離宮のサロンは、王宮特有の凍てつくような緊張感とは無縁だった。
暖炉の中で薪が静かに爆ぜ、部屋全体を柔らかな橙色に染め上げている。その温かな空間の中心で、ヴィオラの前に繊細な銀のティーセットが置かれた。
「温かいハーブティーよ。王宮の冷気で、すっかり芯まで冷えてしまったでしょう」
静かで、深く透き通るような声だった。
カップを差し出したのは、白百合のように気高く、それでいて底知れぬ慈愛を湛えた女性――第二側妃、ルナリア・ネイア・ローゼンタリアだった。
王妃マルガレーテが「異物」としてシステムから物理的に隔離した『帝国の至宝』。しかし、ヴィオラの目に映る彼女は、王宮のどの権力者よりも血の通った、真の意味での「人間」の温度を持っていた。
カップから立ち上るカモミールと微かな蜂蜜の香りが、ヴィオラの鼻腔をくすぐる。
両手でカップを包み込んだ瞬間、陶器越しに伝わるその温もりが、ヴィオラの中で限界まで張り詰めていた一本の糸を、あっけなく焼き切った。
「……っ、あ……」
気付けば、大粒の涙がヴィオラの瞳から溢れ落ち、絨毯に黒い染みを作っていた。
声を上げて泣くことすら、王宮では「品位に欠ける」と糾弾される。しかし、ここでは誰も彼女を咎めない。リュートは静かに見守り、リーゼは痛ましそうに目を伏せ、ルナリアはただ穏やかに微笑んでいた。
「私……もう、どうしていいか……分かりません……」
せき止めていた堤防が決壊したように、ヴィオラの口から痛みが溢れ出した。
「王妃様には、摩擦を防ぐためだけの『緩衝材』になれと言われました……。作法の時間では、相手を威圧するためだけに、わざと無駄な動きをしろと強制されて……。グラクト殿下のお茶会では、私は完全にシステムの外に置かれて……ただ座っているだけの観葉植物でした……」
嗚咽が漏れる。それは、公爵令嬢としての重圧に対する涙ではない。前世から持ち越した「技術者としての魂」が、非合理と非効率の暴力によって圧殺されかけていることへの、本能的な恐怖と絶望だった。
「計算式が……図面が、頭に浮かばないんです。このままあの場所にいたら、私は私の大好きな『機能美』も『効率』も忘れて、ただ誰かのための都合の良い歯車に……不良品のパーツになってしまう……っ!」
両手で顔を覆い、子供のように泣きじゃくるヴィオラ。
ルナリアは静かに歩み寄り、その震える小さな背中を優しく抱き寄せ、プラチナブロンドの髪をそっと撫でた。
「ええ、怖い思いをしたわね。貴女の知性と理性が、あの狂った法則の中で悲鳴を上げているのよ。……よく耐えたわ、ヴィオラ」
その母性的な温もりに、ヴィオラはしばらくの間、ただ身を委ねて涙を流し続けた。
やがて嗚咽が収まり、呼吸が落ち着き始めたのを見計らうと、ルナリアはヴィオラの肩から手を離し、今度は真っ直ぐに彼女の目を見つめた。
その赤い瞳には、優しい母の光だけでなく、帝国の公爵令嬢としての冷徹な理知が宿っていた。
「ヴィオラ。現状の理不尽さに心がパニックになった時はね、足元を見るのではなく、視線を遠くに置きなさい」
「……遠く、ですか?」
「そう。貴女が本当に手に入れたい『最終的な目標』を明確にし、そこから現在に向かって、順番に遡って道筋を考えるのよ。目の前の障害を一つずつどうにかしようとするから、迷子になるの」
その言葉が、ヴィオラの脳内に雷のように落ちた。
涙で潤んでいた瞳の奥で、停止していた知性の歯車が、カチリと音を立てて再び噛み合った。
『……目標からの逆算。現在地から積み上げるんじゃなくて、完成形の仕様書から必要な工程を割り出していく……。魔導具の開発手順と、全く同じだ……!』
政治も、人間関係も、ただの複雑な物理法則とシステムの構築に過ぎない。
ルナリアの提示した「論理の再起動」によって、ヴィオラの瞳に、技術者としての強烈な理性の光が戻り始めていた。