リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 ヒルデガードの暗い歓喜と「標的」の選定
そもそも、ヒルデガードがなぜこの深夜に、禁忌の扉を開いてまで黒書庫を訪れたのか。
その発端は、わずか数時間前の出来事だった。グラクトに仕える専属侍女が、第一側妃の私室へ青ざめた顔で駆け込み、息を殺して極秘の報告をもたらしたのだ。
『第一王子殿下が……初めて、大人の階段を登られました』
『……あの報告を受けた瞬間、私の直感は正しかった。王子の身体的な成熟は、単なる成長の証ではない。この王宮という盤面において、新たな政争を引き起こす最大の引き金になるのだと』
ヒルデガードは黄金の燭台の炎を揺らしながら、再び巻物の文面に翠の瞳を滑らせた。
『グラクトが「男」になった以上、この情交奉仕者制度は即座に発動されなければならない。王家の血統と品位を守るという大義名分のもと、最も確実に機能する防波堤として』
彼女の視線が、奉仕者の選定条件を規定した一文をゆっくりと、獲物を舐め回すようになぞる。
「王妃に子がいない場合、血の繋がらない側妃が序列順に選ばれる」
『現在の後宮の力学に当てはめれば、解は明白。正妃であるマルガレーテには子がない。そして、第一王子グラクトの生母は他ならぬ私、ヒルデガード。王の種を宿すべき私が、実の息子の相手を務めることは血統のルールが許さない』
ヒルデガードの頭脳は、冷徹な論理のパズルを一つずつ嵌め込んでいく。
『つまり、私は自動的にこの役目から除外される。では、残された「血の繋がらない側妃」の中で、最も序列が高いのは誰か。第三側妃のソフィアか? いいえ、彼女よりも上位に座る目障りな異物が一人いるではないか』
ヒルデガードの艶やかな唇が、暗闇の中でゆっくりと、残酷な三日月の形に歪んだ。
『第二側妃、ルナリア・ネイア・ローゼンタリア。……そう、王家の絶対的なルールが、あの女を最高の「生贄」として指名しているのよ』
大国ファブリス帝国の公爵令嬢という圧倒的な出自を持ち、実力主義の矜持を胸に、決してローゼンタリアの「品位」という名の虚飾に屈しない誇り高き女。
ヒルデガードの胸の奥で、長年溜め込んでいた嫉妬と憎悪が、暗い歓喜となって爆発した。
『グラクト……私の愛しい光。貴方には、私が「最高の教師」をあてがってあげますわ。あの尊大な帝国の女が、貴方の夜の欲求を満たすためだけの処理道具として這いつくばるのよ。どれほど実力があろうと、王国のルールには逆らえない』
彼女は、この策がもたらす連鎖的な破壊効果を冷酷に弾き出す。
『これは単なる屈辱ではない。避妊処置という名目で、あの女の心には修復不能なダメージが合法的に刻み込まれる。帝国の誇りも完全に蹂躙される。そして、母親が兄の慰み者に成り下がる姿を見せつけられれば、あの生意気で不気味な黒髪赤眼の影(リュート)も、精神を病んで王宮の最底辺へと失墜するはず……!』
誰の手も下さず、毒も刃も使わない。ただ王国の歴史あるシステムを厳格に順守するだけで、最大の政敵を社会的・肉体的・精神的に完全抹殺できる。
それは、武門のゼノビア侯爵家に連なるヒルデガードにとって、これ以上ないほど緻密で、論理的に研ぎ澄まされた完璧な謀略の完成であった。
ヒルデガードは暗い愉悦を胸の奥底に沈めながら、分厚い巻物を丁寧に巻き直した。
『盤面の確認は終わった。論理的な破綻も、あの女が逃げ込める例外規定も一切存在しない。王家が数百年かけて構築した「純血を守るための防衛システム」そのものが、今や私の握る最も鋭利な刃となったわ』
王家の狂気を記した歴史の闇を元の禁忌の棚へと戻し、隠し鍵で厳重な錠を冷たい金属音とともに掛け直す。
『この絶対的なルールは、罠が作動するその瞬間まで再び深い闇底に沈めておかねばならない。この策の真の美しさは、最高権力者である王妃の口から、誰も逆らえない「名誉の授与」として突然に執行される点にあるのだから』
「これは王国が定める最高の『名誉』……。実力主義を誇る帝国の女が、王家の品位という名の愛の鞭にどう鳴き声を上げるか……見ものですわね」
『肉体的な尊厳を徹底的に破壊しながら、それを「至高の誉れ」として押し付ける。この醜悪な矛盾を前に、彼女の誇り高き理性がどう崩壊していくのか。想像するだけで胸がすく思いだわ』
独りごちたその呟きは、甘美な猛毒となって黒書庫の淀んだ空気に溶け込んでいった。
彼女が黒書庫を出ると、重厚な鉄の扉が音もなく閉ざされ、王宮の最深部は再び底知れぬ沈黙へと沈んだ。
自室へと続く白薔薇の間を通り抜ける際、ヒルデガードは手にしていた黄金の燭台の炎を、細い吐息でフッと吹き消した。途端に、豪奢な空間は完全な暗闇に包み込まれる。
『明日の午後、王家の中枢のみを集めた「選定会議」を開かせよう。王妃マルガレーテは極めて合理的で、王家の血統と安定を何よりも優先する冷徹な女。私がこの歴史的特例を「グラクトの純血と未来を守るための正当な儀式」として提示すれば、彼女は一切の躊躇なく、システムに従ってルナリアを生贄に選ぶはずよ』
盤面を決定づける巨大な歯車は、すでに彼女の手によって回された。
ルナリアを合法的に抹殺し、自らの陣営の権力を盤石にするという残酷で完璧なシナリオ。それを完遂する決意を固めた第一側妃のヒールの足音だけが、冷たい石造りの回廊に、明日へのカウントダウンのようにどこまでも響き渡っていた。