リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
1 白薔薇の間(閉ざされた密室)
午後三時。
王宮の奥深くに位置するサロン『白薔薇の間』は、むせ返るような甘い花の香りに支配されていた。
黄金の燭台が淡い光を落とし、極彩色のタペストリーが壁を飾る豪奢な空間。だが、そこに漂う空気は、華やかさとは対極にある氷のような冷たさと、息の詰まるような重圧に満ちていた。
上座の豪奢な椅子に座しているのは、後宮における絶対の支配者たる王妃マルガレーテである。彼女は氷青の瞳に一切の感情を浮かべることなく、ただ機械的な優雅さで磁器のティーカップを傾けていた。
その右手に控えるのは、第一側妃ヒルデガード。扇の奥で優雅な微笑みを保っているが、その内側には昨晩黒書庫で組み上げた、致死量の猛毒を含んだシナリオが渦巻いている。
対する左手には、第三側妃ソフィア。彼女は扇子で口元を隠し、己に火の粉が降りかからぬよう、この場の政治的力学を慎重に推き量るように沈黙を守っていた。
部屋の中央に置かれたベルベットの長椅子には、この狂気めいた儀式の「主役」である第一王子グラクトと、その婚約者たる西の公爵令嬢ヴィオラが並んで腰を下ろしている。
グラクトの顔には、緊張ではなく、自らの特権を疑わない無邪気なまでの自負が浮かんでいた。一方のヴィオラは、一切の隙を見せない完璧な令嬢の微笑みを顔に貼り付け、彫像のように静座している。
しかし、この息の詰まるような密室には、決定的に欠けているものが一つあった。
それは、これからその身の尊厳と未来の一切を論じられようとしている「真の当事者」――第二側妃ルナリアの姿である。
本人の不在という圧倒的な密室の中で、一人の人間の運命が、ただ血統と品位のヒエラルキーのみによって一方的に裁断されようとしている。
これこそが、権力者の論理のみで弱者を消費する、ローゼンタリア王家の絶対的な「人治」の姿であった。
茶器の触れ合う乾いた音だけが、処刑を待つ時計の針のように、冷たい空間に響き渡っていた。
静寂を破ったのは、王妃マルガレーテがティーカップをソーサーに置く、硬く冷たい陶器の音だった。
彼女は氷青の瞳を細めることもなく、極めて事務的な声で口を開いた。
「専属侍女より、第一王子グラクトが大人の階段を登られたとの報告を受けました。これより、王家の至高の義務である『情交奉仕者』を選定いたします。古き定め通り、グラクトと血の繋がらない側妃が、この誉れある務めを担うことになります」
『王家の純血を守るための防波堤……人間を道具として扱う倫理に悖る悪習であろうと、次期王の醜聞と血統汚染を防ぐためには欠かせない「必要悪」だ。私が公爵家で学んだ領地経営の合理性とは異なるが、この狂った王宮を統制し、国家の安定を維持するには、情など挟む余地はない』
その宣言を受け、第一側妃ヒルデガードが優雅に微笑み、手にした扇子を軽く閉じた。その声は極上の蜂蜜のように甘い。
「王妃様。後宮の序列から申しますと、第二側妃ルナリア様が第一候補となりますわね。王家の『品位』と『秩序』を重んじる以上、我々がこの神聖なる序列を無視するわけにはまいりません」
『宮廷貴族として生まれ育った我々にとって、これは未来の王の情動を飼い慣らす至高の名誉。だが、実力主義の帝国で育ったあの女には、耐え難い屈辱にしかならないはず。……己のちっぽけな誇りのために、王国の最高の名誉を蹴り飛ばし、王家の顔に泥を塗る大罪人へ堕ちる姿……特等席で見せてもらうわ』
二人の視線を受けた第三側妃ソフィアは、ゆっくりと扇子を開き、品を作って頷いた。
「……左様でございますね。血の繋がらない側妃として、序列上はルナリア様が最優先されるべきかと存じます。王家の伝統に則り、彼女にこの名誉を委ねるのが至極当然の理でしょう」
『ルナリア様がすんなりお受けになるなら、それはそれで構わない。だが、もし異国の価値観でこの絶好機を不満に思い、手放してくれるというのなら……願ってもないこと。厳重に管理された避妊薬を毎日飲む程度の手間で、未来の王の心身を完全に掌握できる。これほど美味しい権力の果実を拒むなど、愚かとしか言いようがありませんわ』
三者三様の計算が交錯する中、マルガレーテはわずかに眉根を寄せ、冷徹な懸念を口にした。
「序列に従うのは王宮の理です。ですが……あの誇り高き帝国の公爵令嬢が、この王国の名誉を素直に受け入れると? 彼女がこの制度の真意を理解し、首を縦に振る確率は二割にも満たないでしょう。無用な反発を招く前に、現実的な次善策を講じるべきでは?」
その合理的な指摘を、ヒルデガードが即座に、しかし極めて優雅に封じ込める。
「だからといって、序列を飛ばすことは王家の『品位』が許しません。第一王子殿下の誉れある儀式に、最初から逃げ腰の特例を設けるなどあってはならないこと。万が一お断りになるのであれば、それはルナリア様ご自身の口から申し出るべきです。まずは、正規の手続きとして彼女の意見を求めるのが筋かと存じますわ」
大人たちの高度な腹芸が行き交う中、当事者である第一王子グラクトは、ヒルデガードの正論に深く頷き、背筋をピンと伸ばしていた。
『何を危惧しておられるのだ、王妃様は。僕という未来の王に身を捧げるのだぞ? 異国の女であろうと、僕の寵愛を受ければ己の価値に気づき、感謝の涙を流して平伏すに決まっているではないか』
その無邪気なまでに傲慢な自負をすぐ隣で感じながら、婚約者であるヴィオラは完璧な令嬢の微笑みを顔に貼り付け、無言で紅茶を啜っていた。
しかし、彼女の頭の中では、前世の知識と公爵令嬢としての理性が完全なパニックを起こし、絶叫していた。
『うわぁ……ドン引き。なにこの狂い切ったシステム。十三歳の子供の性処理に、父親の妻をあてがう? しかも当の中央の宮廷貴族たちは、それを本気で「権力を握るチャンス」だとか「最高の名誉」だって信じ込んでる……! 王妃様は必要悪だと割り切ってるみたいだけど、生まれ育った環境が違うだけで、ここまで常識ってバグるの!? これ、ルナリア様が論理で反発したら、完全にシステムのエラーとして処理されるわよ……!』
黄金の燭台が照らす密室の中で、狂気という名の常識が、絶対の論理として淡々と組み上げられていく。
「……一理ありますね。第一側妃の申す通り、まずは序列を重んじ、第二側妃ルナリアに意見を求めましょう」
マルガレーテが静かに下したその結論により、事態は避けられない衝突へと舵を切った。