リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
2 「両方の常識」
私は離宮の書斎で、一人で座っていた。
窓から差し込む春の光が、机の上を照らす。
母が教えてくれた帝国式の文字の練習帳を広げながら、私は心の中で整理していた。
この世界で生きていくには、この国の「当たり前」を知らなければならない。
社会通念――常識・価値観・当たり前――がすべてを決める。
母とルリカは帝国出身だ。彼女たちの常識は、実力主義、努力の結果で価値が決まること、血統より個人の選択が重要だということ。
対して王国は正反対らしい。母の態度や侍女たちの会話から推測するに、金髪金眼が「天の徴」であり、「光」であることが絶対で、「影」は支える役割で、主役にはなれないようだ。「品位」を守るため、下位の者が上位を非難できない絶対的な階級社会でもある。
でも、それは断片的な情報でしかない。本当のところは、まだわからない。
母は帝国の常識を大切にしている。彼女は「血統で価値が決まるなんて、おかしい」と思っている。だからこそ、私に「あなたが私の光よ」と言い続ける。それは紛れもない愛情だが、同時に「王国の常識を否定」していることにもなる。
私はそれが嬉しい一方で、強い危機感も覚えていた。
――王国の常識を正確に知らなければ、この国で生きていくのが難しくなる。
この離宮は平穏だが、王宮の序列は変わらない。いつか、宮廷に呼ばれる日が来るかもしれない。王家で何らかの役職を得たり、代官として郊外に赴任することになるかもしれない。
そのとき、王国の「当たり前」を知らなければ、対応できない。母やルリカに迷惑をかけるかもしれない。
母とルリカと、この離宮で、ずっと笑っていられるように……今のうちに知っておきたい。
私は母に、初めて「お願い」をした。
夕食後、母が私を抱きしめているときだった。
私は母の胸に顔を埋めながら、静かに言った。
「お母様……お願いがあるんです」
母は驚いて私を見下ろした。私が「おねがい」という言葉を使うのは、これが初めてだった。
「リュート……どうしたの? 何でも言ってごらんなさい」
私は母の目を見た。六歳の瞳は、冷静で、少しだけ不安げだった。
「王宮の書庫を使いたいんです。王国の本を読みたい。法とか、慣習とか……この国の『当たり前』を、ちゃんと知りたい」
母の表情が固まった。彼女は私を抱きしめる腕に力を込めた。
「……どうして? お母様が教えてあげるわ。帝国の知識も、王国の知識も……」
私は首を振った。
「お母様の知識は、帝国のものが多い。この国は違う。一方だけを知っていると、柔軟性を失う結果になる。帝国の考え方も、王国の考え方も、両方を知らないと……この国で生きていくのが難しくなる」
母の瞳が揺れた。彼女は私の頰に手を当て、静かに聞いた。
「生きていく……? どういうこと?」
私は母の胸に顔を埋めた。小さな声で、しかしはっきりと言った。
「お母様と、ルリカと、この離宮で平穏に過ごすために。いつか宮廷に呼ばれたり、役職を命じられたりする日が来るかもしれない。そのとき、知らないままだと……お母様やルリカに迷惑をかけるかもしれない。お母様とルリカと、この離宮で、ずっと笑っていられるように……この国の『当たり前』を、ちゃんと知っておきたいんです」
母の目から、涙がこぼれた。彼女は私を強く抱きしめ、髪を撫でた。
「……リュート……ありがとう。お母様、わかったわ。王宮の書庫を使えるように、お願いしてみる」
母は少し考えて、私の目を見て言った。
「でも、リュート。約束してほしいの。書庫で知ったこと、思ったことを、必ずお母様に報告してね。そして、一緒に話し合おう。お母様と討論するのよ。それが条件」
私は母の目を見返し、静かに頷いた。
「……約束します。お母様」
母は私の額にキスをし、微笑んだ。その笑みは、優しくて、少し悲しげだったが、すぐに温かくなった。
「もちろん、一緒よね」
母は私の頰を両手で包み、目を合わせて笑った。
「リュートが知りたいなら、お母様も一緒に知りたいわ。三人で、ずっと笑っていられるように……約束よ」
私は母の胸の中で、頷いた。
――知らなければならない。知った上で、この生活を続けていく。
ルリカが部屋の隅から見守り、そっと微笑んだ。
「リュート様……私も、一緒に行きたいです」
私はルリカを見上げ、静かに頷いた。
離宮の夜は、静かに過ぎていった。
私が初めて母にした「お願い」。それは、この国で生きていくための第一歩だった。