リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
3 完璧な辞退と、微笑みに隠された執念
――静寂。
白薔薇の間に落ちたのは、絶対零度の沈黙だった。
ルナリアの放った、純粋な善意に包まれた致死量の劇薬。
『僕が、情動すら制御できない未熟者……? 市井の泥に塗れた平民のガキですらできていることが、神の子である僕にはできないと……!?』
グラクトの顔は屈辱で真っ赤に染まり、わななく唇からは声すら出ない。絶対的な特権を疑わなかった十三歳の少年の自尊心は、異国の女の「常識」というハンマーによって粉々に打ち砕かれていた。
そして、その場にいる誰よりも凄まじい感情の渦に呑み込まれていたのは、第一側妃ヒルデガードであった。
ピキッ、と。彼女が顔を隠す扇子の骨が、常軌を逸した握力によって微かに軋む音を立てた。
『この、辺境の生意気な女が……っ! 私が学び上げた王宮の伝統を小賢しい政治論で躱した挙げ句、私の完璧な作品であるグラクトを泥に塗れさせ、私に「母親の真似事でもしていろ」と説教を垂れたというの!?』
怒りで視界が朱に染まる。だが、彼女は宮廷を生き抜いてきた第一側妃である。扇子を下ろした彼女の顔には、貼り付けたような「完璧な淑女の微笑み」が浮かんでいた。ただ、その翠の瞳の奥には、ドロドロとした歪な執念が煮えたぎっている。
『この屈辱、決して忘れないわ。盤面からすべてを奪い尽くし、あの小賢しい口が二度と利けなくなるまで泥に這いつくばらせてやる。私に泣いて許しを乞うまで、その矜持を徹底的にへし折って服従させてやる……!』
ヒルデガードの中で、ルナリアは「いつか必ずその誇りを完膚なきまでにへし折るべき、絶対の標的」へと定まった。
そんな第一側妃の腹の底で渦巻く執念を余所に、上座のマルガレーテ王妃は、内心で深い安堵の息を吐き出していた。
『……見事な手腕ね。助かったわ』
盤面の管理者たる王妃にとって、ルナリアの回答は「百点満点の模範解答」であった。
保守派の血統主義と帝国との外交問題という、誰にも反論できない完璧な政治的盾を用意し、自ら身を引いてくれたのだ。これで王家は「打診はしたが、本人が国を思って辞退した」という完璧なアリバイを得ることができた。
「……貴女の意志は確認しました」
王妃は氷のように冷たく、しかしどこか肩の荷を下ろしたような響きで宣告した。
「本日の打診は、異国の第二側妃による『辞退』という形で、公式に処理します」
「寛大な御心に、深く感謝申し上げます」
ルナリアは静かに一歩下がり、一切の隙のない完璧なカーテシーをとった。王妃が用意したアリバイの幕引きを、優雅に受け入れる。
「では、私はこれにて失礼いたします。……殿下の健やかなるご成長と、王家の弥栄を、心よりお祈り申し上げますわ」
最後に残したその美しい祝福の言葉すら、今のグラクトとヒルデガードにとっては、傷口に塩を塗り込むような極上の皮肉として響いたことだろう。
誰の許しを乞うこともなく、帝国の虎は優雅な足取りで白薔薇の間を後にした。
重厚な扉が閉まる。
後に残されたのは、ホッと胸を撫で下ろす王妃と、プライドを完全に粉砕された第一王子、そして完璧な微笑みの裏でドス黒い支配欲と執念を煮えたぎらせる第一側妃の、重く歪な沈黙だけであった。
――しかし、この圧倒的な敗北と沈黙の空間こそが、身を潜めていた「彼女」にとっては最高の狩り場であった。