リーガル・レジスタンス 〜ファンタジー世界で立憲国家を求める〜 作:ムササビ・モマ
1 離宮への侵入とカイルの覚悟
白薔薇の間での茶会から数日後。
第一王子グラクトは、専属護衛であるセオリスすらも伴わず、本宮の重厚な扉を押し開け、外の陽光の中へと足を踏み出した。
目指す先は、渡り廊下で繋がる後宮とは異なり、王宮の敷地の最奥、一度外へ出なければ辿り着けない独立した別棟――『離宮』である。
彼の胸中には、あの茶会でルナリアから浴びせられた言葉が、黒い染みのようにこびりついていた。
『――殿下には、自らの意志で欲望を律する強い王になっていただきたいのです』
『――その未熟な歩みを助け、立派な大人へと導くのは、他でもない実のお母様のお役目でしょう』
ローゼンタリア王国の絶対的な思想において、グラクトは金髪金眼を宿す『神の子』であり、天の理の顕現である。その彼に対し、格下である異国の側妃が「未熟」と断じ、直接的に教訓を垂れるなど、国家の秩序と王族の『品位』を根底から破壊する大罪に他ならなかった。
『あの女の振る舞いは、王国の絶対の理に反している。……だが、それを母上や王妃様に泣きつけば、僕が本当に「母の庇護下にある赤子」であることを証明してしまう』
十三歳のグラクトは、外の風に金糸の髪を揺らしながら、神の子としての英才教育を受けた頭脳をフル回転させ、彼なりに極めて理路整然とした「解決策」を導き出していた。
『ローゼンタリアの気高き形式美に則るのだ。……上位の者が不手際を見せた時、下位の者が「自らの不徳」として罪を被り、上位の者がそれを「許す」ことで秩序は保たれる』
そうだ、とグラクトは自らの名案に酔いしれた。
今から離宮へ赴き、ルナリアに「王家の品位を傷つけた大罪」を自覚させる。理知的な彼女ならば、己の犯した致命的な無礼に気づき、青ざめて平伏すはずだ。「私の不徳ゆえ、神の子たる殿下の御心を煩わせてしまいました」と。
そうして彼女が罪を被り、足元に縋り付いてきたところで、自分が『神の子としての絶対的な慈悲』をもって、その罪を許してやるのだ。
『僕が直接彼女の非礼を寛大に許し、もう一度「情交奉仕者」として命じてやればいい。そうすれば形式美は守られ、彼女も王国の理に従う忠実な駒となる。……これこそが、自立した真の王としての振る舞いだ!』
グラクトにとって、この行動は決して現実逃避などではない。王国の常識と理に則った、完璧で美しい「王者としての逆襲」のつもりであった。
しかし、その根本の前提が「女は(あるいは下位の者は)王権の理に平伏すもの」という狂った王国の箱庭でしか通用しないローカルルールであることに、温室育ちの彼は気づきようもなかった。
やがてグラクトは、鬱蒼とした木々に囲まれた離宮の正門へと辿り着いた。
そこでは、離宮の警備隊長であるカイル・ド・グラムが持ち場を守っていた。
「……っ!?」
平民から武功のみで騎士爵にまで上り詰めた歴戦の猛者であるカイルは、血相を変えて早足で歩いてくる第一王子の姿を認め、内心で激しく舌打ちをした。
『第一王子殿下が、護衛もつけずに単身で、わざわざ本宮を出て離宮まで!? しかも、あの異様なまでの高揚感はなんだ……ッ!』
直感的に最悪の事態を悟ったカイルだが、彼にはどうすることもできなかった。
かつて近衛騎士団長家(ゼノビア公爵家)の三男の過失を告発し、正論を貫いた結果この離宮へ左遷されたカイルは、この王国の「理不尽な絶対構造」を誰よりも骨身に沁みて理解している。
ローゼンタリアの法において、一介の警備隊長が、正当な理由なく『神の子』の行く手を物理的に阻むことも、言葉で制止することも、明確な「不敬罪」に当たり、極刑を免れない。
「……第一王子殿下。離宮へようこそおいでくださいました」
カイルは歴戦のプライドと苦渋を噛み殺し、恭しく膝をついて道を開けるしかなかった。
「ご苦労。ルナリアは中にいるな?」
「は、はい。本日はお茶会のご予定もなく、サロンにてお一人でお過ごしのことと存じます。……ただいま、取り次ぎを」
「不要だ。神の子たる僕が直接赴き、慈悲を与えることに意味があるのだ」
王者の虚栄に満ちたグラクトは、カイルの言葉を遮り、堂々とした足取りで離宮の扉を開け、中へと踏み込んでいった。
グラクトの背中が館の奥へと消えた瞬間、カイルは弾かれたように立ち上がり、背後に控えていた部下の騎士の胸ぐらを掴みかからんばかりの勢いで振り返った。
「見ている場合か! 今すぐ走れ!!」
「は、隊長っ! どこへ!?」
「本宮の図書館だ! 本日外出されているリュート殿下と、護衛のルリカ殿を血吐いてでも見つけ出し、至急戻られるように伝えろ! 『第一王子が単独で離宮に強行突破した』とな!!」
部下が一目散に駆けていくのを見送った直後。
カイルは冷や汗を拭い去り、その瞳から「苦渋に満ちた警備隊長」の顔を捨てた。代わりに宿ったのは、幾度も死線を潜り抜けてきた歴戦の戦士の、氷のように冷たく研ぎ澄まされた殺意だった。
カイルは隣に立つ副長を呼び寄せ、一切の感情を排した低い声で命じた。
「副長。……もし、あのサロンからルナリア様の悲鳴が聞こえれば、俺が突入して『神の子』を斬る」
「……ッ!!」
息を呑む副長に対し、カイルは淡々と「死の偽装工作」を言い渡す。
「俺が王子を斬ったら、お前たちは直ちに俺を『乱心した逆賊』として捕縛しろ。動機は『己の人生を狂わせたゼノビア侯爵家への個人的な復讐』だ。……ゼノビアの血を引くセオリスの守護対象である第一王子を暗殺し、奴らに泥を塗るための凶行。そう本宮の連中に狂人を演じ切って叫んでやる」
それは、第一王子の死という天地を揺るがす大罪の責任が、離宮の主であるルナリアやリュートに及ばないようにするための、完璧なトカゲの尻尾切りだった。
「その証言を本宮で言い放つまで、俺は絶対に死ねない。……だが万が一、俺がその前に殺されたら、お前が代わりにそう主張しろ」
カイルは腰の剣の鯉口を、親指で静かに、わずかに押し開いた。
「ルナリア様を失えば、我々離宮陣営は確実に崩壊する。ここで終わるも同然だ。……最悪、俺と一緒に死んでくれ」
神の子を殺せば、間違いなくその場にいる全員が極刑に処される。
しかし、その静かで重い覚悟の言葉に対し、副長をはじめとする周囲の離宮警備兵たちは、誰一人として動揺の声を上げなかった。
彼らはカイルの目を見つめ返し、ただ無言で、右拳を左胸に当てる騎士の敬礼を返した。
王国の理不尽に虐げられてきた彼らにとって、理と実力で自分たちを遇してくれるルナリアとリュートこそが、真の主君であった。いざとなれば王家を敵に回してでもこの離宮を守り抜く。その圧倒的な忠誠の炎が、扉の向こうの不穏な静寂を睨みつけていた。