明らかに猛者揃いの集団の中で、リーダーとして認められているモブ顔の人 作:べにべにベニヤ板
先輩曰く、教育実習は地獄だそうだ。
実際にその場に行けばその言葉の意味がよくわかる。
慣れない環境な上に、休まることなく気を張り続けないといけない。
やらないといけないことが多岐にわたり、その内容も細かく伺いを立てる必要がある。
「田中先生。明日の2限の授業なのですが参観させていただいてもよろしいでしょうか?」
「おっ、いいぞ!明日だな。立ってると大変だから、パイプ椅子でも持ってきておけよ」
「はい。ありがとうございます」
たかが授業ひとつを見学するだけでもこれだ。
その上に授業の準備もしないといけない。
たかが一日に一時間あるかないかの準備だが、そもそもが授業準備の経験がないのだ。
何時間かけても納得はできない。
毎日、深夜まで指導案を書き直していた。
睡眠不足のせいか、視界の端が常にチカチカと明滅しているような感覚があった。
「先生~。ジュースおごってぇ~」
昼休みに自販機でそう声をかけられた。
自販機のパネルに指先を躍らせながら、小柄な女子生徒がいたずらっぽく笑う。
校則通りではない、少し短くされたスカート。
手首には流行りのヘアゴム。
彼女から漂う甘い柔軟剤の香りが、埃っぽい下駄箱の空気の中でそこだけ浮いて見えた。
「……自分のお金で買いなさい」
「金欠でないもん~。っていうか顔色悪いよ。大丈夫?」
「……マジか」
自らの顔に手を伸ばす。
体調の悪さには自覚があった。
だが、人に指摘されるほどとは思わなかった。
「会うたび疲れた顔しかみてないよ。先生がいるのって……今週までなんでしょ?今日が水曜だから――あと2日?」
「そうだね……」
「そんなんじゃ、こっちもやる気でないよ~」
言葉は軽いが、その語尾には本気の危うさを案じる響きがあった。
――生徒は教員をよくみている。授業は虚勢でも余裕をみせてやれ。
佐藤先生の言葉を思い返した。
「確かにそうだね。今日は早めに休むとするよ」
口角を上げる。
たったそれだけの動作が、鉛のように重い。
「うん!明日はうちのクラスで授業してくれるんでしょ。楽しみにしてるね~」
そういうと女子生徒は手を振り去っていった。
遠ざかっていく彼女の背中を、乾いた目で見送った。
彼女が去った後、自販機前には湿った沈黙だけが残る。
彼女は自販機で何も買わなかった。
友達の輪からわざわざ抜けて、声をかけてきていた。
――少しは関係を築けていけただろうか……。
気を使わせている。
生徒を安心させる立場のはずが、逆に心配されている。
その事実が、今の自分の余裕のなさを改めて突きつけていた。
この一週間と少し、何の手応えも得られてなかった。
肉体的、精神的疲労は感じてもやりがいはなかった。
担当クラスの生徒だって名前すら覚えきれていない。
向き合うことすらできていない。
今日の午後はあと一度の授業見学で終わりだ。
終わった後は一日の振り返りを記入して、明日の授業の最終確認をしてもらわないといけない。
明日は大学から教授もきて、教育実習の成果を観てもらうための授業だ。
これを乗り越えれば終わりだ。
「……本当に俺は教員になるのかなぁ」
実習生の控室に戻る傍らそんな言葉がでてしまった。
廊下は休み時間の喧騒に包まれている。
すれ違う生徒たちの笑い声、走り回る足音。
それらすべてが、色の褪せた古い映画のように現実味を欠いていた。
多くの生徒とすれ違うなかで挨拶をしてくる生徒は多い。
ただ、何か声をかけてくる生徒はいない。
自分が生徒の時はどうだったろうか。
もし、疲れた顔をした教育実習生がいたら何か声をかけただろうか。
どこか自嘲めいた笑いがでてしまう。
雑多な人混みの中で、不意にそこだけピントが合ったように、一人の女子生徒の姿が浮かび上がった。
長い黒髪にきれいな制服姿。
藪原紗奈。
二人の距離が近づくにつれ、周囲の生徒たちの騒ぎ声が、まるで水中にいるかのように遠のいていく。
すれ違う瞬間、彼女の視線は一度も自分を捉えない。
彼女の視線は、まっすぐに前だけを見据えていた。
自分もまた、彼女を見ることができない。
ただ、わずかに揺れた彼女の髪が空気を掻き乱し、その微かな風圧だけが、彼女がそこに生きていることを僕に突きつける。
この期間で彼女と話すことは一度もなかった。
俺とサナさんはこの期間、一貫して一人の生徒と教育実習生の立場を崩さなかった。
まるではじめて会ったかのようで何も話すことがなかった。
「その問題は生徒の何人かに問いかけた方がいいと思う。この後の授業展開を考えればね」
帰宅の準備を終え控室からでたとき時計の短針は8を指していた。
自宅に戻るころには21時を過ぎているだろう。
憂鬱な気持ちの中、一人校舎をでた。
駅への道は昼間の喧騒が嘘のように冷え切っていた。
早く帰って寝たい。
ただそれだけの思考が、重い足取りをどうにか前に進めていた。
明日の予定を考えながら駅の改札前まで来たときある集団が目に入った。
喧騒の中に、ふと不自然な空白が見えたのは、ちょうど改札を抜ける手前だった。
改札へ向かうサラリーマンや学生たちは、スマホの画面を見つめ、あるいは連れと笑い合いながら、その空白のすぐ脇を通り抜けていく。
それは無関心というより、本能が見てはいけないものとして彼らを風景から排除しているかのようだった。
黒服にサングラスをかけたモデルのような人物5人が一人の女子高生を囲んでいる。
男たちのスーツは、夜の闇よりも深かった。
街灯の下にいるはずなのに、光をすべて吸い込んでいるかのような、不自然な黒。
そのサングラスの奥にある視線は、人間を獲物として捉えているような、冷ややかな無機質さに満ちていた。
仕事帰りでも、遊び帰りでもない。
そこにいる誰とも目的が違うことが、遠目からでもはっきりと伝わってきた。
――あれは……うちの学校じゃないか……。
気になり目を凝らしたところで自校の制服であることに気づいた。
加えて、その女子高生にも見覚えがあった。
きれいな長い黒髪に整えられた制服。
囲まれていたのはサナさんだった。
――知り合いっていう雰囲気じゃないが……。
サナさん達の姿は周囲からも浮いていた。
サナさんが何かをいうと男たちはニヤニヤと笑いはじめ、男の一人がサナさんの肩に手を置いた。
明らかにただ事ではない様子に周りが注視しはじめる。
また、事件性を想起させる様子でもあった。
声をかけることが正しい行いだと思いつつも体は動かなかった。
もし、危険な人物であれば自分一人がいってもどうにもならない。
既に周囲が警察や駅員に連絡しているかもしれない。
本当はただの友人関係かもしれない。
多くの言い訳が頭の中で思いついてしまっていた。
動きだせない中で、サナさんを囲んでいた男の一人が携帯を取り出した。
差し出された端末は、街灯の光を鈍く反射していた。
サナさんは、それをまるで明日提出する宿題のプリントでも受け取るかのように、自然な、それでいて一切の感情を排した動作で手に取った。
彼女は、怯えてすらいなかった。
男から端末を受け取るその指先は、教科書をめくる時と同じくらい淡々としていて、その光景だけが、駅前の雑踏から切り離された静止画のようであった。
ただ、堂々と行われた光景に対して、周囲のざわめきが大きくなる。
男たちは受け取った事実に笑みを浮かべるとそのまま構内を去り、サナさんはホームへと上がっていった。
多くの想像が頭を埋めるなかで自らは何もできず立ち尽くしていた。
「はは……」
乾いた笑いが、肺の奥から震えながら漏れ出した。
教育実習の成果。
生徒との対話。
そんなものは、この数分間のただ見て見ぬふりをした臆病な沈黙の前では、塵ほどの価値もなかった。
俺は、彼女を助けられなかったのではない。
彼女が俺の助けなど微塵も必要としていない現実に、ただ安堵していたのだ。
自分に吐き気がした。
「バカじゃねぇの……」
自分に向けた呪詛が、ノイズに掻き消される。
その日の夜、あの部屋に招集された。