誰も彼女を知らない。   作:ヘルタ様万歳

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Miss.Nobody

廊下をあてもなく歩いていた。

 

進むという行為だけがかろうじて意味を保っている。行き先はない。ただ、足が自然と前へと運ばれた。その連なりが私という輪郭を辛うじて繋ぎ止めている様だった。

 

窓から差し込む光は柔らかく、床に長い影を落としている。磨き上げられた石の床はそれを淡く反射し光と影が幾重にも重なり合う。そこへ自分の影が滑り込む度、世界の境界が僅かに揺らいだ。確かな輪郭が水面に触れたようにほどけていく。一人分の足音が遅れてもう一つ返ってくる。響きは壁に触れて分裂し、僅かに時間をずらして耳へ届く。自分の足で歩いている筈なのに、その音だけが後から追いついてくる。

 

歩くという現在と、音という過去が完全には重ならない。

 

「……ふふ」

 

その歪みが、少しだけ可笑しい。

 

理由のない笑みが静かにこぼれる。視線を廊下の奥へ向ける。整然と並ぶ扉、掲示板、壁に掛けられた聖句の額。それらに何だか見覚えがあるような気がした。……だが、その記憶はどこにも存在しない。記憶が伴わない既視感は意味を持たないまま漂い、思考の奥に鈍い倦怠感を残していく。

 

思い出せないのではなく、最初からそこに無かったかのように。それでも“知っている”という感覚だけが消えずに残留している様だった。

 

死んでいるのだから、疲れているのは脳ではないのだろう。名前のつかない何か――魂と呼ぶしかない酷く脆い部分が何かにぶつかって削れていくような……、そんな得も言われぬ感覚。

 

「私は帰りたいのかな?」

 

言葉が理由を伴わずに浮かび上がる。帰る、という概念だけが微かに温度を持つようだった。

 

家。部屋。あぁ、確か……ここは全寮制だった――そんな断片が、どこからともなく滲み出る。その言葉に触れた瞬間、何かが一瞬だけ結びかける。白い壁。整えられた机。窓から差し込む光。そこに置かれた何か。花瓶……? 違う、それらは確か、もっと軽くて……。

 

だが、それは水面に浮かぶ像のように揺らぎ、触れようとした途端に崩れていった。

 

「うーん……?」

 

首を傾げる。

 

思考は空白の縁をなぞるだけで内側から霧散していった。寮の名前や部屋番号も、もはや手がかりとして機能しない。それどころか自分の名前すら、どうやら憶えていないようだった。3年間という時間が確かに存在していたはずなのに。その内側だけが綺麗に抜き取られたかのように真っ白な紙切れだった。残されているのは断片と感覚だけ。

 

それなのに困っているという実感は希薄だった。深刻である筈の状況がどこか遠い、紙の上に書かれた物語を第三者として眺めているような感覚。私の事なのに、まるで私のものではないかのような違和感。

 

「……変なの」

 

手すりに指をかける。触れている鉄の感触は定まらない。表面をなぞるだけでそこにあるという確かさに届かないような、何処か虚しい冷たい感触。触れるという行為が、どうにも一致しない。

 

僅かに思案する。けれど思考は巡るが結論には至らない。そもそも、内側に材料がないのだから導きようがないのかもしれないが。

 

ならば、外側から辿るしかないのだろうか。自分の中に存在しないのなら、外に残された痕跡を拾うしかないとしたら、向かうべきは。

 

「……学校名簿、かな」

 

なんだか宝探しみたいでわくわくするね?

 

 

 

 

図書館へと続く廊下は人の気配が薄い。元々そういう場所だからなのか、それとも今の私の側に原因があるのか。音は減り、時間の流れさえも僅かに鈍っているように感じられた。歩みを進めるごとに世界は静まり返っていく。音が削がれ、気配が遠のき、ただ空間だけが残されていく様だった。

 

扉の前で足を止める。大きな木製の扉。手入れの行き届いた木目が長い年月を静かに受け止めている。金具には金木犀を模した装飾が施されていて、細やかな彫刻が淡い光を受けてほのかに浮かび上がっていた。それを、私は好きだった――ような気がする。

 

確信はない。けれどその形に触れた瞬間、僅かに心が引かれてしまう。ドアノブに手をかけると、特に抵抗もなく扉は静かに開いた。

 

中へ踏み込む。紙の匂いがゆるやかに広がり、古い本の乾いた香りと新しい紙の淡い匂いが混ざり合い、時間そのものが空気に溶け込んでいるようだった。高い天井から落ちる光は拡散され、直接的な輪郭を持たずに室内を満たしている。その光は柔らかく、どこにも強く触れずただ均一に存在していた。

 

本棚が整然と並びその隙間に細い通路が伸びている。柱、本棚、机、どこまでも同じ構造が繰り返されるその光景は均衡の取れた鏡絵のようだった。

 

書架の間を抜ける。背表紙が並ぶ様子は規則的で同じ高さ、同じ間隔、同じような色の重なり。それらは意味の集合である筈なのに、今の私にとってはただの形の反復でしかなかった。それでも、その反復には僅かな安堵があった。変わらないものがここにはある気がして。

 

「……あった」

 

目的の棚を見つける。番号順に整えられたその配置は、微かに残っている記憶の通りだった。

 

一番最新の一冊を手に取り、頁を捲る。期待しての事か、紙が擦れる音がやけに大きく響いた。静けさの中では微かな音さえも過剰に広がる。

 

名前が並んでいる。整った文字列。規則的に連なる記号のようなそれらは、かつてそこに存在していた誰かの証明でありながら、今の私にはただの羅列にしか見えない。

 

指先を滑らせる。一つずつ、確かめるように。どこかで引っかかる筈だと思う。自分の名前なら一目見た時に直ぐに気付く筈だと。

 

「………」

 

だが、どれも同じように通り過ぎていく。意味を持たないまま流れていく。

 

しかし名簿を閉じかけた指先が、ふと止まる。頁の端。文字の列の外側に設けられた小さな枠。そこに収められた顔写真へ、視線が引き寄せられる。

 

整えられた髪。

水色の瞳。

均衡の取れた、どこか作り物じみた顔立ち。

 

見覚えがある、というより――知っている顔だった。鏡を覗いたときに感じる、あの曖昧な一致。自分でありながら完全には重ならない像。指先をゆっくりと下へ滑らせる。写真の下に記された文字列を追う。

 

「……幽園」

 

音として口にした瞬間、ぐにゃりと何かが歪んでいく。

 

記憶ではない。懐かしさでもない。もっと直接的で、逃れようのない吐きそうな程の違和感。どこかで聞いたようでいて、どこにも定着しない響き。耳には残る癖に、何一つ掬い上げるものがない。

 

この名前で3年間呼ばれていた筈なのに。それなのにそこにあるべき実感が一切伴わない。

 

むしろ逆だ。今まで見てきたどの名前よりも受け入れがたいとさえ感じる。浅はかで、響きが悪く、どこか空虚で。

 

指先で文字をなぞる。

 

その形は確かにそこに刻まれている。消えない記録として。それでも、触れている筈の実感は希薄で、輪郭だけが水面に浮かび上がる。

 

「……ふうん」

 

息を落とす。納得とも拒絶ともつかない感覚だけが静かに沈殿していく。顔と名前が並んでいるというのに、それが自分だという手応えはどこにもない。

 

頁を閉じる。紙の擦れる音が、わずかに遅れて耳に届く。

 

「幽園、▪️▪️……ね」

 

もう一度だけ口にする。その響きは最後まで馴染む事なく、軽いまま空気に溶けていくようで。本を閉じた後も指先はしばらくその場所に留まっていた。

 

そのまま本を棚へ戻す。背表紙が元の列へと収まり他の冊子と同じ高さに整う。その光景は最初から何事もなかったかのように均衡を取り戻していた。私だけがそこから僅かに外れているのだろう。

 

ふと窓の外に視線を向ける。

 

夕方へと傾きかけた空はそれでもまだ少しだけ青かった。淡く、どこまでも均一で、何一つ知らない顔をして広がっている。雲間から覗く陽の光が頬に当たって、僅かな暖かさを感じさせた。――嘘。そんなものはまるで感じないし、ただ酷く眩しいだけだった。

 

私の事や、ここで過ぎた虚しい3年間と、最期に過ごしたあの部屋の事も。何も関係ないというように一日が終わろうとしている。

 

羨望なのか皮肉なのか、自分でも分からない。ただあの青さだけが、何も変わらずにそこにあるという事実に酷く心が穏やかになっていく。

 

結局、名前が分かっても何も変わらなかった。記憶が戻るわけでもなく、帰る場所が見つかるわけでもない。私が何者なのかという問いは形を変えただけで、まだここに残っている。

 

「……まあ、いいか」

 

小さく笑う。

 

急ぐ理由もない。何かを成さなければならないわけでもない。どうせ、何も始まらないのだから。

 

踵を返す。

 

図書館の静けさを背に再び廊下へと戻る。足音はやはり少し遅れて響いた。

 

それを確かめるように、もう一歩。

 

 

 

 

 

 

 

 

1: 名無しのトリニティ生徒 ID:TrN-3aF9

本日の授業、さすがに眠気を堪えるのが難しかったですわ

 

2: 名無しのトリニティ生徒 ID:Kx7-11Lm

分かりますわ。あの一定の声音、ある意味才能でしてよ

 

3: 名無しのトリニティ生徒 ID:9Qp-77Xe

うっかり目を閉じた瞬間に当てられるの

少々理不尽ではございません?

 

4: 名無しのトリニティ生徒 ID:Rt0-Zz21

きっと見ていらっしゃるのですわ。こちらの些細な挙動まで

 

5: 名無しのトリニティ生徒 ID:MiK-0001

ミカ様、本日も遅刻なさったそうですわよ

 

6: 名無しのトリニティ生徒 ID:La2-8sDe

あの方はもはや様式美の領域にございますわね

 

7: 名無しのトリニティ生徒 ID:Op3-Lk09

それより中庭のベーコンエッグパン、本日も瞬く間に消えてしまいましたわ

 

8: 名無しのトリニティ生徒 ID:Wx8-Aa22

開始数分で完売とは、もはや儀式のようですわね

 

9: 名無しのトリニティ生徒 ID:Yt4-Fe33

あれは戦ではなく、災厄に近いものですわ

 

15: 名無しのトリニティ生徒 ID:Ui9-Mn12

ところで、旧校舎は依然として立ち入り禁止でございましたかしら?

 

16: 名無しのトリニティ生徒 ID:Qw1-As88

急にどうなさいましたの?

 

17: 名無しのトリニティ生徒 ID:Ui9-Mn12

先ほど通りかかった際に、誰かの姿が見えた気がいたしましたの

 

18: 名無しのトリニティ生徒 ID:Kx7-11Lm

それはお気のせいではございません?

旧校舎の周りには厳重な柵がございますし、わざわざ侵入するメリットもまたありませんし

 

19: 名無しのトリニティ生徒 ID:Ui9-Mn12

いえ……青いものが、見えましたの

 

20: 名無しのトリニティ生徒 ID:Rt0-Zz21

青いもの、とは少々曖昧すぎませんこと?

 

21: 名無しのトリニティ生徒 ID:Ui9-Mn12

おそらく髪でした。長くて、揺れておりました

 

22: 名無しのトリニティ生徒 ID:Wx8-Aa22

風ではなくて?

 

23: 名無しのトリニティ生徒 ID:Ui9-Mn12

風にしては、不自然に静止しておりましたの

 

30: 名無しのトリニティ生徒 ID:Mn0-Xx55

最近、七不思議の話題が再び出回っておりますわね

 

31: 名無しのトリニティ生徒 ID:La2-8sDe

図書館の件でございます?

 

32: 名無しのトリニティ生徒 ID:Yt4-Fe33

夜の礼拝堂で声がする、という話もございますわ

 

33: 名無しのトリニティ生徒 ID:Qw1-As88

>>23 よくある噂話ではございませんか?

 

34: 名無しのトリニティ生徒 ID:Mn0-Xx55

いえ、少々趣が異なりますの

 

35: 名無しのトリニティ生徒 ID:Kx7-11Lm

>>34 どのように?

 

36: 名無しのトリニティ生徒 ID:Mn0-Xx55

青い髪の方のお話ですわ

 

40: 名無しのトリニティ生徒 ID:Rt0-Zz21

ああ、そのお話、耳にしたことがございます

 

41: 名無しのトリニティ生徒 ID:Wx8-Aa22

なんだか最近、目撃談が増えておりますわね

 

42: 名無しのトリニティ生徒 ID:Yt4-Fe33

青い髪の女子生徒の話ですわよね? 図書館や廊下にも現れるとか

 

43: 名無しのトリニティ生徒 ID:Op3-Lk09

正直、少々不気味ですわ

 

44: 名無しのトリニティ生徒 ID:Mn0-Xx55

ですが、ただ怖いというのとも違うようですの

 

45: 名無しのトリニティ生徒 ID:Qw1-As88

と申しますと?

 

46: 名無しのトリニティ生徒 ID:Mn0-Xx55

あまりにも美しく、目を奪われるのだとか

 

52: 名無しのトリニティ生徒 ID:La2-8sDe

先輩も同じことをおっしゃっておりましたわ

 

53: 名無しのトリニティ生徒 ID:Kx7-11Lm

詳しく教えてくださいな

 

54: 名無しのトリニティ生徒 ID:La2-8sDe

青い長髪で、現実感が希薄で、整いすぎたお顔立ちだと

 

55: 名無しのトリニティ生徒 ID:Rt0-Zz21

まさに、といった風体ですわね

 

56: 名無しのトリニティ生徒 ID:La2-8sDe

そこにいらっしゃるのに、触れられないような感覚だとか

 

57: 名無しのトリニティ生徒 ID:Op3-Lk09

ただ幻覚を見ているだけですわ

 

63: 名無しのトリニティ生徒 ID:Yt4-Fe33

声も特別だと伺いましたわ

 

64: 名無しのトリニティ生徒 ID:Qw1-As88

ほう

 

65: 名無しのトリニティ生徒 ID:Yt4-Fe33

鈴のように澄んで、美しい響きだとか

 

66: 名無しのトリニティ生徒 ID:Kx7-11Lm

ただの噂話でしょう?

面白がって吹聴して回るのは些かはしたないかと

 

67: 名無しのトリニティ生徒 ID:Rt0-Zz21

そうだそうだ、と青い髪の女もそう言っております

 

72: 名無しのトリニティ生徒 ID:Mn0-Xx55

お気に召されると、連れて行かれるという話もございますわ

 

73: 名無しのトリニティ生徒 ID:Wx8-Aa22

またそんな……

 

74: 名無しのトリニティ生徒 ID:Mn0-Xx55

青い髪のその方に魅入られると、連れていかれるのだとか

 

75: 名無しのトリニティ生徒 ID:Qw1-As88

どちらへ?

 

76: 名無しのトリニティ生徒 ID:Mn0-Xx55

さぁ? そこまでは

 

80: 名無しのトリニティ生徒 ID:Op3-Lk09

最近の失踪の件、まさか……(ひらめいた)

 

81: 名無しのトリニティ生徒 ID:La2-8sDe

結びつけて考える方もいらっしゃいますわね

 

82: 名無しのトリニティ生徒 ID:Kx7-11Lm

ただの偶然ではなくて?

 

83: 名無しのトリニティ生徒 ID:Rt0-Zz21

そう願いたいところですわ

 

84: 名無しのトリニティ生徒 ID:Mn0-Xx55

ですが、噂は噂を呼びますもの。

深淵を覗いている時、深淵もまた……

 

90: 名無しのトリニティ生徒 ID:Wx8-Aa22

とはいえ、現実的ではありませんわよね

 

91: 名無しのトリニティ生徒 ID:Qw1-As88

ええ、どうやって連れて行くのか

 

92: 名無しのトリニティ生徒 ID:Yt4-Fe33

理屈は通りませんわ。怪談なんてそういうものでしょう

そもそもそんな非現実的なものがあるとは思えませんが

 

93: 名無しのトリニティ生徒 ID:Mn0-Xx55

それでも消えている方がいるのは事実ですわよね

 

100: 名無しのトリニティ生徒 ID:La2-8sDe

最後に目撃された方の証言などもあるそうですよ

 

101: 名無しのトリニティ生徒 ID:Kx7-11Lm

ほうほう?

 

102: 名無しのトリニティ生徒 ID:La2-8sDe

その方、微笑んでいらしたそうです

 

103: 名無しのトリニティ生徒 ID:Rt0-Zz21

恐怖のあまり仏様の様な形相になってしまっただけかと

 

104: 名無しのトリニティ生徒 ID:La2-8sDe

目撃者の方ではなくて、青い髪のその方が、です。

 

110: 名無しのトリニティ生徒 ID:Op3-Lk09

ゾクっとしましたわ

 

111: 名無しのトリニティ生徒 ID:Wx8-Aa22

もしも本当にこの世ならざる者だったなら、悪意が感じられないのがかえって不気味ですわね

 

112: 名無しのトリニティ生徒 ID:Yt4-Fe33

>>110 トイレに行くなら同行して差し上げてもよろしくってよ

 

120: 名無しのトリニティ生徒 ID:Qw1-As88

>>112 よろしい。私も同行します

 

121: 名無しのトリニティ生徒 ID:Kx7-11Lm

きm

 

122: 名無しのトリニティ生徒 ID:Qw1-As88

もし本当にいらっしゃるのであればそのような噂自体回らないと思いますが

 

123: 名無しのトリニティ生徒 ID:Rt0-Zz21

>>120 皆様ビビり過ぎでしてよ

私もご一緒して差し上げます

 

124: 名無しのトリニティ生徒 ID:Qw1-As88

ですが一度くらいお目にかかってみたいとも思ってしまいますわ

 

125: 名無しのトリニティ生徒 ID:Mn0-Xx55

おやめなさいませ

 

126: 名無しのトリニティ生徒 ID:La2-8sDe

お気に召されましたら戻れませんわよ

 

127: 名無しのトリニティ生徒 ID:Yt4-Fe33

美しいものほど、碌な結末をもたらしませんもの

 

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