あなたにとって、部室へと続くドアは、本来なら活気と演算の熱気に満ちているはずの場所だ。
だが、今のあなたにはその閉じ切った扉は、世界で最も遠く、冷徹な拒絶の象徴でしかなかった。
「……本日、七回目。アクセス権限、拒否」
無機質な電子音が、静かな廊下に響く。
部室のドアに設置された認証パネルには、無情にも赤い『ACCESS DENIED』の文字が点滅していた。一週間前、あの膝枕という奇跡の後に調子に乗ってデートを提案した結果、ケイの手によってあなたの生体認証は完全にブラックリストへと叩き込まれたのだ。
一ヶ月の出入り禁止
それは、あなたにとって死刑宣告に等しかった。
最初の三日間、あなたは自分の教室で、あるいはカフェテリアの隅で、ただ呆然と過ごした。
授業の内容は右から左へと抜け、昼食の味もわからない。放課後、彼女とどうでもいい、他愛もない話ができなくなるだけで、これほどまでに世界の解像度を下げるとは思わなかった。
四日目、あなたは禁断症状に近い虚無感に襲われた。
彼女の毒舌が聞きたい。
「変態」と罵られ、分厚い参考書で頭を叩かれたい。
感情の機微で揺れ動くあの瞳を、もう一度近くで見たい。
あなたは、気づけば毎日放課後、部室のドアの前に立っていた。
開かないとわかっていても、そこに彼女がいるという事実だけが、今のあなたの唯一の心の拠り所だった。
「……ケイちゃん、聞こえてる? 今日、セミナーのユウカちゃんに捕まってさ。提出したレポートの変数が一個ズレてたって、一時間も説教されたんだ」
ドア越しに、あなたは独り言をこぼす。
返事はない。ただ、空調の低い唸りだけが聞こえる。
「……いつもなら、ケイちゃんが『あなたの脳の演算精度は、旧世代の電卓以下ですね』って、鼻で笑ってくれるのにな。……一人で直すの、結構大変だったよ」
あなたはドアに背を預け、冷たい金属の感触を背中に感じながらズルズルと座り込んだ。
廊下を通る他の生徒たちは、部室の前でうなだれるあなたを不審な目で見去っていく。だが、そんなことはどうでもよかった。
あなたの世界は今、この一枚の扉の向こう側と、こちら側に分断されている。
一週間が経つ頃、あなたの精神は限界に達していた。
睡眠不足と、何より「ケイちゃん欠乏症」による思考の混濁。
あなたは、ただの変態ではなかった。彼女というシステムがなければ、もはや正常に駆動できないほど、あなたの日常はいつのまにか彼女という存在に依存していたのだ。
ある日。
あなたは、いつものようにドアの前で額を預けていた。
「ごめん」という言葉を、もう何度飲み込んだかわからない。
誠実さとは何か。好意とは何か。
論理では説明できない、胸の奥を締め付けるようなこの痛みを、どうすれば彼女に伝達できるのか。
「……ケイちゃん、……会いたいよ」
消え入るような呟き。
それは、ミレニアムの合理性とは対極にある、あまりにも泥臭く、人間らしい祈りだった。
シュン
その時、密閉されていたはずの部室から、空気が漏れるような音がした。
続いて、重厚なドアが、溜め息をつくようにわずか数センチだけ、その隙間を開けた。
そこから溢れ出してきたのは、懐かしい電子機器の微かな熱気。
そして、彼女が好んで使う石鹸の、清廉でどこか切ない香りだった。
「……215523秒」
隙間から覗いたのは、鋭くも美しい赤紫色の瞳だった。
ケイは腕を組み、ドアの陰からこちらを冷ややかに見下ろしていた。
「あなたがこの座標に滞在し、非効率に二酸化炭素の排出を継続した累計時間です。廊下の監視カメラのストレージを、あなたの醜態だけでで浪費させるとは。……不法投棄されたスクラップの方が、まだリサイクル可能な分だけ価値がありますね」
一週間ぶりの、彼女の声。
トゲだらけで、情け容赦ない罵倒。
けれど、その声を聞いた瞬間、あなたの全身に電流が走ったような安堵が広がった。
「ケイちゃん……! 開けてくれたんだね」
「勘違いしないでください。あなたの非論理的な待機行動が、私の演算プロセスに未解決のエラー、として常駐し続けているのです。システムを正常化するための、単なる例外処理に過ぎません。……要件を。30語以内で。それ以上は、対話プロトコルの無駄遣いとして即座に遮断します」
彼女の言葉は、氷の粒を投げつけられるように冷たかった。
けれど、ドアのノブを握る彼女の白い指先が、隠しきれないほど細かく震えているのを、あなたは見逃さなかった。
あなたは一歩、境界線を越えないギリギリの距離まで踏み出し、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ごめん、ケイちゃん。……あの膝枕が、本当に、僕の想像を超えて、嬉しかったんだ。……君の温もりに触れて、自分がどれだけ君を……その、大切に思っているか、制御不能なレベルで溢れ出しちゃったんだよ。君を困らせるのが、一番の致命的な事象だって……この一週間、地獄の中でようやく理解したんだ」
ケイの長い睫毛が、密やかに震えた。
彼女の瞳が、あなたの誠実さという、数値化も数式化もできない曖昧な概念を必死に解析しようとして、激しく明滅する。
「……。論理的整合性が欠如しています。不快にさせたくないと言いつつ、あなたは私の聖域を、欲望のままに踏み荒らそうとした。その矛盾を、どう説明するつもりですか」
「説明なんて、できないよ。理屈じゃないんだ。……ただ、ケイちゃんのことが、好きなんだ。プログラムとしての君じゃなく、今ここで僕を厳しく叱ってくれる、一人の女の子としての君の隣にいたい。……一ヶ月も君の姿を見られないのは、僕の人生というシステムにとって、ブルースクリーン*1が表示されることと同じなんだ」
「…………っ」
ケイは、弾かれたように視線を逸らした。
彼女の白い頬は、夕陽の加減ではない、明らかな熱を帯びて赤く染まっていた。
彼女の瞳が、困惑と、そして寂しさを押し殺したような情熱で揺れ動く。
「……馬鹿、ですか。……そのような、プリミティブで、剥き出しの言葉を投げつければ、私が例外処理を許すとでも? ……。……入りなさい、早く」
「えっ……?」
「廊下でそのような、風紀を乱す破廉恥な告白を継続されると、ミレニアムのブランドイメージに深刻なダメージを与えます。……三秒以内に入室を完了してください。でないと二度と、ドアは開きませんよ」
促されるまま、あなたは部室の中へと足を踏み入れた。
背後でドアが閉まり、電子錠がガチリと噛み合う音が、今の二人を世界から切り離す儀式のように響いた。
室内は、夕暮れのオレンジ色に染まっていた。
ケイは逃げるように自分のデスクへ戻ると、椅子を深く引き寄せ、モニターの明かりに顔を隠すように座り込んだ。
「……膝枕、デート。これら全ての要求は、無期限の凍結状態とします。……ですが。……あなたが、自身の非効率的な行動を心から悔い、……私を、一人の……その、個体として認識しているというのなら」
ケイは、キーボードの上に置いた自分の両手をぎゅっと握りしめた。
「……作業中の隣席待機、および一日に一度の会話試行のみ、条件付きで許可します。……あくまで、私の管理下において、ですが。いいですね、変態」
「うん……! ありがとう、ケイちゃん。隣にいられるだけで、もう十分だよ」
あなたは彼女のデスクの隣、いつも座っていた椅子に腰を下ろした。
あんなに遠かった彼女との距離が、今はわずか数十センチ。
キーボードを叩くケイの手元が、いつもより心なしか、微かに、けれど確かに、再会を喜ぶようなリズムを刻んでいた。
「……何を見ているのですか。作業を再開してください」
「いや……ケイちゃんのタイピング、やっぱり世界で一番綺麗だなと思って。あと、その……さっきより、少しだけ優しい音がする気がして」
「……。馬鹿!……本当に、救いようのない、私の、……変態なんですから」
最後に小さく、消え入りそうな声で付け加えられた「私の」という言葉。
彼女の赤紫色の瞳は、モニターのブルーライトを反射しながらも、先ほどよりもずっと温かく、穏やかな色で満たされていた。
ミレニアムの静かな放課後。
再接続された二人の間に流れる時間は、壊れそうなほどに繊細で、けれどどんな数式よりも確かな答えに向かって、ゆっくりと動き出していた。
「ケイちゃん?ちゃんと聞きたいから今のもう一回言ってくれる?」
あなたは1週間スイーツを奢ることになった。