ミレニアムサイエンススクール、いつもの部室。夕刻の光は、並んだサーバーラックの隙間をすり抜け、床の埃を黄金色に染め上げている。
キーボードを叩く規則的なリズムが空間を支配していた。その音源であるケイは、赤紫色の瞳をモニターの文字列から逸らすことなく、隣に座るあなたに呟く。
「……本日17時30分を以て、セミナーから要請されていた古代アルゴリズムの脆弱性解析を完了しました。あなたの脳細胞が、その非効率的なアイドリング状態で完全に死滅する前に報告しておきます」
椅子を回すことなく告げられる完了報告。いつもなら、あなたはここで「さすがケイちゃん! ご褒美に結婚しよう!」と、彼女が辞書を振り回すような冗談を飛ばしていたはずだった。
「……あ、うん。お疲れ様、ケイちゃん。やっぱりケイちゃんはすごいね」
返ってきたのは、あまりにも平坦な称賛だった。
ケイの指が、まるで物理的な障害物にぶつかったかのように静止する。彼女はゆっくりと首を巡らせ、あなたの顔を正面から見据えた。
「……異常を検知。スキャンを実行します」
「え、何が……?」
「あなたの発言、およびバイタルサインに深刻なノイズが発生しています。通常、私の成果報告に対し、あなたは100%の確率で事案レベルのセクハラ発言を被せてくる。それがあなたの平常運転であると私のデータベースには記録されています。ですが、今の反応はあなたにしては平坦すぎます。……あなた、何らか隠し事をしていますね?」
ケイは椅子を詰め、あなたの至近距離まで顔を寄せた。赤紫色の瞳が、あなたの瞳孔の揺れを逃さじと観察する。彼女から漂う清潔な石鹸の香りが、いつもより強く鼻腔をくすぐった。
「……。脈拍、正常。体温、微増。……ですが、視線の焦点が合っていません。あなたは私の顔を見ていますが、その奥にある何かを見ていますね。何か考え事でもあるのですか? それとも、また徹夜を繰り返しているのですか?正直に述べてください。あなたの不具合を放置することは、私の演算リソースの損失に繋がります」
彼女の言葉は相変わらず鋭い。けれど、その奥底には、あなたと断絶したくないいう、不器用な危惧が隠されていた。
あなたは、ふいと視線を逸らした。
「なんでもないよ」と笑ってみせるが、その笑顔が引きつっていることは自覚している。三徹して倒れた時の膝枕、そして一ヶ月の拒絶を経て再接続されたあの日から、あなたの中で何かが決定的に変わってしまったのだ。
「……本当に、なんでもないんだ。ただ、次の課題が少し難しそうだなと思って考え込んでただけだよ」
「嘘ですね。あなたの脈拍は今、私の指摘を受けてから15%程上昇しました。ですが……」
ケイはそれ以上、追求しなかった。彼女は唇を噛み、赤紫色の瞳を僅かに伏せる。あなたが「なんでもない」と壁を作るなら、それを無理やりこじ開けるようなことをを、彼女はするべきでないと考えているようだった。
「……あなたが『正常』であると言い張る以上、これ以上の質疑応答はリソースの無駄です。……レポートの閲覧権限を付与します。さっさと目を通し、その貧弱なメモリを更新しておきなさい。変態」
「……うん。ありがとう」
あなたは逃げるようにモニターへ視線を移した。だが、一行たりとも頭には入ってこない。あなたの脳内を支配していたのはやはりケイのことについてだ。
長期間ケイと会えなかった。
その地獄の中で、あなたは彼女という存在がなければ正常に駆動できないほど、彼女に依存しているいう致命的な真実に気付いてしまった。
そして、あの不器用な仲直りの時、彼女が最後に小さく、消え入りそうな声で付け加えた「私の」という言葉。
あの言葉は、彼女自身のシステムが、あなたという存在を、例外的に、けれど本質的に、受け入れたという証拠だった。
だからこそ、あなたは決意したはずだった。
この、曖昧で、不器用で、壊れそうな関係を、もっと確かな、二度と途切れない関係へと、昇華しなければならない、と。
だが、なかなか言い出すことができない。
18時。部室のメイン電源が落ち、オレンジ色の非常灯が二人の影を長く伸ばす。
「……帰宅プロセスを開始します。残留を希望しても、緊急脱出用機能によってあなたは廊下へ射出されます。今日は私と一緒に帰りましょう」
ケイが立ち上がり、銀色の髪を整える。その動作一つ一つが、今のあなたにはスローモーションのように見えた。
二人は並んで部室を出た。廊下を歩く間、あなたは何度も口を開きかけ、そのたびに言葉を飲み込んだ。
エレベーターホール。夕陽はもはや血のような赤色を帯び、白い壁を燃えるように染め上げている。
「……先ほどから、あなたの生体反応が再び異常値を記録しています。体温、上昇。呼吸、不規則。……あなた、やはりどこか体調が悪いのではないですか?」
エレベーターのボタンを押そうとしたケイの手が止まる。彼女は心配そうに、けれどそれを悟られないよう眉をひそめてこちらを振り返った。
その赤紫色の瞳に、夕陽が反射して美しい光彩を放つ。
その光を見た瞬間、あなたの中でダムが決壊した。
「ケイちゃん」
「……何ですか。10語以内で要件を」
「ケイちゃん! 付き合って!」
静まり返ったエレベーターホールに、あなたの叫びが響き渡った。
ケイは時間停止したかのように固まった。
「…………は?」
「付き合ってほしいんだ!」
「……意味がわかりません。何に、付き合うというのですか。……新しいデバイスの動作テストですか? それとも、また卑劣な動機に基づいた猫吸いの許可申請ですか?」
彼女の声は、明らかに震えていた。必死に論理的な解釈を探そうとして、そのすべてがエラーを吐き出している。
あなたは一歩、詰め寄った。
「違う……そんな、そんな話じゃないんだ。……恋人に、なってほしいってことだよ」
「……、……ッ!?」
ケイの頬が、一瞬で赤色を上回るほどの朱に染まった。
「AIとしてじゃなく、ミレニアムの生徒としてでもなく、僕の隣にいてくれる一人の女の子として、付き合ってほしい。この前、僕はもう、君がいない世界では生きていけないって気づいたんだ。……ただの変態の戯言だって思うかもしれないけど、これは僕の全てを賭けた、本当の気持ちなんだよ」
沈黙が支配する。
エレベーターの到着を知らせる「ピン」という電子音が、沈黙を破った。
ケイは俯き、震える手でスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
「……馬鹿、ですか。あなたは。本当に、理解不能な……」
「ケイちゃん……」
「……変態で、最低で、隙あらば私のうなじを狙うような、救いようのない個体。…そのくせ、私が拒絶すれば、壊れた端末のように項垂れて……。私の演算回路に、これほどまでのノイズを常駐させる人など、あなた以外に存在しません」
ケイはゆっくりと顔を上げた。彼女の瞳には、一筋の熱い光が宿っている。
「……今回、今回だけですよ。あなたの提案する『恋人プロトコル』が、私のシステムにどのような影響を与えるのか。……それを検証するための、実地試験を許可します。……あくまで、私の管理下において、ですが」
「……それって!」
「……聞き返さないでください。馬鹿、馬鹿……。……ただし、恋人になったからといって、公共の場での『猫吸い』は厳禁です。一秒でも行えば、最大出力で排除しますからね」
ケイはふいと顔を背け、先にエレベーターへと乗り込んだ。
開いたドアの鏡面に映る彼女の顔は、耳の先まで真っ赤になっていた。
あなたは、弾かれたようにその後を追った。
閉まりゆくドアの隙間から、夕陽の赤色が消えていく。
けれど、エレベーターという密室の中に閉じ込められた二人の温度は、これまでのどんな演算結果よりも高く、そして確かな未来を指し示していた。
「……よろしくお願いします。私の、変態さん」
最後に小さく、消え入りそうな声で付け加えられた承諾の言葉。
ミレニアムの静かな夜が始まる。
再起動された二人の物語は、もはや誰も予測できない、新しい未来を歩み始めていた。
「つまり2人きりなら猫吸いしてもいいってこと!?」
「それは!直接!言語化していうものじゃありません!」
この後めちゃくちゃ猫吸いした。
とりあえず完結です。評価&感想していただけるとめっっっちゃ嬉しいです。