第0話 外側の少女
ここはキヴォトス、アビドス地区。
山上の電波塔の上で、少女は双眼鏡を覗いていた。
吹きさらしの高所だった。錆びた手すりは夜風に細く鳴り、足元の鉄骨は昼間に溜め込んだ熱をもうほとんど失っている。見上げれば空は広く、見下ろせばアビドスの学校とその周辺が、砂に削られた街並みごと一望できた。校舎の輪郭は暗がりの中でも分かる。周囲に並ぶ建物はどれも背が低く、かつて人がいた名残だけを残して、今は静かに砂を被っていた。
遠くでは、風に押された砂が道路の上を薄く流れている。街灯はまばらだった。点いている明かりより、消えたままの窓の方が多い。屋上の給水塔、崩れかけた外壁、途中で止まったままの工事用クレーン。そういうものが夜の中に突き立っていて、ここがまだ街の形を保っているのだと、辛うじて分からせていた。
少女は双眼鏡を少しだけ下げた。
山の上から見れば、アビドスは広い。けれど実際に残っているものは少ない。人も、灯りも、使える建物も、何もかもが足りていない。そのくせ、狙う価値だけはまだ残っている。だから見ている。学校の周りに妙な車両が来ていないか。見慣れない人影が増えていないか。火種が、どこから飛んでくるか分からないからだ。
深緑の外套の裾が風に揺れる。首元の赤いマフラーがかすかに鳴った。フードの下から覗く髪は、黒に近い濃い紺色で、光の角度だけわずかに青みを返す。若い顔立ちなのに、頬から顎、首筋にかけて残る古傷が、その若さを先に削って見せていた。
今夜はまだ静かだった。
だが、静かな夜ほど信用できないことを、少女はもう知っている。
*
噂を最初に拾ったのは、ブラックマーケットの情報屋系列だった。
連邦生徒会長が数週間単位で姿を見せていないらしい。
最初に聞いた時、少女は鼻で笑っただけだった。表では隠しているつもりらしい。長期案件だの極秘対応だの、それらしい言葉を並べて誤魔化している。好きにすればいい、と思った。連邦生徒会がどうなろうと知ったことではない。アビドスを見捨てた側だ。上に立つ連中の一人が消えようが、今さら同情してやる義理もない。
だが、数日もしないうちに、目に見える綻びが出始めた。
増えた案件に対して、職員の手が足りていないらしい。決裁待ちの案件が滞り、表の揉め事が裏へ流れ、裏で片づくはずのものがまた表へ戻ってくる。普段ならどこかで止まる小火が、消えずに燻り続ける。実務をしている側だけが、じわじわと疲弊していくのが分かった。
少女は人づてに聞いたその話に、乾いた笑いを漏らした。
「……いい気味だ」
連邦生徒会には前から不満がある。アビドスが痩せ細っていくのを、遠くから眺めていただけの連中だ。今さら上が少し欠けたくらいで回らなくなるのなら、その程度だったというだけのことだ。
そう思っているのに、嫌な予感だけは薄れなかった。
綻びはだいたい、弱っている場所から燃える。
今のアビドスは、その弱っている場所の一つだった。
*
ブラックマーケットの空気が変わったのは、その少しあとだった。
露店に並ぶ品が変わる。倉庫街の奥に運び込まれる積荷が変わる。普段なら流れないものが、妙にあっさり流れ始める。
重火器。装甲部品。戦車の予備履帯。見慣れたガラクタや違法改造銃に混じって、どう考えても正規の管理下を離れるべきではないものが顔を出す。
少女は、雑に布を被せられた大型車両の前で足を止めた。
布の下からでも分かる輪郭だった。装甲。砲塔。足回り。売り物としてそこに置いていいはずのないものだ。
近くで同じ車両を見ていた別の売人が、素っ頓狂な声を上げる。
「おい、なんでトリニティで管理されてるはずのクルセイダーがこんなところに来るんだよ」
「上が止まってんだろ」
別の男が低く返した。
「だから流れてんだよ。今は通るもんが通っちまう」
誰も笑わない。
冗談で済む話ではなかったからだ。
少女は表情を変えないまま、その会話を聞いていた。
あの噂、本当なんだな。
心の中で、そう呟く。
連邦生徒会長がいない。だから抑えが利かない。だから、本来なら途中で止まるはずのものまで流れてくる。見えないところで誰かが誤魔化して、継ぎ足して、どうにか回していたものが、もう回りきらなくなっている。
火種は、確かに燻っていた。
しかも一つや二つじゃない。
*
それからの数日、少女は普段より長く外を見た。
アビドス旧市街の高所。山上の電波塔。使われなくなった建物の屋上。学校を見下ろせる場所を渡りながら、周囲の流れだけを追う。連邦生徒会がどうなろうと知ったことではない。キヴォトス全体が面倒なことになろうが、正直どうでもいい。
それでも、火がアビドスへ飛んでくるのは別だった。
各学園や街場で、小競り合いが目に見えて増えていく。半端者が調子に乗り始める。いつもなら締められる連中が締められず、そのまま一段悪い方へ転がっていく。裏で嗅ぎ回る連中は「今は動きやすい」と笑い、表で働く連中は「対応が追いつかない」と顔をしかめる。
連邦生徒会が不良生徒に襲撃されたという話が流れた時も、少女は助けに行かなかった。
行く義理がない。
そこまでしてやる理由がない。
ただ、その夜も高所からアビドスを見ていた。
校門。校舎脇の通路。旧市街へ抜ける道路。普段より双眼鏡を動かす回数が多い。火種が遠くで燃えるなら、それでいい。こっちへ飛んでこなければ、それでいい。
だが、嫌な予感だけは消えない。
遠くで騒ぎが起きていても、アビドスの夜は妙に静かだった。その静けさが、逆に信用できなかった。何も起きないのではなく、まだ来ていないだけだと、夜の空気そのものが言っているように思えた。
*
騒動のあと、街の流れは少しだけ元へ戻った。
完全ではない。けれど、止まりかけていたものがまた動き始める気配がある。ブラックマーケットに流れ込んでいた異常な品も、いくらか引っ込み始めた。危ない方向へ寄りすぎていた案件の流れも、少しだけ鈍る。
噂も新しくなった。
キヴォトスの外から来た大人が、連邦生徒会襲撃の騒動を収めたらしい。
それだけじゃない。シッテムの箱を使ってサンクトゥムタワーの権限を再起動し、連邦生徒会側へ権限が戻るようにしたとも聞く。仕組みの細部までは知らない。だが、止まりかけていたものが動き出したのなら、それで十分だった。
つまり、その大人は、一時的にキヴォトスそのものを握れるほどの権限へ触れた、ということだ。
そして、それを連邦生徒会側へ返した。
少女は小さく目を細めた。
「……自分の身の程を知ってるやつか」
風に流れるくらいの小さな声だった。
「あるいは」
そこで一度、言葉を切る。
「連邦生徒会長が、それほどの権限を一時的に預けてもいいと思う程度には、信頼に値する大人か」
どちらにせよ、普通じゃない。
その大人の所属も、すぐに耳へ入った。
連邦捜査部シャーレ。
連邦生徒会直属でも、どこかの学園所属でもない。キヴォトスの外から来た大人と、その拠点の名。
少女はその名を頭の中で一度だけ転がした。
連邦捜査部シャーレ。外から来た大人。
今のところ、アビドスには大きな火は回ってきていない。燻っていた火種も、一旦は押さえ込まれたように見える。少なくとも、連邦生徒会長不在の噂が広がり始めた頃よりはずっとマシだった。
なら、それでいい。
「……まあ、私には関係ない話だな」
双眼鏡を下ろす。
夜風が、赤いマフラーの端を揺らした。
下に見えるアビドスは、相変わらず痩せた学校だった。明かりは少ない。人も少ない。終わりかけた場所に見える。
それでも、まだ残っている。
だから見ている。
キヴォトス全体がどうなろうと知ったことではない。連邦生徒会にも今さら何も期待していない。外から来た大人が何を背負おうが、こちらの知ったことではない。
この時はまだ、本気でそう思っていた。
自分がその“連邦捜査部シャーレの先生”と、いずれ深く関わることになるとは。
この夜の時点では、想像すらしていなかった。