暖簾をくぐった瞬間、先生は足を止めた。
カウンターの端。
湯気の向こうに、見覚えのある緑色の外套があった。
脇には、巨大なガンバッグが立てかけられている。
ただの荷物には見えない厚みだった。
けれど、あの夜に見た一撃を思い出せば、先生にはむしろ納得のいく大きさだった。巨大な火器を正確に削り、戦場の形を外から崩したあの一発。あれだけの弾を通すなら、これくらいの大きさでも不思議はない。
ヒバリはフードを外していた。
髪は、黒に近い濃い紺色だった。
照明の下では、その青みだけがわずかに浮いて見える。
首元には赤いマフラーが巻かれている。
シロコのものと、どこかよく似た編み方だった。
顔立ちは整っているのに、頬から顎にかけて古い傷が細く散っていて、その印象をわざと壊していた。隠す気がないというより、もう隠す理由がないのだろうと感じる。
外套の下には、アビドスの制服が見えた。
制服を着ているのに、学校の中の誰より遠い場所にいるように見えた。
先生が立ち尽くしていると、ヒバリが嫌そうに目だけを向けた。
「……座れば?」
歓迎ではない。
追い返しもしない。
ただ、突っ立っているのが邪魔だと言いたげな声だった。
先生は、一つ空けた隣へ腰を下ろした。
「柴関ラーメン、一つ」
「はいよ」
柴大将の返事のあと、しばらくは湯気と麺を啜る音だけが続いた。
沈黙を破ったのは、ヒバリの方だった。
小さくため息をついてから、横目のまま言う。
「連邦捜査部シャーレの先生」
肩書きだけを置く。
名前では呼ばない。
そこにある距離が、そのまま今の関係だった。
「あんたのことは調べた」
先生は何も挟まなかった。
ヒバリは箸を置かずに続ける。
「アビドスが世話になっているらしいじゃないか」
一拍。
「……感謝はする」
その言葉だけが、少し意外なくらいまっすぐだった。
だが、すぐに声は冷える。
「ただし、信用しているわけではない」
視線が正面へ戻る。
湯気の向こうの横顔は、やはり硬い。
「見ているからな」
先生はラーメンの湯気を見たまま言った。
「それはどうも」
「軽いな」
「重く受け取ってるよ」
そこで初めて、ヒバリが先生の方をちゃんと見た。
「……ならいい」
それきり黙ってしまう。
話を終わらせるつもりかと思ったが、そうでもないらしい。完全に切る気なら、最初から口を開いていない。
先生は、立てかけられた巨大なガンバッグへ視線をやった。
「それ、かなり大きいね」
ヒバリは一瞬だけ目を細める。
「見れば分かるだろ」
「分かるけど、改めてね」
「ただの荷物じゃない、ってくらいは」
「それはもう知ってる」
その返しに、ヒバリは少しだけ黙った。
「……なら、聞く必要ないだろ」
「あるよ。あの夜の一撃を見たあとだと、むしろ納得したから」
先生がそう言うと、ヒバリはわずかに眉を動かした。
「納得?」
「それくらい入ってないと、あの火力にはならない」
ヒバリは数秒だけ先生を見たあと、興味をなくしたみたいに視線を戻した。
「……まあ、そうだな」
否定しなかった。
柴大将が湯切りをしながら、何気なく言う。
「先生、ニンニク入れるかい」
「お願いします」
「そっちの子はいつもそのままだな」
ヒバリはそれにも何も返さない。
常連らしい。そんなことが、かえって妙に引っかかった。
先生は少しだけ考えてから、外側の質問を一つだけ投げた。
「学校のことは、まだ見てるんだね」
ヒバリの箸が止まる。
「別に」
いつかホシノから聞いた言い回しに少し似ていた。
けれど、似ているのは言葉だけで、温度はまるで違う。
「潰れるのを見たくないだけだ」
それ以上は説明しない。
説明する気もないのだろう。
先生は無理に踏み込まなかった。
「そう」
「納得した顔をするな」
「してないよ」
「してる」
短いやり取りだった。
なのに、不思議と空気はさっきより少しだけ動いていた。近づいたわけではない。だが、完全な拒絶でもなくなっている。
先生は改めて、ヒバリの横顔を見る。
古傷。
縄の痕。
制服。
巨大なガンバッグ。
屋台の湯気。
全部が一枚の絵に収まっているのに、どこにも収まりがよくない。
ヒバリは気づいていた。
「見るな」
「見えるからね」
「見世物じゃない」
「そうだね」
その即答に、今度はヒバリが少しだけ言葉に詰まった。
黙り込む。
それから、諦めたみたいにスープを飲み干した。
ヒバリの方が先に食べ終えた。
箸を置く音は小さい。
けれど、屋台の狭い空間では妙にはっきり聞こえた。
立ち上がる。
脇に立てかけてあった巨大なガンバッグを軽く持ち上げ、肩に預ける。その動作だけで、あれがただの荷物ではないと改めて分かる。
「柴大将、美味かった」
ぶっきらぼうだった。
それでも、社交辞令で言っている声ではない。
「おう。また来い」
ヒバリはそれに答えず、暖簾を押して夜の中へ出る。
緑色の外套が一度だけ揺れ、姿はすぐに見えなくなった。
しばらく、湯気と丼の音だけが残る。
先生がまだ暖簾の方を見ていると、柴大将が湯切りの手を止めずに言った。
「昔から来るんだ、あの子は。今みたいになる前からな」
「昔から……」
「まだ、もう少し顔が生きてた頃だ」
その表現に、先生は小さく息を止めた。
大将はやはり多くは語らない。
だが、その短い言葉だけで十分だった。
「最初のうちは、よく噛みついてたよ。世の中全部気に食わないって顔してな」
少しだけ笑う。
「今も大して変わらんか」
先生もつられてわずかに口元を緩めたが、すぐに真顔へ戻る。
「でも、あの傷は……」
最後まで言い切らずに止める。
大将は頷きもしないし、否定もしない。
「聞くな、とは言わん」
静かな声だった。
「だが、今はやめとけ」
「……はい」
「ありゃ、説明できるような類のもんじゃない。少なくとも、あの子にとってはな」
屋台の湯気が、夜気に薄く溶けていく。
先生は黙ったまま、空いたカウンターの端を見る。
ついさっきまでそこにあった、見覚えのある緑色だけが、まだ目の奥に残っていた。