アビドスに、もう一人の三年生がいた   作:ゴリさん39

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第8話 緑の外套

 

 暖簾をくぐった瞬間、先生は足を止めた。

 

 カウンターの端。

 湯気の向こうに、見覚えのある緑色の外套があった。

 

 脇には、巨大なガンバッグが立てかけられている。

 ただの荷物には見えない厚みだった。

 

 けれど、あの夜に見た一撃を思い出せば、先生にはむしろ納得のいく大きさだった。巨大な火器を正確に削り、戦場の形を外から崩したあの一発。あれだけの弾を通すなら、これくらいの大きさでも不思議はない。

 

 ヒバリはフードを外していた。

 

 髪は、黒に近い濃い紺色だった。

 照明の下では、その青みだけがわずかに浮いて見える。

 

 首元には赤いマフラーが巻かれている。

 シロコのものと、どこかよく似た編み方だった。

 

 顔立ちは整っているのに、頬から顎にかけて古い傷が細く散っていて、その印象をわざと壊していた。隠す気がないというより、もう隠す理由がないのだろうと感じる。

 

 外套の下には、アビドスの制服が見えた。

 制服を着ているのに、学校の中の誰より遠い場所にいるように見えた。

 

 先生が立ち尽くしていると、ヒバリが嫌そうに目だけを向けた。

 

「……座れば?」

 

 歓迎ではない。

 追い返しもしない。

 ただ、突っ立っているのが邪魔だと言いたげな声だった。

 

 先生は、一つ空けた隣へ腰を下ろした。

 

「柴関ラーメン、一つ」

 

「はいよ」

 

 柴大将の返事のあと、しばらくは湯気と麺を啜る音だけが続いた。

 

 沈黙を破ったのは、ヒバリの方だった。

 

 小さくため息をついてから、横目のまま言う。

 

「連邦捜査部シャーレの先生」

 

 肩書きだけを置く。

 名前では呼ばない。

 そこにある距離が、そのまま今の関係だった。

 

「あんたのことは調べた」

 

 先生は何も挟まなかった。

 

 ヒバリは箸を置かずに続ける。

 

「アビドスが世話になっているらしいじゃないか」

 

 一拍。

 

「……感謝はする」

 

 その言葉だけが、少し意外なくらいまっすぐだった。

 

 だが、すぐに声は冷える。

 

「ただし、信用しているわけではない」

 

 視線が正面へ戻る。

 湯気の向こうの横顔は、やはり硬い。

 

「見ているからな」

 

 先生はラーメンの湯気を見たまま言った。

 

「それはどうも」

 

「軽いな」

 

「重く受け取ってるよ」

 

 そこで初めて、ヒバリが先生の方をちゃんと見た。

 

「……ならいい」

 

 それきり黙ってしまう。

 話を終わらせるつもりかと思ったが、そうでもないらしい。完全に切る気なら、最初から口を開いていない。

 

 先生は、立てかけられた巨大なガンバッグへ視線をやった。

 

「それ、かなり大きいね」

 

 ヒバリは一瞬だけ目を細める。

 

「見れば分かるだろ」

 

「分かるけど、改めてね」

 

「ただの荷物じゃない、ってくらいは」

 

「それはもう知ってる」

 

 その返しに、ヒバリは少しだけ黙った。

 

「……なら、聞く必要ないだろ」

 

「あるよ。あの夜の一撃を見たあとだと、むしろ納得したから」

 

 先生がそう言うと、ヒバリはわずかに眉を動かした。

 

「納得?」

 

「それくらい入ってないと、あの火力にはならない」

 

 ヒバリは数秒だけ先生を見たあと、興味をなくしたみたいに視線を戻した。

 

「……まあ、そうだな」

 

 否定しなかった。

 

 柴大将が湯切りをしながら、何気なく言う。

 

「先生、ニンニク入れるかい」

 

「お願いします」

 

「そっちの子はいつもそのままだな」

 

 ヒバリはそれにも何も返さない。

 常連らしい。そんなことが、かえって妙に引っかかった。

 

 先生は少しだけ考えてから、外側の質問を一つだけ投げた。

 

「学校のことは、まだ見てるんだね」

 

 ヒバリの箸が止まる。

 

「別に」

 

 いつかホシノから聞いた言い回しに少し似ていた。

 けれど、似ているのは言葉だけで、温度はまるで違う。

 

「潰れるのを見たくないだけだ」

 

 それ以上は説明しない。

 説明する気もないのだろう。

 

 先生は無理に踏み込まなかった。

 

「そう」

 

「納得した顔をするな」

 

「してないよ」

 

「してる」

 

 短いやり取りだった。

 なのに、不思議と空気はさっきより少しだけ動いていた。近づいたわけではない。だが、完全な拒絶でもなくなっている。

 

 先生は改めて、ヒバリの横顔を見る。

 

 古傷。

 縄の痕。

 制服。

 巨大なガンバッグ。

 屋台の湯気。

 

 全部が一枚の絵に収まっているのに、どこにも収まりがよくない。

 

 ヒバリは気づいていた。

 

「見るな」

 

「見えるからね」

 

「見世物じゃない」

 

「そうだね」

 

 その即答に、今度はヒバリが少しだけ言葉に詰まった。

 

 黙り込む。

 それから、諦めたみたいにスープを飲み干した。

 

 ヒバリの方が先に食べ終えた。

 

 箸を置く音は小さい。

 けれど、屋台の狭い空間では妙にはっきり聞こえた。

 

 立ち上がる。

 脇に立てかけてあった巨大なガンバッグを軽く持ち上げ、肩に預ける。その動作だけで、あれがただの荷物ではないと改めて分かる。

 

「柴大将、美味かった」

 

 ぶっきらぼうだった。

 それでも、社交辞令で言っている声ではない。

 

「おう。また来い」

 

 ヒバリはそれに答えず、暖簾を押して夜の中へ出る。

 緑色の外套が一度だけ揺れ、姿はすぐに見えなくなった。

 

 しばらく、湯気と丼の音だけが残る。

 

 先生がまだ暖簾の方を見ていると、柴大将が湯切りの手を止めずに言った。

 

「昔から来るんだ、あの子は。今みたいになる前からな」

 

「昔から……」

 

「まだ、もう少し顔が生きてた頃だ」

 

 その表現に、先生は小さく息を止めた。

 

 大将はやはり多くは語らない。

 だが、その短い言葉だけで十分だった。

 

「最初のうちは、よく噛みついてたよ。世の中全部気に食わないって顔してな」

 

 少しだけ笑う。

 

「今も大して変わらんか」

 

 先生もつられてわずかに口元を緩めたが、すぐに真顔へ戻る。

 

「でも、あの傷は……」

 

 最後まで言い切らずに止める。

 

 大将は頷きもしないし、否定もしない。

 

「聞くな、とは言わん」

 

 静かな声だった。

 

「だが、今はやめとけ」

 

「……はい」

 

「ありゃ、説明できるような類のもんじゃない。少なくとも、あの子にとってはな」

 

 屋台の湯気が、夜気に薄く溶けていく。

 

 先生は黙ったまま、空いたカウンターの端を見る。

 ついさっきまでそこにあった、見覚えのある緑色だけが、まだ目の奥に残っていた。

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