第9話 緑の亡霊
夜のブラックマーケットは、腐った鉄の匂いがした。
表通りの喧騒から一歩外れた倉庫街。潰れた工場を継ぎ足して作ったような施設の中で、不良たちはだらしなく椅子を鳴らしていた。天井からぶら下がった照明は白く、安っぽく、どこか病院みたいに冷たい。
「今回、マジで当たりだろ」
銃を膝に乗せた不良生徒が、欠伸混じりに笑った。
「ただの護衛だろ? ここで突っ立ってるだけで金になるとか、世の中ちょろすぎ」
別の仲間が鼻で笑う。
「だよな。しかも相手は素人上がりの流れ者だって話だろ。大物同士の取引って言っても、ここまで兵隊並べりゃ寄って来るわけねえ」
施設の奥では、金属ケースが二つ、開けられたまま机の上に置かれていた。中身は見えない。見るなと言われている。報酬が良い仕事ほど、そこには触れない方がいい。全員がその程度の勘だけは持っていた。
だから油断した。
いつも通りの夜。仲間とだべって、適当に笑って、面倒が起きなければ朝まで座って終わる。そんな仕事のはずだった。
「おい、外の見張りから返事来たか?」
誰かが無線へ向かって言った。
返事がない。
「寝てんじゃねえの」
笑いが起きる。
その直後だった。
――パァン。
乾いた発砲音が、天井の近くで響いた。
照明が一つ、弾けた。
白い光が砕け、ガラス片が床へ散る。部屋の端が急に暗くなる。
「……は?」
誰かの間の抜けた声。
次の瞬間、二発目。三発目。
照明が、順番に落ちていった。
パァン。
パァン。
パァン。
白かった空間が、端から喰われるみたいに暗くなる。倉庫の隅。通路の角。階段の途中。出口脇。必要な場所だけを狙い撃ちにされているのが、かえって気味が悪かった。
「どこだ!?」
「撃ってんのはどこだよ!」
怒鳴り声が跳ねる。誰かが慌てて銃口を上へ向ける。別の誰かは出口へ走ろうとして止まる。暗くなったのは、見えなくなっただけじゃない。どこから見られているのかが分からなくなったのだ。
無線がノイズを吐いた。外の見張りからの声は、結局最後まで入らなかった。
「外、やられてるぞ……!」
その言葉が最後まで広がる前に、すぐ近くでワイヤーの鳴る音がした。
金属が噛む、短い音。
それだけだった。
「……上だ!」
叫んだ仲間の身体が、次の瞬間、横へ吹き飛んだ。
何がぶつかったのか、最初は誰にも見えなかった。ただ、仲間の一人が壁に叩きつけられ、そのまま嫌な音を立てて崩れた。それだけで十分だった。
「撃て!!」
銃声が一斉に弾ける。
暗がりへ、柱へ、通路へ、影へ。半ばパニックでばら撒かれた弾丸が、コンクリートを削り、鉄骨を打ち、埃を舞わせる。
その中を、何かが突っ込んできた。
大きい。
盾だった。
いや、盾みたいに前へ押し出された、分厚いガンバッグだった。人間一人の上半身をそのまま隠せそうなそれが、物陰からぬっと現れ、そのまま真っ直ぐ前へ出てくる。
「う、うお――」
叫んだ仲間の声は最後まで続かなかった。
それが、そのままぶつかった。
鈍い音。
肺の空気が潰れる音。
人間が軽々しく横へ吹き飛ぶのを見て、残った連中の足が一斉に止まる。
月明かりが、砕けた窓の隙間から差し込んだ。
その光の中に、緑色が見えた。
外套。
フード。
大きすぎるガンバッグ。
物陰の輪郭から半歩だけ出てきた人影。
誰かが、喉の奥で潰れた声を漏らす。
「ひっ……」
それは名前じゃなかった。呼びかけでもない。ブラックマーケットの連中が、本当に遭いたくない相手を思い出した時にだけ出る、嫌な震えだった。
「緑の亡霊――」
その言葉を言い切る前に、視界がガンバッグの縁で塞がれた。
世界が裏返る。床か壁かも分からない衝撃。そこで、不良の意識は途切れた。
*
「馬鹿かお前ら……!」
施設の奥、取引机の脇にいた主犯格の男が唾を飛ばした。
護衛は崩れた。照明は落とされた。外の見張りは沈黙。銃声はまだ続いているのに、どこから来ているのか分からない。もう立て直せる空気じゃない。
その隣で、もう一人が青ざめた顔でケースを抱え上げる。
「逃げるぞ!」
「荷は持て! 報酬分だ!」
二人は出口脇の車へ飛び込んだ。エンジンが唸る。タイヤが砂利を噛む。頭から出口へ突っ込むように加速した、その瞬間。
――ドンッ。
破裂音は重かった。
ただの拳銃じゃない。そう分かる音だった。
前輪が裂けた。
車体が横へ滑る。ハンドルが取られ、横倒しに近い角度のまま壁へ叩きつけられる。金属が悲鳴を上げ、フロントガラスが白く砕けた。
「げほっ……!」
ドアが蹴り開く。主犯格の一人が這い出る。もう一人も血まみれの額を押さえながら外へ落ちた。
「く、そ……どこだ……!」
返事の代わりに、足音が一つだけした。
物陰の奥。
照明の落ちた壁際から、緑色がゆっくりと浮く。
外套。
フードの陰。
月明かりに少しだけ触れた顔は、思っていたより若かった。若いのに、傷ばかりが先に目に入る。頬の線。顎の端。首筋。人間の顔にあるはずの滑らかさを、古傷が全部削っていた。
手には、馬鹿みたいに大きいリボルバー。
S&W M500。
その銃口が、二人の真ん中へゆっくり向く。
ヒバリは物陰から半歩だけ出た。月明かりに、濁った黒い瞳だけが冷たく浮く。
「逃げるなよ」
「報酬がなくなるだろ?」
その一言で、主犯格の男は理解した。
これは脅しじゃない。
仕事だ。
自分たちは獲物だ。
「ま、待て……金なら――」
最後まで言わせてもらえなかった。
ヒバリが撃ったわけではない。ガンバッグが振り抜かれた。
鈍い音。主犯格の一人が横へ転がる。もう一人が悲鳴を上げて後ずさるが、その足元へワイヤーが走り、次の瞬間には足首ごと引き倒される。
「やめろ! やめろって!」
「うるさい」
ヒバリの声は変わらない。
縄が出る。いつから持っていたのか分からないくらい自然に、二人の手首が後ろでまとめられていく。抵抗した片方の肩へ、ヒバリはガンバッグを盾みたいに押し込んだ。体重ごと潰されて、相手の声が途切れる。
「立つな。引きずる」
それだけ言って、縄を引いた。
主犯格二人の身体が、砂混じりの床をずるりと滑る。抵抗するたびに、肩や膝が床を打って嫌な音がした。ヒバリは振り返りもしない。緑の外套だけが、照明の死んだ施設の中をゆっくり進んでいく。
途中、まだ息のある護衛がその姿を見て、顔色を失った。
誰も助けに入らない。
入れる空気じゃなかった。
緑の亡霊。
その二つ名だけが、照明の死んだ施設の暗がりに残る。
傷だらけの顔が月明かりに一瞬だけ晒され、次の瞬間にはもう闇に沈んだ。縄で繋いだ二人を引きずったまま、緑の外套はブラックマーケットの夜へ消える。