報酬は、机の上に並べられていた。
黒いケース。封のされた札束。それと、情報料の分だけ別に分けられた薄い封筒。
向かいに座る男は、最初から最後まで落ち着きがなかった。指先が机を叩きそうになって、叩かない。煙草に火をつけそうになって、やめる。視線は何度かヒバリの顔へ向かいかけて、そのたびに脇へ逸れた。
部屋の中には他にも人間がいた。だが、誰も口を開かない。
ブラックマーケットでは珍しいことじゃない。緑の亡霊が仕事を終えたあとの部屋は、だいたいこうなる。
「……裏拠点は、もう使えない」
男がようやく言った。
「倉庫二つ、搬入口一つ、流しの兵站ルートも潰れた。しばらくはあいつら、この区画じゃ身動き取りづらいだろうな」
ヒバリは札束へ指先を伸ばした。
数えない。重さと厚みだけでだいたい足りる。
「依頼料はそれで全部だな」
「ああ」
「情報料は」
男が、薄い封筒を指で押した。
「こっちだ。約束通り、上乗せしてある」
「少ない」
男の喉がひくりと動く。
「……上乗せはした」
「しただけだろ」
ヒバリの声は低い。怒鳴っていない。だが、その場にいる全員が、これ以上粘る気を失うには十分だった。
「カイザーの裏拠点を一つ潰すだけで済んだと思ってるなら、頭が軽い。あいつらの増設ルートまで割れた。流通の癖も読めた。次に潜る時は、もっと深いところまで行ける」
沈黙。
男は舌打ちしそうになって、できなかった。代わりに引き出しを開けて、もう一つ封筒を机へ置く。
「……追加だ」
「最初からそうしろ」
ヒバリはそれを受け取る。
そこでようやく、男の肩から見えない重さが少しだけ抜けた。
「しかし、よく一晩で片づけたな」
部屋の端にいた別の男が、思わずという顔で漏らした。すぐに余計なことを言ったと気づいたらしい。口をつぐむ。だが、もう遅い。
ヒバリはそちらを見もしない。
「一晩かかった時点で遅い」
それだけ落として、封筒を外套の内側へ差し込んだ。
カイザーが元からこの辺りに食い込んでいたのは知っている。ブラックマーケットの中で、自分のシマを持っているのも。
問題は、最近になってその境目を曖昧にし始めたことだった。
裏で兵を増やす。物の流れを変える。別口の倉庫を押さえる。そういう細かい動きは、表通りだけを見ている連中には見えない。
だから先に見ていた。念のため。それだけのつもりだった。
結果として、裏拠点が見つかった。
それを売った。
潰すなら依頼を出せと言った。
出たからやった。
それだけだ。
「……また何か掴んだら、先に流してくれ」
男が言った。商売の声だった。感謝ではない。期待でもない。ただ、使える災害を手元へ引き寄せておきたいだけの声。
ヒバリは立ち上がる。
「金次第だ」
脇に立てかけていたガンバッグを肩へ預ける。その動きだけで、部屋の空気がまた少し硬くなる。誰もその荷物に視線を合わせたがらない。形だけで、何人かはそれが何をしてきたか知っているからだ。
扉へ向かう。背後から、遠慮がちに声が飛んだ。
「……おい」
足は止めない。
それでも向こうは言った。
「カイザー、まだ広げる気だと思うか」
ヒバリは片手で扉を押した。
「思うから潰した」
夜風が、隙間から部屋へ流れ込む。
「次があると思って動け」
それだけ残して、外へ出た。
*
仮拠点へ戻る頃には、ブラックマーケットの喧騒も少しだけ鈍っていた。
寝ない街と言われても、夜が深くなれば声は変わる。怒鳴り声は減り、代わりに低い笑いと、遠くの金属音と、酔った足音だけが残る。
半壊した雑居ビルの三階。軋む扉を押して中へ入る。
狭い。
板を打ちつけた窓。簡易ベッド。折り畳み机。壁に寄せた弾薬箱と工具。生活感は薄い。だが、無機質でもない。雑に見えて、必要なものだけはすぐ手が届く位置にある。
ヒバリはガンバッグを壁へ立てかけた。
外套を脱ぐ。袖と肩口についた埃を軽く払う。血の跡は薄い。ほとんど返り血じゃない。相手が吹っ飛んだ時に散ったものだ。どうでもいい。
M500を抜く。シリンダーを開く。
残弾確認。
使った数だけを頭の中で戻す。余計な弾は出していない。タイヤに一発。威嚇に一発も使っていない。いい。問題ない。
M82側は今日は深く触らない。砂と焦げ跡を軽く拭うだけで十分だ。ワイヤーも目に見えるほつれはない。今夜のところはそれで終わりにする。
机へ腰を掛ける。封筒を取り出す。
一つは情報料。
一つは依頼料。
一つは追加分。
黒い封筒の口を切り、中身を机に並べる。その途中で、ふと手が止まる。
明日、戻るか。
口には出さない。だが、頭の中でその言葉はもう決まっていた。
週に二回。
向こうへ入るのは、長くて二日。
それ以上は要らない。居つく気もないし、顔を出す気もない。ただ見て、落として、また戻る。それだけでいい。
封筒を二つに分ける。自分の取り分と、それ以外。
指先は迷わない。ほとんど癖だ。考える前に仕分けが終わる。
明日の夜にアビドスへ入る。
その次の朝まではいない。昼に目立つのは面倒だ。夜のうちに校舎を見る。ポストへ落とす。必要があれば屋上も見る。二日目の夜にはまた戻る。
それで十分。
机の端に封筒を寄せながら、不意に顔が浮かぶ。
現場にいたアビドスの後輩たち。
静かに前へ出る子。
柔らかいのに芯がある子。
うるさいが、あれはあれで真っ直ぐな子。
無線の向こうで頭を回している子は、そこにいないのに現場の空気を変える。
今のアビドス。
ああいうのが残っているのか、と、考えたくもないのに思う。だから余計に面倒だ。
もう一つ、別の顔が浮かんだ。
柴関ラーメンの湯気の向こう。
連邦捜査部シャーレの先生。
来る時期が二年遅い。
その事実だけで十分腹立たしい。
二年前、こっちは救援を出していた。返事はなかった。何も来なかった。それが今さら、先生だ、シャーレだと寄越されても、遅すぎる。
……あれ個人のせいじゃないことくらい、分かっている。
最近就任した。その程度のことは調べがついている。だから全部をあれ一人に被せる気はない。
それでも。
連邦生徒会が遅かった事実は消えない。その遅さの上に、今のアビドスがある。
そこまで考えて、ヒバリは小さく舌打ちした。
「面倒だな」
誰に向けた言葉でもない。
先生の顔が浮かぶ。
そのすぐ後に、救い出されたばかりのホシノの顔まで浮かびかける。後輩たちに囲まれて、少しだけ緩んでいた、あの顔。
ヒバリは目を閉じた。
要らない。
今、考えることじゃない。
机の上の封筒を重ねる。明日の分だけ脇へ寄せる。照明を落とす。
薄暗くなった部屋で、仮拠点の天井を一度だけ見上げた。
ここは寝る場所だ。
考え込む場所じゃない。
ヒバリはベッドへ倒れ込む。靴は脱がない。上着も半分だけ。いつもの癖だ。
板を打ちつけた窓の向こうで、ブラックマーケットの音がまだざらついている。その中で、二年前に返らなかった救援と、今さら来た先生の顔だけが胸の奥に少し残っていた。
ヒバリはもう一度だけ舌打ちして、目を閉じた。
明日、アビドスへ行く。
そのまま、眠った。