夢だと気づく前から、空気が今より軽かった。
砂の匂いは同じはずなのに、重さが違う。窓の外に広がるアビドスの空は、今と同じように乾いているのに、まだ終わっていない色をしていた。
対策委員会室の扉は開きっぱなしで、風が紙を揺らしている。部屋の真ん中では、ユメが笑っていた。
「だからね、そこはもっとこう、勢いで何とかなると思うんだよ」
「なるわけないでしょ」
ヒバリは即座に返した。
「姉さんの“何とかなる”は、何ともならない時の方が多い」
「ひどいなあ」
口ではそう言いながら、ユメは少しも堪えていない顔で笑う。
その向かいで、ホシノが机に肘をつきながら、小さく息を吐いた。
「……最初から分かってるなら、止めればいいでしょ」
「止めてる」
ヒバリはそちらを見ずに言う。
「効いてないだけ」
「じゃあ意味ないじゃん」
その一言だけで、ヒバリはホシノを睨んだ。
「何」
「別に」
ホシノは肩をすくめる。
「すぐ噛みつくなって思っただけ」
「そっちが姉さんに近い」
「は?」
ホシノが眉をひそめる。
「何それ」
「そのまま」
ぴくりと、ホシノの眉が動く。
ユメが、そこでようやく二人の間に入った。
「はいはい、そこまで。二人とも喧嘩しない」
「してない」
ヒバリは言う。
「してるでしょ」
ホシノが言う。
ほとんど同時だった。
ユメが吹き出す。
「ほら、やっぱり似てる」
「「似てない」」
また二人同時だった。
ユメは、何もかも面白いみたいな顔で笑う。
ヒバリは、それが嫌いじゃなかった。
嫌いじゃないからこそ、気に入らなかった。
姉さんの隣は、自分の場所だと思っていた。少なくとも、同級生の誰かが当然みたいに入り込んでいい場所ではない。
なのにホシノは、そこにいる。
普通にユメと話して、普通に呆れて、普通に支えるみたいな顔をする。今のホシノほど丸くない。言い方もきついし、棘もある。誰にでも近づけるような顔じゃない。
だから余計に腹が立つ。
「姉さん、今日の見回りは私も行く」
「あ、私も」
「来なくていい」
「なんで」
「なんででも」
ユメが困ったように首を傾げた。
「ヒバリ、ホシノちゃんだって手伝ってくれてるんだから」
「頼んでない」
「頼まれなくてもやること、あるでしょ」
「姉さんの隣にいること?」
空気が、ぴたりと止まった。
ホシノの眉がゆっくり寄る。
「何それ」
「そういう顔してる」
「どんな顔」
「気に入らない顔」
「知らない」
ユメが、また少しズレたところで笑って止めに入る。
「もう、またそうやって張り合う」
張り合ってない。
そう言いたかった。けれど言う前に、ユメはホシノの方を向く。
「ホシノちゃんも、もうちょっと素直になろうね」
「……なんで私だけみたいな言い方になるの」
「だってホシノちゃん分かりにくいし」
「姉さん」
ヒバリが呼ぶ。少し強めに。
ユメは「あ、ごめんごめん」と軽く笑って、ようやくこっちを見る。
それがまた気に入らない。
毎回そうだ。姉さんは、きっと本気で分かっていない。自分が原因でこうなっているなんて思っていない。ただ、ホシノの方が少し不器用で、少し危なっかしく見えるから、ついそっちへ手を伸ばしてしまう。
ヒバリから見れば、毎回ホシノの肩を持っているようにしか見えないのに。
「ヒバリも、そんな顔しないの」
「どんな顔」
「今の顔」
「姉さんがそうさせてる」
「えぇ?」
本当に分かっていない声だった。
ホシノが小さく笑った。
それが聞こえた瞬間、ヒバリは椅子を鳴らして立ち上がる。
「何笑ってるの」
「笑ってない」
「笑った」
「気のせい」
「気のせいじゃない」
ユメがまた間に滑り込む。
「はい、終わり! 二人とも今日はそこまで!」
細いのに、妙なところで強い。昔からそうだった。
ユメはヒバリの肩を押し、ホシノを目で制し、それから両方を見て笑う。
「喧嘩するなら、せめてお互い余裕がある日にしなよ。今の二人、どっちも余裕ないでしょ」
またズレている。
でも、そのズレ方すら懐かしかった。
*
場面がふっと変わる。
夢はいつもそうだ。何の繋がりもなく、光だけが変わる。
夕方だった。
校舎の廊下が、橙に長く染まっている。窓の外では、砂が風に流されていた。
ヒバリは荷物を持っていた。いつもより少し大きい鞄。数日分。アビドスを空けるための荷物だ。
連邦生徒会へ行く。抗議する。何でこの学校がここまで削られているのに放っておくのか、直接言ってやる。
そう決めた時の苛立ちまで、夢の中には残っていた。
姉さんは止めなかった。困った顔はしたけれど、最後には「行っておいで」と言った。ヒバリが行かなきゃ気が済まないことも、少しくらいは分かっていたのかもしれない。
「本当に数日で戻るんだよ」
「戻る」
「喧嘩しない?」
「誰と」
「ホシノちゃんとか」
「するわけない」
それが嘘だと分かっている顔で、ユメは笑った。
「まあ、戻ったらまた言い合いになるんだろうけど」
「ならない」
「なるよ。二人とも頑固だし」
「姉さんがあいつの肩持つからでしょ」
「またそういうこと言う」
ユメは軽く笑って、ヒバリの額を指先で小突く。
「私がいない間に、ホシノちゃんとちゃんと話しなよ」
「嫌」
「即答だね」
「姉さんも、あいつにばっかり共感しないで」
「してないって」
「してる」
ユメは少し考えるように首を傾げたあと、結局また笑った。
「ヒバリって、ほんと分かりやすいね」
「姉さんが鈍いだけ」
そう返した時、確かにユメはいた。
そこにいて、笑って、触れて、声を返した。
夢の中では、そこから少しずつ景色が曖昧になる。
ユメとホシノが、少し先を歩いている。何かを話している。声は聞こえない。ただ、二人の背中だけが妙にはっきり見えた。
行かなきゃいけない、と思った。
姉さんを呼びたい。ホシノにも何か言いたい。分からないのに、置いていかれるのだけは駄目だと、夢の中の自分はちゃんと分かっている。
なのに。
足が、勝手に逆へ動いた。
一歩。
また一歩。
自分の意思とは関係なく、姉さんとホシノから離れる方へ、身体だけがするすると滑っていく。
「待って」
声に出したはずなのに、届かない。
「姉さん」
呼んでも、振り向かない。
ホシノも、気づかない。
二人の背中が遠ざかる。追いたいのに、足は止まらない。戻りたいのに、勝手に離れていく。
やめろ、と心の中で何度も思う。
それでも身体だけが言うことを聞かない。
置いていかれる。
そこで、夢は途切れた。
*
目が覚めた時、喉の奥だけがひどく乾いていた。
天井は低い。板で塞いだ窓の隙間から、ブラックマーケットの薄汚れた朝の光が差している。
仮拠点。
夢の温度だけが、まだ皮膚の下に残っていた。
ヒバリは息を吐く前に、小さく舌打ちした。
最悪だ。
毎回だ。アビドスへ行く前の日は、だいたいこうなる。同じ夢。少しずつ違うのに、最後だけは変わらない。楽しかった頃を見せておいて、最後にそれを持っていく。
起きた瞬間から、機嫌は最低だった。
ベッドから起き上がる。顔を洗う気にもならない。だが、行くと決めた以上は行く。
机の上の封筒を一つ取る。アビドスに落とす金だ。
外套を羽織る。緑色が肩を覆う。首元を直す。動き始めるまでに必要なことだけをして、ヒバリは扉を開けた。
今日はアビドスへ行く。
胸の奥の濁りは、消えないまま連れていくしかなかった。