アビドスへ入る時、ヒバリはいつも校門を使わない。
使う理由がない。正面から入るのは、見つかりたい人間のやることだ。
だから今夜も、崩れた外壁の低いところを越え、砂を噛まない角度だけを選んで校舎の裏へ回った。
夜のアビドスは静かだ。
静かすぎて、逆に些細な変化が浮く。
一つ目の違和感は、すぐに見つかった。
カメラが増えている。
以前は無かった位置。あっても一台で済ませていた死角。屋上へ抜ける通路の角。旧校舎へ向かう中庭寄りの壁際。見る人間が見れば、最近まとめて付けたと分かる雑さで、何台か増設されていた。
ヒバリは足を止め、少しだけ視線を細める。
面倒だ。
死角が減る。入る角度を考え直さないといけない。今まで通りの動き方では、余計なところで足を止めることになる。
だが、悪くない。
警戒心が上がっている証拠ではある。
……今までが無さすぎただけだが。
カイザーを警戒しているのか。それとも、自分を見つけたいのか。
ホシノがどこまで喋ったのかは知らない。助けたことだけ話したのか。金のことまで話したのか。あるいは何も言わず、対策委員会の方で勝手に勘づいたのか。
どちらでもいい。
少なくとも、ようやく少しはマシになった。
ヒバリは壁に手をつき、カメラの死角だけを拾って滑るように進む。
校舎裏。非常口。保健室の窓。廊下の隅。消耗の早い場所から順に見る。
夜の巡回は、もう癖だった。
壊れかけた蝶番。緩んだ窓枠。救急箱の減り。机の脚の歪み。日中、誰がどれだけ使ったかを、残った形だけで拾う。
メモは短い。長く書く必要がない。必要なものだけ分かればいい。
保健室の包帯、減り早い。
二階東側、窓枠次で駄目。
部室の椅子、一脚そろそろ限界。
屋上扉、蝶番交換要。
いつも通り。
そのはずだった。
対策委員会室へ続く棟の窓に目が行った時、ヒバリは思わず眉を寄せた。
灯りがついている。
深夜だ。時間帯を考えれば、寝ている方が普通だった。しかも部室だ。見回りのために点けっぱなしにする場所でもない。
誰かいる。
待っているのか。偶然か。それとも、ここ数日の変化全部がそのためか。
カメラ。
灯り。
夜中の部室。
分かりやすい。
分かりやすすぎて、逆に腹が立つ。
ヒバリは一度だけ、舌打ちを飲み込んだ。
本来なら、見ない。金とメモを置いて帰る。それが一番面倒がない。
だから先に、いつもの仕事だけを終わらせた。
旧校舎へ回る。
今は使われていない棟。砂が積もり、昼間でも誰も寄らない場所。昔からの癖で、ポストだけはまだ生きている。
封筒を入れる。
その中に金と、事務的なメモ。
いつもなら、それで終わりだった。
だが今夜は、ポストの口に小さな紙が挟まっていた。
付箋。
ヒバリは指先でそれを摘まむ。
ヒバリさん
いつもありがとうございます
一瞬、頭の中が真っ白になった。
次に来たのは、苛立ちだった。
礼を言うな。
気づくな。
勝手にまとめるな。
喉元まで上がった言葉を、そのまま押し込める。
紙は破らない。丸めもしない。ただ、見たまま数秒止まってから、ヒバリはそれを封筒の脇へ折って差し込んだ。
……余計なことをする。
胸の奥が、嫌な形でざわつく。
だから余計に、あの灯りが気になった。
帰る前に、一度だけ。
その一度だけのつもりで、ヒバリは対策委員会室の外壁沿いへ戻る。
窓の位置は変わらない。カーテンは半分だけ開いていた。中を覗ける。覗かせる気なのかもしれない。そこまで考えて、また苛立つ。
ヒバリは壁に身を寄せたまま、ほんの少しだけ顔を出した。
中にいたのは、一人だった。
静かな二年の子。
名前は知らない。だが、見覚えはある。一年前、遠回しに見たことがある。校舎の端で、荷物を持って走っていた小さい背中。ホシノの後ろにくっついていた記憶。
……成長しすぎじゃないか。
ヒバリは思わず真顔で見た。
もっと小さかった気がする。少なくとも、こんなにすらりとしていなかった。静かなのは変わらない。座っている姿勢も同じだ。だが輪郭が違う。線が伸びている。時間だけが勝手に通ったみたいに、ちゃんと成長している。
何でだ。
ずるいだろ。
いや、今そこじゃない。
内心で自分に突っ込みを入れる。こんなところで何を気にしているのか。深夜の学校。覗き。待ち伏せの気配。カメラ増設。考えるべきことはいくらでもある。
なのに目の前の二年の成長具合に意識を持っていかれる自分に、余計腹が立つ。
室内では、その静かな二年の子が机に何か広げていた。地図か、メモか、手書きの配置図か。顔を上げない。だが、ただ起きているだけではない。明らかに考えている顔だった。
待っている。
誰を、とは言わない。言わなくても分かる気がして、ヒバリはまた嫌な顔をする。
その時だった。
ふと、相手が顔を上げた。
窓の外。
暗がり。
壁際。
目が合った。
一拍。
向こうの表情が、ほとんど動かなかったのが逆にまずい。
叫ばない。慌てない。ただ、確かにそこを見る。気づいた人間の目だった。
ヒバリは反射で身を引いた。
思考より先に体が動く。窓辺から離れる。死角へ滑る。足音は残さない。外套の裾だけが一瞬、夜に溶けた。
次の瞬間には、校舎の影へ消えていた。
背後で、窓が少しだけ開く音がした。
「……今、いた」
小さな声。
追ってこない。だが、見失ってはいない声だった。
ヒバリは舌打ちした。
面倒だ。
本当に面倒だ。
校門へは戻らない。中庭を切って、旧校舎の裏へ抜ける。カメラの位置は、もう一度頭の中でなぞった。増えた分も含めて、次は通り道を変える必要がある。
警戒心が上がったのはいい。
それは本当に、いい。
……だが、見つかるのは別だ。
夜風が外套を引く。ヒバリはそれを振り払うように歩幅を速めた。
深夜のアビドスは、前より少しだけ変わっていた。
たぶん、もう前みたいには戻らない。
それが妙に腹立たしくて、ヒバリは学校の外へ消えた。